第13話 届かぬ祈り

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 その夜。

 ところ変わって、覇皇帝の閨──


 髪も髭も黒々と若く、七十の歳とは思えない筋肉質の引き締まった体躯。その覇帝に、限界まで攻め尽くされ、黎貴妃はぐったりと身を伏せていた。


 と、


「そう言えばこの間、蒼龍のヤツが珍しく儂に頼み事をしてきよった」

 隣の覇帝が、さも可笑しそうに話しかけてくる。

 一瞬、ピクリと耳を動かした黎妃だが、すぐに目を伏せて素っ気なく答えた。


「そうですか」  

「なんとまあ薄情な。貴妃よ、お前にも関係があることなのだぞ」  

「私に?」


 笑っているのか、皇帝は幾分目を細めると、くっと口元を歪ませた。


「そうよ。お前とたがえて抱いた姫を、気に入ったから寄越せだと。

 さて、黎妃よどうする?悔しかろう、相手は十六の小娘らしいが。違えられるなど、美しいお前にとってはこれ以上ない屈辱だろう。

 蒼龍の前で、女を八つ裂きにでもしてやるか?」


 この御方は、またそのような。試すようにたずねる皇帝に、黎妃は美しい眉をしかめた。

 

「差し上げれば、よろしいではありませんか」

「ほう、よいのか?お前を想って、閨にまで忍んできたものを」

「私が愛しているのは__陛下だけでございます」  

 

 そう言って、黎妃が肌けた胸にぴたりと身体を添わせると、彼は再び、満足そうに髭を揺らした。

 

「クックッ、我が子ながら同情する。蒼龍も哀れなものよの」

「……」


 _________


 覇帝様、また一段と鼾の音が大きくなられた。どこかお悪いのかもしれない。


 半身を起こし、隣で眠る皇帝を見つめている黎妃。その瞳には、なんの感情いろも宿っていない。


 蒼大哥にいさまから突然引き離され、ここに連れてこられたのは、もう三年も前のこと。

 最初の頃は、長くたくわえられたあの髭も、乱暴にかき抱かれることも、閨の四隅に家来を置かれていることも、イヤでたまらなかった。


 毎日毎日、部屋に籠って泣いていたら、お付きの宦官にそっと諭された。

 “貴女の嘆きは、蒼太子の反逆の意志ととられます”


 覇帝様は恐ろしい方だ。少しでも私が拒絶を示せば、たった一人の嫡子にさえ容赦はしない、と。


 以来自分は、命を絶つことも叶わずに、ここに囚われたままでいる。


 黎妃は、さっき皇帝に言われたことを思い返していた。

『身代わりに抱いた姫を気に入ったと__』

『儂(わし)に珍しく頼み事を__』


 蒼大哥にいさまは、惨たらしく焼かれた街の中から、私を救い出してくれたただ一人のひと。それだけでも私には十分だったのに……

 衣と食と、この国での居場所をくれて、さらに言葉と字を教え、仕舞いにはそれ以上の幸せさえも私に教えてくださった。

 そしてまた今も、私を救い出そうとしてくださる。


 けれどもういい。 


 私はもう、貴方に顔を合わせられないくらいに汚れてしまった。死ぬことさえ出来ない私には、あのおぞましい愛の中に身を置いて、溺れてしまわなければ、とても耐えられなかったから。


『八つ裂きにでもしてやるか?』

 

 その姫が妬ましくないと言えば嘘になる。

にいさまの胸の中に、清らかな姫がいることを想像すれば、身が燃えるように熱くなる。

 けれど。

 その方が私に代わってにいさまを癒して下さるなら、にいさまが私を忘れることに力を貸してくださるならば、もうそれでいい。


 「八つ裂き」など望まない。


 猜疑心の強い帝は、閨の中にも常に見張りの兵を置く。彼らは息を潜めて私を見張り、一挙一動さえ見逃さない。

 だからもう、私には蒼大哥にいさまの名を口に出すことも叶わない。

 だが、これくらいは赦されよう。


 彼女は、夫の眠る頭の上に、空に指で文字を書いた。少女だった彼女が、初めて覚えたその文字を。


 “ツァンタァグゥー ”


 出来ることならにいさまに幸せを。



 世にも美しい傾城の

 翡翠の瞳から零れ落ちた一粒の涙。


 悲痛な祈りは

 愛しいひとには届かない__

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