第8話 叶わぬ恋慕

「夜、やたら外が騒がしいと思ったら。蒼太子、やはり貴方でしたか」


「…うっさい」


 翌朝、まだ暗いうちに厩を抜け出した二人は、蒼龍の案内で抜け道をゆき、藁やら枯葉にまみれた姿で、先生の寝室に転がり込んだ。


 冷ややかな視線を浴びせる春明に、蒼龍はむすっとしている。


一方で、小蘭に目をやった春明は、さっきとはまるで違う笑顔を見せた。


「可哀想に、大変なとばっちりでしたね小蘭」

「先生、私、怖かったです」


 潤んだ瞳で甘える小蘭の頭を、春明は子犬のように優しく撫でた。


「仕方ありません、今回は小蘭に免じて、匿ってあげましょう。ただしそれは少しの間、長くは持ちませんからね。

 蒼太子には早めに策を講じて頂かないと」


「分かってる!小蘭と俺とじゃ偉い違いだな」

 苦々しげに文句を言うと、蒼龍は、先生に甘えていた小蘭を、強引に自分に引き寄せた。


「わっ、何すんのよ」

「君もだ、そっちにばかり甘えるな。一夜を供にした仲じゃないか」


「なっ…」

「ほう」

「何言ってるのよ、加害者の癖にっ」 


 腕からもがき出ようとする小蘭に、蒼龍は楽しそうに腕を絡めた。


「そう照れるなよな」

「照れてない、キモいこと言うなっ」


「ハイハイ、ニ人とも騒がしくしない。隠れているのがバレてしまうでしょう。

 さて、お腹も空いたことでしょうから、朝粥でも馳走しましょうか」

 春明はふたりを奥の間に誘うと、すぐ戸口に『隔離』の札をかけた。


 食事を運んで来た給士見習いの宦官が、興味本位で部屋を覗こうとした折には、

 “この部屋の患者は、疱瘡で気が触れている。決して近づかないように”

 などと真顔で脅して追い払った。


 おかしなことに、その“重病人”達は、中華粥と胡麻団子を食べながら、春明先生と談笑中だ。


「あ~あ、行きたくねぇな」

 さっきから蒼龍がしきりにぼやいている。


「あ~、でも、そろそろ行かないとな~。昨日の今日だし、カンカンだろうなぁ、親父」

「早く行きなさい。遅ければ遅いほど、あの御方は難しくなられる」


「分かってるってそんなこと、でも」

「ね、何処へ行くの?」

「…………」


 答えようとしない蒼龍の代わりに、春明が解説してくれた。


「蒼太子は皇太子として官位を持っておられるから、大臣達が毎朝行う朝礼に行くのですよ。その朝礼には、皇帝陛下もおられますから」

「ふうん、何だ、私と一緒に隠れているわけじゃないのね」


「勿論です。何せ一国の太子ですから、きちんと仕事をしてもらわなくては」


 とはいえ彼は、ゴロゴロといつまでも寝そべって、一向に腰を上げる気配がない。

 すると、

「蒼太子」

 春明が彼を呼んだ。片眉を上げた彼が、面倒そうに春明を見る。


 春明は、一瞬の躊躇いの後に厳しい視線を蒼龍に投げた。


「いい加減に黎妃リーフェイ様を追うのはお止めなさい」


「何だと!」

 途端、蒼龍が飛び起きる。


  何よ、また黎妃様の話……え?

 小蘭が思った時には、蒼龍は、ものすごい剣幕で春明に詰め寄っていた。


「レイラ、黎妃は最初っから俺のものだった。取り戻して何が悪い」


「黎妃様が迷惑していると申し上げているのです。あの娘がとっくに理不尽を受け入れているというのに、貴方が駄々を捏ねてどうする」

「なんだと!」


 蒼龍は真近に顔を寄せると、春明の襟元を掴んだ。その怒りに満ちた眼力だけで、春明を殺してしまいそうだ。 


 だが春明は、それを涼やかな顔で受け止めた。


「貴方が追えば、あの娘が辛い。それを分からない貴方ではないでしょう。考えてもみなさい。

 父子の板挟みになったあの娘が、どんなに苦しんでいるか、どんな呵責かしゃくを受けるのか。そして、他の誰を巻き込むのかを」


 蒼龍は、恐ろしい顔で春明を睨んだままだ。


「蒼太子、貴方にはショックがもしれないが…

 あの娘はね。昨夜貴方が来るのを知っていて、私に仮病を頼んだんです。貴方に会わなくても済むように」

「な、なんで」


 にわかに、蒼龍の顔から血の気が引いた。

それを見た春明が深い溜め息をつく。


「蒼太子。貴方は昨夜、黎妃リーフェイが伽に出る事を、一体誰から聞いたのですか」

「そ、それは…」


「蒼太子、この世にはね。妬ましさに、下らぬ意地悪を楽しむ輩がいるんですよ。

 大方、貴方に情報を流した者は、その口で貴妃の女官に注進したのでしょう」

「あいつ…」

 唇を噛む蒼龍に、春明が畳みかけた。


「気に入りの黎妃に袖にされ、皇帝陛下は一気に不機嫌になられたのだ。そして、憂さ晴らしのため、後宮ここで一番幼い姫が、その夜の伽に選ばれた。

 誰かはもう、お分かりですね?」


「「あ…」」

そうか、それで私が選ばれた。小蘭はそれで合点がいった。

 絶句する蒼龍を見てとると、春明は語調を強くした。


「その挙げ句が“今”だ。貴方の身勝手な行動は、小蘭の命を危険に晒した」


 蒼龍の顔がみるみる青ざめてゆく。やがて、掴んでいた春明の襟元を離すと、力なく項垂れた。


「少し強く言いすぎました。が、敢えて言います。

 あの娘は、貴方を護りたいのです。貴方がこれ以上陛下の機嫌を損ねないよう、他の誰を犠牲にしてでも。あの娘の気持ちを考えておやり」

 紫色の瞳が哀切を湛えている。

 数秒の沈黙の後。


「親父に侘び入れてくる」


 弱々しくそう告げると、蒼龍は戸口へと向かった。

 やがて、静かに戸の締まる音がした。


「どういう事?」

 さっきからのやり取りを、固唾を呑んで見守っていた小蘭が尋ねた。

後を追うように部屋を出ようとしていた春明が振り返る。


「そう言うと思ったよ。これから、午前の回診があるから、いい子でここで待っておいで。昔の話をしてあげよう」

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