第9話 裂かれたふたり
「
春明が小蘭に語ったのは、抗えぬ力に裂かれた
若き日の皇子と姫の儚く哀しい恋物語──
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黎貴妃は、国での名をレイラといいました。
今から八年前ほど前のこと。
その頃、覇王様は戦に明け暮れており、レイラの故郷の遠い北国も、戦火の中、滅びゆく運命にありました。
蒼太子は、齢十五の時、そこで初陣を飾りました。
滅びたばかりの王都では、瓦礫の山に略奪強盗、荒廃ばかりが拡がってゆく…
そんな中、蒼太子に与えられた任務は、戦地に残された民の慰撫と治安の維持です。
彼は、死屍累々の転がる街に、自らの愛馬を進ませていました。
とある壊れた家屋の傍を通りかかった時、彼は、押し殺した泣き声のような音を聞きました。不審に思い、馬を降りて覗いてみると、
『誰かいるのか?』
『ひっ』
壊れた家屋の片隅に、隠れ震える少女の姿が。
それがレイラ、今の黎妃様です。
彼にとっては初めての戦、滅ぼした国の人の死と、その惨状に心を痛めていた蒼太子は、その様にひどく心を揺さぶられました。彼はその心のままに、いたいけな少女に手を差し伸べます。
『怖がらないで、大丈夫だから』
少女ははじめこそ怯えていましたが、その暖かな面差しに、やがて小さく頷いて、差し伸べられた手を取りました。
遠征が終わると、蒼太子はレイラを都へと連れて帰りました。
そして、それは熱心に彼女の世話を焼いたのです。
だが、レイラは何も喋れなくなっていました。
こちらの言葉が通じなかったせいもありますが、戦争のショックで声を失っていたのです。
そんな彼女に蒼太子は、身ぶり手振りで懸命に言葉を教えていました。
が、その努力も空しく、レイラの心の傷は癒えぬまま時が経ちます。
それでもなお諦めずに、彼は根気よく彼女に話し続けていました。
今でも私は覚えています。ある日彼が私の所にやってきて、
『彼女が笑ったのだ』
と、それは嬉しそうに話してくれたのを。
さらに年月が流れて…
ここまでくれば、自然の成り行きだったのでしょうね。
落花が水に流れるかの如く、2人は互いに惹かれ合い、恋に落ちてゆきました。
二人が逢瀬を重ねていたのは、後宮の李園。春には可愛らしい花を、晩夏には、甘い香りの実をつけるとても美しい桃園です。
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先生はそこで言葉を切った。
「当時はね、単に『レイラ』と親しみをこめ、誰もがそう呼んでいた。
あの娘は、誰が見てもとても可愛らしくって。
まるで花が綻ぶように笑う彼女の周りには、いつも自然に人が集まりました。
それは、蒼龍太子の恋人になった後でも、彼を狙う
二人が寄り添っている姿は、幸福の象徴そのものでした」
春明は、長い睫毛をすっと伏せた。
「レイラはとても綺麗な娘です。瞳は翡翠の深い緑、髪は白金のように光に透け、異国の爽風をそこに運んでくるような。
それが、異性からの惜しみない愛を受け、ますます美しくなっていった。
そういえば…小蘭は部族が近いのかな。髪と目の色が似ているね」
春明は、小蘭の髪をサラリと鋤いた。
照れ臭いのと、指がくすぐったくて、小蘭が肩を竦めると、春明は優しく笑っている。
確かに、そこだけは似てるかもしれない。もっとも、私の髪は癖毛だし、あんなに綺麗じゃないけれど。
小蘭が考えていると、途端に先生の表情が曇り、声の
「ただ、彼女は美しくなりすぎました。噂が宮中に広く伝わって、皇帝の耳に入るほどに」
「その日の夕暮れ。いつものように支度を整え、李園に向かおうとしていたレイラは、突如、宦官長に呼び出されました。臣下の誰かが、彼女の噂を皇帝の耳に入れたのです。
“噂の姫を一目見たい”と、皇帝はほんのきまぐれに、少女を御前に呼びました。
だが…
一目見るなり、聞くに違わぬ美しさに、見事に心を奪われました。
『ほう…これは…』
その対面には、私も居合わせていました。前代未聞の出来事です。
ふらふらと玉座を立ち上がった皇帝は、怯えてひれ伏す少女の前に膝を折り、
『美しい…もっとよく顔を見せよ』
『陛下、どうかお許しを、どうか…あ…』
まるで夢遊病者のように陶酔の表情を浮かべながら、彼女の唇を奪いました。
そうして、
『怖がるな』
『あ…あ…』
軽々彼女を抱き上げると、多くの家臣が見ている中、玉座の奥へ連れ去ったのです。
誰もが、諌める隙さえありませんでした。
後に残ったのはレイラの翡翠の瞳から零れた涙と、来るはずのない恋人を待つ、月夜の李園の影ばかり___
「そんな…」
「ある日突然、何の先触れもないまま、互いを半身のように想っていた二人は引き裂かれてしまいました。
陛下はレイラに『
「蒼龍は、蒼龍はどうなったの?」
「それを知った蒼太子は、狂わんばかりに嘆き、悲しみ、そして怒りに吼えていました。
だが、どうにもならないことを知ると…姫を想ってただ泣いていました」
「そんなの酷すぎるよ…実のお父さんなのに」
「大きな力を前に、若い二人は成す術がなかった。当時の太子は、今よりずっと繊細な青年でしたが…
痛いほどに、己の無力を悟ったのでしょう。
誰よりも強くありたいと願い、変わろうとし、そして今のように変わっていった。
強く逞しく、少しばかりやんちゃで我儘に。
私にはそう見えます」
話を終えると、春明は乾いた喉を茶で潤した。
「どうされました、桃饅頭はお嫌いでしたか」
小蘭は首を横に振った。眼の周りから、顔に熱が広がってゆく。
「そんな…レイラが…太子様が…」
小蘭の、膝に置いた拳の上に、ポタリと温い雫が落ちる。
「蒼龍が、蒼龍が可哀想だわ」
無遠慮に、次々に頬を流れる涙。
それを見た春明は、小蘭の傍らにそっと身を寄せた。頭を自身の膝に寝かせ、緩やかに背を擦ってくれる。
「よしよし、いい子だね小蘭は。
今ではもう、二人のために泣いてやるものは誰もいなくなったというのに」
「うっ…ぇ…」
「せめて捧げてやっておくれ、憐れな恋人達のために、純粋な涙を」
どこか遠くの国や、はるか昔の物語ならば、儚く美しい悲恋だと胸を熱くすることができただろう。
でも、それが一度でも出会った、ましてや身近に思う人ならば__
その日小蘭は、春明先生の膝上で、日が暮れるまでいつまでもいつまでも泣き続けていた。
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