第5話 真夜中の逃亡
松明の赤い炎が、暗闇のそこかしこに散らばっている。
「おーい、いたか」
「いや、いない」
「いたぞ、あっちに人影が」
ゴウッ。
ヤニの燃える匂いが鼻先を掠めたかと思うと、具足の足音が遠ざかってゆく。
小蘭の口を塞いでいた手が離れ、新鮮な空気が肺を満たした。
「やっと行ったか。おい、もう喋っていいぞ」
「ゴホゴホッ、『喋っていいぞ』じゃないでしょ、何で私が追いかけられなきゃいけないの」
「そりゃあ。君がさっき、馬屋番の爺さんを後ろ蹴りでノックアウトしたからだろ」
「ぐっ」
喉を詰まらせた小蘭は、しおしおと振り上げた拳を下ろした。憐れな馬屋番のお爺さんは今、番小屋の中でグッタリと気絶している。
「あれはあんたがやったんだわ…クシュッ」
初夏とはいっても、真夜中に下着同然の姿ではさすがに寒い。小蘭が鼻を煤っていると、彼はのんびりと笑った。
「いーや、とどめは君の蹴りだった。肩に担がれた状態であんな綺麗にきまったのは初めて見た。これでも着てなよ、寒いだろ」
彼は上衣を脱いで小蘭の肩に掛けた。それからフウッと一息つき、干し草の山に倒れ込む。
「ありがと」
彼から施しを受けるのは不本意だったが、寒さには勝てない。滑らかな絹の藍染の上衣に、錦糸の龍の紋様の刺繍。
それは辺境から来た小蘭にでも分かるほどの高価な品。盗品でなけりゃ、彼は相当の
「ねぇ、何で私を拐ったの」
「何だよ、急に静かになって。まあ、名前も知らないんじゃ話しにくい。自己紹介といこうじゃないか。俺は…」
「知ってるわ。
「ああそう蒼龍だ、君は?」
「
彼は苦笑いした。
「確かに名前負けは認めるよ。『小蘭』は君にピッタリだ」
「どうせ「小」の字が、でしょ」
背が低いのをからかわれるのには、昔っから慣れている。小蘭がふいと顔を叛けると、彼はクスッと笑んだ。
「いいや。いい名前だと思うよ。北の大地に拡がる花畑の、可憐な一輪ってとこか」
「ぶはっ」
気障っちい奴。急にさっきの
「何がおかしいのよ、この…」
からかわれたんだと知って、小蘭が食ってかかろうとした矢先、彼が急に顔を曇らせた。
「しかし、困ったことになったな…」
「何が?」
「あの時小蘭が子猿みたいに暴れなけりゃ、こんな逃亡しなくてよかったのに」
「む、誰が子猿よ、それを言うなら、あなたなんか
彼は小蘭を哀れっぽく見つめ、大きなため息をついた。
「ハアァ。君って、本当に何も知らないんだな。いいか、姦通の罪ってのはなあ。
裁判なし、文句なしの『死罪』だぜ」
「カンツー?……し…ざい?」
ナニそれオイシイノ?
キョトンとしている小蘭に、彼はもっともらしく頷いた。
「ああ。覇王、おまえの夫な。現皇帝は特に残虐を好む。しかも己の面子を潰されて、相当ムカついてるときた。恐らくは公開処刑『牛裂き』だ」
「牛裂き?」
その言葉の不穏な響きに、小蘭は思わず身を震わせた。蒼龍は淡々と解説を進める。
「ああ。詳しく言うとだな。まず、処刑台の上に寝かされた罪人の手足を縄で括るんだ」
「う、うん」
「その先を、それぞれ4匹の牛の角に別々に括るだろ」
「う~」
「で、東西南北それぞれに向かせた牛を、刑史が追い立てると」
「あーーーもういいっ、もういいから!」
小蘭は思わず耳を塞いだ。身体から血の気が引いていく。
「ってことはつまり、見つかったら最後、私もあんたも四肢切断のスプラッターってこと!?」
彼は首を横に振った。
「いいやそれが…すまないが、恐らくそうなるのは君だけだろうと思う」
蒼龍は気まずそうに語尾を濁した。
「は、何で?私は無理矢理あんたに襲われただけなのに?むしろ悪いのはあんたじゃない」
「まあ、それはそうなんだが」
「そんなのおかしい、理不尽だわ!」
詰め寄る小蘭を、蒼龍は本当に気の毒そうに見た。
「君、本当に何にも知らないんだな。その、ものすごい云いにくいんだけどな。
俺さ、
「げ、それってまさか」
「そ。俗にいう、
ケロリと言った彼に、小蘭は真っ白に固まった。
「ふ、ふーん、そっか
つい、正直な感想が口を突いた。
「ば…バカ皇子…」
「うっさいな。あ、虫が入った」
真っ青になった小蘭をよそに、呑気に彼は胸を掻いている。
そりゃあ、只の間男とは違うとは思ったわよ?でも、こんなのが
あ、でも……
「ならさ、さっきの『牛…ゴニョゴニョ』ってやつ。何とかなるんじゃないの?ほら、謎の権力で」
「う~ん、俺もさっきから考えてはいるんだが。何せあっちは、最高権力者だしなぁ」
小蘭は蒼龍に縋りついた。
「そんな殺生な、もっとよく考えてよっ」
「…………」
彼は、黙って天井を睨んだ。
「ま、今日のところは何も出ねえ。少し疲れた。一眠りすれば頭も冴えるだろ。君も横になるといい。お妃様に、こんな藁の
彼は “うーん”と腕を伸ばすと、寝返りを打って小蘭に背を向けてしまった。
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