第6話 不安

 こいつマジか。

 掴んだ袖を力なく離すと、小蘭はがっくりと肩を落とした。


 「どうした、休まないのか。敷藁の寝台ベッドが嫌なら、俺の上だって構わないが…痛ッ」

 勢いで彼の頭を叩いた小蘭だったが、次の瞬間には膝を抱えてしまった。


「ううん、それは平気。うちは騎馬の民だもの、馬と一緒に育ったようなもんだから」

「へえ、逞しいんだな。にしては、急に元気が無くなったみたいだ。もしかして、例のアレか」

「違う!……。だってあんまりなんだもん」


 もう、相手が間男だろうが皇太子だろうが知ったことか。これだけ酷い目に遭わされたんだから、愚痴のひとつでも言わせて欲しい。

 小蘭の口から本音が溢れ出た。


「今日はもう散々よ。皇帝の夜伽から始まって、雲流に変な事をされて。その上、大好きな春明先生に隅々まで検分されて…

 よく分かんない初対面の男にファーストキスを奪われて、挙げ句『牛裂き』だなんて。そんなのってない、酷すぎるわ」

「あははは、ずいぶんと忙しい一日だったな」


 誤魔化すように笑った彼を小蘭はきっと睨んだ。

!その初対面男は全く頼りにならない始末。

 …………。

 そうだ、私、後宮ここを脱走するわ。うまく逃げおおせたら、城下町に紛れ込んで町民として暮らすの。よーし、こうしちゃあいられない」


 小蘭は勢いよく立ち上がると、着衣の裾をまくりあげた。


 「あ、この上着は餞別に貰っていくね。このままじゃ、さすがに寒いし…

 じゃあね、もう二度と会うこともないだろうけど、蒼龍も頑張って。あんまり女の子のお尻ばっかり追いかけてんじゃないわよ」

 「おい、待てよ」


 ひらひら手を振り、背を向けようとする小蘭の手を、蒼龍はぐっと掴んだ。


「な、何よ」

「ちょっと落ち着け」

 怖い顔で睨む蒼龍に、小蘭はパニック気味に返した。


「落ち着いてなんかいられないわ。早くしないと…うちの国に『自分の身は自分で守れ』という、ありがたい教えがあって、きゃっ」


 瞬間、小蘭は強い力で蒼龍に引き寄せられた。干し草の上に沈められた身体は、素早く両腕を拘束されて、彼の下に組み敷かれる。


「落ち着けと言っている」

「離して、人を呼ぶわよ!」

「馬鹿か、隠れてるのに人呼んじゃダメだろ。静かにしろ、爺さんが起きちまう」


 大きな掌が、小蘭の顔半分に押し当てられる。


「う…ぐ…」

 最初こそ、身を捩って抵抗していた小蘭も、やがては疲れ、弱っていった。そして、蒼龍が手を退ける頃には、すっかり大人しくなっていた。


「全く、困ったやつだな。いいか?今一人で逃げても、まず君は城壁を抜けられない。捕まって引き出されるのがおちだ。万一うまく抜けられたとして…」


 彼はギリッと歯軋りをした。


「城下をうろつく賊どもに、身ぐるみ剥がされて、散々乱暴されるだろうよ。そうした上で、人買いに売られるか、下手すりゃ命まで奪われる」

「こんなに大きくて、華やかな都でも?」

「ああそうだ。君の育った国とは違う。平和は武力で護られている。物騒だから、高い塀で囲うんだ」


 まるで童子こどもに言い含めるような声音。小蘭が落ち着いたのをみてとったのか、蒼龍は腕の拘束を緩めた。片手を抜き、ふわりと金色の髪を撫でる。


 窓から覗いた月が、自信に満ちた笑顔を照らした。


「まあ、俺に任せとけって。絶対に何とかして見せる。君には悪いことしたと思ってるし。……好きなの命だ、必ず護ってみせるから」


 尻すぼみに消えた最後の声は小蘭には届かなかったが、濡れた頬を拭った彼の手があんまり暖かかったから。


 「うん、わかった」


 小蘭はすっかり嬉しくなって、いつの間にか笑っていた。

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