第29話 諍い

ああそうだ、今思えば、あの時自分が怖がる態度をとってしまったのがいけなかったのかも知れない。あの夜のことを思い出すと、小蘭は自然にため息が出てしまう。

初めのうちは、それでもよかった。蒼龍が来る日は楽しかったし、本格的に子作りをするのが怖いのも本当だった。

それでも、そういった恐怖は、そのうち自然に克服し、自分は彼の本来の意味での側妃になるのだろうと考えていた。

けれど。

それから半年がたち、一年がたってもその兆候は全くなく、まったりと変わらず、その関係で今に至る。

昨夜だって蒼龍は、いつものように婆やの調達した夜食を食べ、お喋りをして、同じ布団で眠っただけで、碧衣や 尚真が期待するような事には全くならなかったのだ。

なのに周りは常に小蘭に期待して、『ご懐妊の兆しは』と聞いてくる。三年前の御前試合の鮮烈な印象のせいで、皆にとって自分は今でも、『皇太子が愛してやまない』なのだ。


そりゃあ、黎妃様みたいな淑やかさや美しさには程遠いし、ちょっとだし。やっぱり、私ってそういう魅力ないのかなあ。

もう胸だって、随分と大きくなったのに。

はあ⋯⋯

ここのところ、小蘭のため息の回数は増えるばかりだ。


(小蘭、小蘭)

「え?」

「終わったわよ、房中術。ホラ、さっさと起きなさい」

「ああ、ありがとう」


気がつけば小蘭は、すっかり眠りこけてていたようだった。呆れ顔の二人が、地べたに座り込み、柳の幹に凭れた小蘭を見下ろしている。


「さ、次は楽器の授業よ、みんなもう行っちゃったんだから」

「私、楽器好きじゃないなあ…」

きびきびと告げた碧衣に引っ張り起こされ、小蘭はのっそりと立ち上がる。


「何をボーッとしてたのよ。まだ皇子様のことでも考えてたわけ」

「ち、違うわ、昨夜はちょっと寝不足で」

ねえ」


意味ありげに目配せし合う二人の意図を、小蘭は慌てて否定した。


「あの、違うからね。別にそういう意味じゃないから」

「あら、そういうのってどういうの?尚真、分からなーい。教えて?碧衣姉さん」

「さてね、それはもうめくるめく…」

「もー、二人とも本当に止めてったら」


余計に惨めになるじゃないの!そんな小蘭の心の内を知るはずもなく、蝶のようにひらひらと、裾を棚引かせ逃げる尚真と碧衣。

まだ幼い尚真は、調子に乗って、前を歩いていた別の三人組を躱し、なお先へ行こうとした。

その時____

「「あっ!」」

後ろを振り返りつつ、笑いながら逃げていた尚真がバランスを崩した。

そうして思い切りよく、真っ正面から倒れていった。


「尚真!」

「大丈夫!?」

「い、いたいよぉ。わああああんっ」

駆け寄った二人に助け起こされた尚真は、頬に擦り傷を負って泣いている。小蘭が横について裾の泥を払ってやっていると、碧衣がすっと立ち上がる。


そうして、

「ちょっと、待ちなさいよ」

知らん顔で前を行く三人にツカツカ歩み寄ると、右端の女の肩を掴んだ。

「あんたさ、今わざと足を出したよね?」


女はピタリと歩みを止めた。振り返りざまに、乱暴に碧衣の手を振り払う。

「あら嫌だ、人間以下の蛮族が、私の肩に触れたわ」

"ぽっちゃり"というよりは、"ずんぐり"とでも形容すべきか。小太りの身にジャラジャラと装飾品を身につけた姿は、飾り立てた子豚のようだ。彼女は、はち切れそうな頬を羽毛の扇でやっと隠すと、細く描いた眉を潜めた。


後宮の授業には、外部から身分の高い貴族の娘たちがやってくる。皇族の妃としてここから出られない小欄達とは違って、彼女らは花嫁修業として後宮の授業だけを受けに来る。未婚のうちは、外部とも自由に行き来ができる特権階級だ。彼女らは往々にして、小蘭達、辺境から来た娘蔑んでいる場合があるが、どうやらこの三人もその部類のようだった。


「バーカ。つまらないこと言ってんじゃないわよ。私はね、今あんたがわざと足を引っ掻けたんじゃないかって言ってんの。

見なよ、怪我して泣いてんじゃない。せめて一言くらい謝ったらどう?」


女は、まだ泣いている尚真と一緒に座って宥めている小欄を交互に見、口の端に冷笑を浮かべた。

「あら、ごめんあそばせ。私、野生動物と会話する術は持ち合わせていないのよ」

「は?」

女は、急に媚びるように表情を変え、真ん中にいる背の高い女に声をかけた。


「それよりも。動物の分際で、私達に下品な口を訊くだなんて。こんな不届き者には、罰を与えないと。ねえ、凛麗リンリィ様」

「…………」


しかし、声をかけられた真ん中の女は扇で顔を隠し、立ち止まったまま振り向かない。代わりに、左端の女がギッと目を剥き、馬に似た顔を碧衣に寄せてきた。

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