第3話 間男

 ギギィーー……


 重たい鉄の扉が閉まると、小蘭は、豪奢な寝台の上に取り残された。灯りは蝋燭の炎がひとつのみ、四隅の銀の燭台に火を入れるのは、皇帝の従者のお役目だ。


 薄暗い寝室に目が馴れると、徐々に部屋の様子が浮かんでくる。

 幾重にも重ねられたシルクの天幕には、うっすらと海百合の模様が透かされ、天蓋は赤と緑のビロードで、金糸の刺繍で彩られている。


 羽根の布団が敷き詰められた寝台の上で、痩せっぽっちの身体に、肌の透けそうな絹の下衣を巻き付け、小蘭は皇帝のご来迎を待つ。

 贅を凝らした豪華な寝室は、さっきの惨めな洗礼とは掛け離れていて、かえって俗な感じがする。


 ひょうっ。

 ふいに、冷たい風が身体を突き抜けた気がして、小蘭は両腕で自分を抱き締めた。


 というか、寒い。

 よく見れば、本当に風が入ってきている。


「せめて、戸締まりくらいしろっての」

 小蘭は文句を言いながら部屋を見渡し、風の入る箇所を探った。


 と、

 ビョウウッ。


 一きわ大きな風が吹き、蝋燭の炎を横倒しに揺らして消してしまった。

 真っ暗にはなったが、おかげで風の向きが分かったので、小蘭はその方向を振り向いた。


 朱枠の出窓は、さっきまできっちりと閉まっていた筈なのに、いつの間にか垂幕が風にひらひらそよいでいる。


 何故かしら。

 皇帝の寝室が、隙間風が入るほど立て付け悪いってこと、ある?


 小蘭が首を捻りながら二度見した時。


 ざわわっ。


 庭の樹々が揺れる音がした。と同時に雲が晴れ、窓から半月が覗く。

 月光が、大理石の床に6つに割れた窓枠の影を映し出した。

 小蘭が不思議な気持ちでそれを見ていると、ふと、窓枠が別な影で覆われた。


 二本足の影。

 もしかして、人?


 間違いない。逆光の高窓に大きな黒影が立ち、じっとこちらを窺っている。


「ひっ、た、助け……」


 悲鳴を上げようとした時、故郷の神話に伝わる珍獣、ヒヒほどもある大きな影は、獣じみた早さでこちらに飛んだ。


「うぐ」

 その影は、素早く寝台に上がり込むと、後ろから小蘭を抱き込んで口を塞ぐ。叫びは、空しく封じられた。


 コイツは、悪鬼?

 それとも、物怪?


 あまりの恐ろしさに涙する小蘭に、しかしソイツは、存外優しく囁きかけた。


 「静かにして、外の見張りに気づかれてしまうから」


 聞こえたのは確かに人間の男の声。

 言葉は夏国のものだ。

 言われた通りに大人しくしていると、ソイツは満足そうに笑った。


「フフッ、そんなに怖がらないで。ずっと貴女に、お逢いしたかった」

 刺激しまいと固まっている小蘭に、男は一たび、笑いかけた。


「どうした妃。私をもう、お忘れか?」

 

 私のことを“妃”と言った?

 ということは、彼が皇帝なんだろうか。

 忘れたも何も、こっちは初対面なんだけど。


 小蘭の頭には、たくさんの疑問符が行き交っている。

 一方、すっかり大人しくなった小蘭に安心した男は、口を塞いでいた指を解いた。

 そして突然、人差し指と中指で唇を開かせ、口の中にそれを滑り込ませてきた。

「んっ……んんっ!?」


 いきなり何するのこの男。

 驚いた小蘭は、頭を振って男の指を吐き出そうとした。


「こ、こら、大人しくしないか」


 小蘭を抑えつけようと、男が焦っている。

そこでふと小蘭は、春明先生の言葉を思い出した。

 『何をされようとも決して逆らわないこと』


 ああ、そうだった。残虐非道な帝への対処法は、何をされても無抵抗でいることだ。


 小蘭が暴れるのを止めると、

「よし、いいコだ」

 男は再び満足そうな声に戻った。


「う」

 硬くて長い男の指が、無遠慮に口腔内を掻き回す。かなり気持ち悪いが、先生に言われた通り我慢しなくてはいけない。


 なすがままにされながら、小蘭は考えた。


 皇帝は、てっきりあの重たそうな鉄扉の、正面から入ってくるとばかり思っていたけれど、窓から入るのがこの国の作法なのかしら。

 恥ずかしいコトだから、入り方までコソコソするのかな。


 気持ち悪いのに耐え、考えることに集中して、小蘭は努めて従順に男の行為に身を委ねていた。

 そうしているうちに変に身体が変に火照りだした。香炉から漂っている、妖しい香りのせいなのだろうか。頭の芯がボーッとして、フワフワと浮きあがるような気分。身体の芯が疼いて熱い。


