第4話 正体

 折よく再び雲が途切れ、小窓から顔を見せた月に、男の姿はよりくっきりと鮮明に映し出された。


 その姿に小蘭は、つい魅了されてしまった。


 目の前に、見たこともないような美しい顔立ちの男が、まじまじと自分を見つめている。


 髪こそ結い上げず、無造作に下ろしたままだが、面長に高い鼻梁の端正な顔立ちは、とても野卑な間男には見えない。

 形のいい弓なりの眉は眉尻に向かって細く、どことなく気品が漂う。

 だが、何より印象的なのは、強い目の輝きだ。

 大きく見開かれた双眸は長い睫毛で縁取られ、その中に意思の強そうな黒い瞳が、どこか悪戯そうな光をキラキラと湛える。


 春明先生とはまた違った、颯爽として凛々しい雰囲気。


 見つめ合うこと十数秒。

 ぼんやりと見惚れていた小蘭の両肩に、男はぽん、と手を置いた。


 真顔で一言。


「ごめん、間違えた」

「は?」


 彼は屈託なく笑った。

「いや、 悪い、人違いだったわ。どうりて胸が貧弱…痛っ!」


 小蘭は、彼の胸を思い切り拳で殴った。


「何それ『人違い』?そんなんで私は、貴重な初接吻ファースト・キスと、その他諸々を奪われたってこと?」


「ま、まあいいじゃないか。接吻キスなんて大層なもんじゃないし、そこまで先に進んだわけでは…うおっ、危ねっ」


「¤₩₨▽₨₧₡▽¤◈₩~~‼‼」

 我を忘れて掴みかかる小蘭を上手に躱し、彼はひらりと寝台から飛び降りた。


「うっわ、引くわ。聞いたことない汚い言葉」


 彼を追い、寝台から飛び降りて攻撃をしかける小蘭。しかし彼は、そんな小蘭をジャレる仔犬のように軽くいなす。


「このっ」

 小蘭がようやく懐に入り、一発入れようとした時、にわかに彼の表情が変わった。


「しっ、静かにしろ」

 彼はそのまま小蘭を捕らえ、抱え込むように腕で口を塞いだ。


「モガッ…ら、らり(何)すんの」

「ほら、聞こえるだろ」


 言われて耳を澄ますと、ジャーン、という銅鑼の音に、チッ、チッと微かな舌打ちらしき音がする。音は次第に大きくなり、こちらに近づいて来る。

 

「まずいな、意外に早かった」

「はひ《なに》よほへ《これ》」

「知らないのか。皇帝殿の “お成り” だよ」

「皇…帝」


 音だけで、物々しさは想像できる。

 思わず、旅芸人の猿回しを思い浮かべ、小蘭がクスッと笑っていると、


「フン、あのバカバカしさったらないね。“今から女とヤりきました”って、触れ回ってるようなもんだぜ。いい年して気がしれねぇや」


 彼もまた、同調シンクロしたように毒を吐く。二人は顔を見合わせて笑った。


 それから、


「さて…と、ノンビリしてる場合じゃねえや。じゃ、元気でな小娘」

 彼はヒラヒラと手を振ると、入ってきた窓へ向かおうとする。


「ちょっと、待ちなさいよ」

すかさず小蘭は彼の帯を掴んだ。

「何だ離せよ。俺、ここに居るとヤバイんだ」


 錦糸の帯を引っ張ると、小蘭はそれを手綱のように手に巻き付け、彼を自分に引寄せた。


「逃がすか間男。あんたには、今の状況と私の身の潔白を、皇帝にきっちり説明して貰わないと」

「な、ばか言うなよ。分かるだろ、見つかると色々と困るんだよ。いや、寧ろお前の方が」


「はあぁ?そんなんで私を騙せるとでも思ってんの?

 私は何にも悪いことしてないんだから、問題ないわ。あんたはここに残って、しかるべき罰を受けなさい!」


「あ~、もうワケ分からないチビだな。帯を離せっ」

「離すか変態」


 二人が言い争ううちに、ギギィーと再び扉が開き、強い光が差し込んだ。


「あ~、クソ面倒くせえ!」

「何よ、やる気なら…ぎゃんっ」

 彼は小蘭の腕を掴むと、乱暴に引き寄せた。


「逃げるぞ」

「何ですって?!」


 程なくして。


「覇帝様のお越~し~~」

 先導の宦官の甲高い声が閨房内に響きわたった。

 

 と同時に、彼は小蘭を荷物のように肩に乗せ、驚くほどの素早さで、窓際まで走り寄る。


 「ちょっ、降ろしなさいよ、降ろせったら!」

 「暴れんなアホ娘」


 すったもんだしているうちに、とうとう扉は全開になり、二人の姿が光の中に晒された。

 それを見た先導の宦官が、“ひっ” と息をつまらせた。


「チッ、遅かったか」

 後ろにあった大きな影が、太鼓のように腹に響く低声を発した。


「お前、蒼龍ツァンロンか」


 小さなため息とともに、彼は声の方へ振り返った。と思えば、人を食ったような笑みを浮かべ、片手で恭しく礼をとる。


「これはこれは皇帝陛下。今宵は月がきれいですね、ごきげん麗しゅう。しかし閣下、残念ながら先を急ぐ身、今宵は略式にて失礼を」

「貴っ様」


 苦々しい声が何か言おうとした途端、ニッと不敵に笑った彼。と同時に、バッと窓枠に飛び移る。


「あっ」


 そうして次の刹那には、肩に担いだ小蘭とともに、漆黒の闇の中へと消えていた____

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