第52話 矛盾する身体

「うわっ、うわっ、な何?」

「うわっ×2って…、何だよ、俺は化け物か」


「ちょっと近すぎて、ビックリしちゃって。えっと、何?」


「何って、ボーっとしてたみたいだから。

にしても近くてって。

ああ、そっか」


 蒼龍は得心したようにニヤッと笑うと、半歩小蘭へ近づいた。


「な、何よ」


 反射的に、小蘭も半歩下がる。


「いや、久しぶり過ぎて耐性がなくなったのなー、なんて」


もう半歩、前に出る。

小蘭は、また半歩下がる。


「ば、バカなこと言ってないで」


 以前のように突っかかろうとして、しかし足は前に出ない。

じりじりと後ろへずり下がっていく小蘭を見、蒼龍がほくそ笑んだ。


「まあ、浅いとはいえもう夜だし。

腹も膨れたことだし、疲れたし。ちょい早いけど、寝よっかなー」


「寝るって、ここで?」

「いつものことだ、ダメなのか?」


「えっと、いけなくはないけど」


もじもじと下を向く小蘭をチラッと見て、蒼龍は寝台の方へと身を翻す。


「じゃ、先行くからな」

「ま、待ってあの」


 待ってましたとばかりに、蒼龍は大げさに振り向いた。


「なら、一緒に行く?」

「あ、う」


 差し出された左手。

 しかし小蘭はそれをどうしても取ることができない。

 どころか、身体が竦んでしまって動かない。じわり、嫌な汗が掌に浮き出る。


「どうした小——」

 不思議そうに首を傾げ、蒼龍が小蘭の肩に触れようとした時だった。


「い、いやだっ」


 反射的に、小蘭はその左手を払った。

 ピシャン。

 高い音だけが、しんと静まった部屋に響く。


「小蘭」


蒼龍は、まじまじと小蘭を見た。

当の小蘭も、自分の反応に驚いたように瞳を見開いている。


暫しの膠着の後、ふと、蒼龍が表情を緩めた。


「小蘭あの、俺は……いやいい。うん、俺やっぱ今夜は戻るわ」

「え?戻るってあの……凛麗のところ?」


「いいや、自室。本当はまだ勉強の途中でさ、ここへは、ちょっと休憩ぐらいのつもりだったんだ。何か食えるかなって。

そうそう、今夜最後までやっとかねえと、明日まともに受け答えできないしな」


「そ、そう」


 蒼龍は、さり気無く小蘭から離れると、両手で髪をしばり始める。

ほっと息を吐いた小蘭だったが、今度は急に、その胸を黒い不安が襲った。


 そうして、思わず尋ねていた。


「その……また、来てくれる、よね?」

「ああ、必ず。その、ゴメンな」


“私こそ、ごめん”

 言いかけて、しかしそれは声にはならない。

 蒼龍は、少し寂しそうに笑うと、元来た窓から再び宵闇に消えていった。


その後ろ姿が完全に闇と同化すると、小蘭はぺたりと床にへたり込んだ。


 私、どうして。久しぶりに蒼龍が来て、確かに嬉しかったなのに。

 なのにあの時、手と手が触れそうになった瞬間、咄嗟に嫌悪を感じてしまった。


 “汚らわしい”、凛麗を抱いた手で、触られたくないと。

 理性で幾重にも蓋をして覆い隠したつもりだったのに、体が勝手に拒否した。


 蒼龍、すごく傷付いた顔をしていた。折角来てくれたのに。


どうしよう、どうしよう、もうこのまま、2度と来てくれなかったら。

そうよ、あんな態度取ったら、誰だって嫌に決まってる。

どうしよう、私はこのまま、彼の拠り所にはなり得なくなってしまったら。

彼がもうずっと、凛麗のところに行ってしまって……



そんなの、絶対に嫌なのに___

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