「うん」

 思わず漏れ出た甘い呻きに、男は喜色を顕にした。


「やっと、思い出してくれたか」

 そうして、七十を越えたお爺ちゃんにしては、えらく俊敏に正面に回り込んだ。


「ああ、妃よ。貴女に魅せられた憐れな私は、毎夜眠らず、この刹那を夢見ておりました」


 漆黒の闇の中。男は、謳うような口説き文句をほざき、待ってましたとばかりに、挿し入れた指で小蘭の唇を開かせて、己のそれを重ねる。


「ああ、まるで綿のように柔らかな」

 唇を接わせたまま、甘ったるい声で呟く。


 これは、小蘭も知っていた。

 故国の収穫の踊りの後、上から二番目の兄ちゃんが、その年の踊り子とこっそりしていた。

 木の上で一緒に見てた三つ年上の兄ちゃんが、『好きな子とやるんだぜ』

と、ニヤニヤしながら教えてくれた。


 暫く感覚を楽しんだ後、男は熱っぽく語りかけた。

「愛しています、可愛らしい貴女を」

「あの~……」


 唇が離されたのを期に小蘭は、何か訊こうと口を開いたが、再び唇は覆われる。


「うっ、く」


 ガマンしなくてはいけない。でも、で…も、もう無理。

 沸き上がってきた興奮と、息もつけない苦しさに目眩がする。そうか、閨の事ってこんなに苦しいものなんだ。


「く、ふぅ」

 耐えられなくなった小蘭が男の腰にしがみつくと、男はその圧迫から解放してくれた。

 と思ったら。

 いつの間にか下帯が外されている。


「ち、ちょっと待って」

 小蘭の焦りにも、男は何ら躊躇わない。


「幼子のような頬も」

 熱っぽく囁きながら、さっきまで口を塞いでいた唇を頬へ。


「か細い首元も」 

 頬から首筋へと滑らせる。


「ひっ」

 たまらず身を捩らせた小蘭をしっかり捕まえ、男が鎖骨の窪みに吸い付いた。

 

「や、やめて、擽ったい」

 小蘭がつい声を張り上げると、意外にも彼は素直にそれを聞き入れた。


 良かった。小蘭は胸を撫で下ろした。

 にしても、何かがおかしい。

 さっきからのやりとりでは、皇帝が、話に聞くほど恐ろしいヒトとは思えない。


 と、

「そしてこのムネッ」

 言うやいなや、彼は乙女の胸元を肌けさせ、グイッと頭を押し付けた。


「はぁ、んっ」

「そうだ。この豊満なムネに、顔を埋める日を一体どれだけ夢に見たことか。柔らかくって、フワフワの——


 俺の黎妃レイヒ

 フカフカ……

 あれ?おかしいな」


「ちょ、やだっ」

 男はしきりに首を捻りつつ、貧弱な胸元を探っては、確かめるように揉みしだく。


「前はもうちょっとこう……きみ、少し痩せた?」


 ちょっと待て。

 いくら皇帝とはいえ、何か失礼な事を言ってないか。

 しかも今『レイヒ』って言われた気がする。


「こっ、」

 奥歯を噛みしめ、ひたすら変な感覚に耐えていた小蘭は、とうとうキレた。


「コルァーーーー!!!」

「き、妃?」


 小蘭の胸を掴んでいた手が、びくりと止まった。

 小蘭はもう、先生の忠告などすっかり忘れて叫んだ。


「さっきから黙ってりゃあ、何変なことやってくれてんの!

 しかも私「レイヒ」じゃないっ。私達は初対面でしょ」

 「い?」


 男がバッと身を離した。

 暗闇に目を凝らし、初めて互いをまじまじと見る。対面にいるのはどう見ても“若い”男で、間違っても七十のジジイではなかった。


 さらに失礼な事に彼は、ジロジロと小蘭を眺め回し、不思議そうに首を捻った。


「え~っと。君、誰だっけ?」

「な、な」


 なら、さっきからの変態行為は……

 つまり、この野郎は皇帝じゃなく、ただの『間男』だったのだ。


「あんたこそ誰よっ」


 その面しっかり覚えてやると、小蘭は改めて男を睨み上げた。


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