第51話 訪い

 だめだ、もう寝よう。

 こうしていたって、いつものように同じ思考のループに取り込まれるだけ。


 今日こそ早く寝て、明日からは何か新しいことを始めよう。

 心の中でそう呟き、窓を閉めようと桟に手をかけたときだった。


「き……」

 薄闇のなか、ぬっとあらわれた大きな影が、目ばかりをギラギラと光らせて、じっとこちらを伺っている。


 思わず身体を強張らせた小蘭を全く解せず、そいつは窓に近づき、ついには桟に手をかけた。


「よお」

「ッキャーーー--ッ」


「おい、静かにしろよ、人が来たらどうすんだ」

「蒼龍!もう、脅かさないでよ」

「ったく、愛しの夫に、ギャアとはなんだよ。化物か俺は」


「変な近づきかたするからじゃない!

どうせ、わざとやってたくせに。そもそも、いつもおかしなところから入ってくるから」


「いつものコトだろ?お忍びだもん♪」


 彼は以前と同じように、窓を抜けて入ってきた。

 裾の塵を払うと、然り気無く問いかける。


「改めて久しぶり。息災か?」

「うん、まあ」


 互いに少しぎこちない。

 言葉が続かず、少し間が空く。

 それでも、小蘭は彼の顔を見ただけで満足だった。このひと月の心の靄がさっと晴れ、込み上げる嬉しさを止められない。


 聞きたいことは山ほどあった。

 でも、ようやく口を開いた時出たのは、こんな言葉だった。


「今日は……行かなくていいの?その」

「うん。もう、ひと月経ったから」

「ひと月?」


「そ。そういう決まりなんだ。それより、何か食い物ないか?腹が減っていけないんだ」


「うーん、婆やはもう寝ちゃったし。あ、ちょっと待ってて」


 そういって奥へ走った小蘭は、点心を盛った皿を抱えて戻ってきた。


「おやつの残りで、冷めちゃってて悪いけど」

「いや、ありがたいけど。ってか君、どんだけ食うんだよ」


 文句を言いながらも蒼龍は、円机に置かれたそれにがっつき始めた。余程腹が減っていたようだ。

 良かった、こうしてみると前までの蒼龍と何も変わらない。

 そのことに安堵を覚えつつ、小蘭はたずねた。


「ね、こんな遅くまで何してたの?」

「ああ、ちょっと勉強を。政務が急に忙しくなってきて。知ってるか?

 曹丞相。凛麗の父親になるんだが」


 その名前は、以前皇后様から聞いて知っている。政治の実質的な実権を握る、一の補佐官。だがその実態は、皇帝を補佐しながら虎視眈々とその座を狙う佞臣ではなかったか。


 小蘭が頷くと、蒼龍は饅頭を頬張りながら首を縦に振った。


「さすがだよ、曹は頭がいい。あいつとまともに渡り合おうと思ったら、付け焼き刃の知識じゃついていけない」 

「へえ、随分頑張ってるんだ」


 そうだ、気が付かなかった。

 彼にとっての結婚は、何も子作りをするためだけのものじゃない。むしろ、次期皇帝として次のステージに進むための大事な儀式。

 それに引き換え自分ときたら、いつまでも暗い嫉妬に囚われたまま、もやもやと心持て余して……

 何となく置いて行かれた気がして寂しい。


 頬杖をついたまま、表情を曇らせていると、いつの間にか食べ終わっている蒼龍がじっと見つめている。


「……何?どうかした?」

「いやその、そっちはどうだ。あれからは、おかしなことは起こってないか」

「ああ、大丈夫。何にもないよ。平和すぎて暇なくらい」

「そうか、ならよかったが」


 蒼龍に言った通り、あれ以来、凛麗はすっかり大人しくなっていた。

 凛麗が同じ宮に入内したことで、自分も碧衣達友人も、次は何をされるのかと戦々恐々していたが、廊下でたまにすれ違っても、端に控える小蘭の横を通り過ぎりるだけ。

 近頃では、小さく黙礼を寄越してくることさえある。

(後宮では、身分が高い后が通る時には絶対に低い身分の妃が道を空ける)


 あの火事の時、蒼龍に言われたことが余程効いているのかも知れないし、あるいは正妃になったことで余裕が生まれたのかも知れない。


 仲良くとはいかないまでも害なくやれているのだから、喜ぶべきことなんだけど。


「小蘭?」


 でも、やっぱり私は……



「おーい小蘭!」

「……え?う、わっ」

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