エピソード95 自分たちの望みのままに



「そういや昨日、あの別嬪がここに来たぞ」

 まだ赤黒く腫れている傷口に消毒をして薬を塗りながら褐色の頬を歪ませゲンが笑う。スイは診察台の上で壁を向き、膝を抱えて座っているので本当ならゲンがどんな顔をしているのか見えない。だが声が既ににやにやと笑っているのだから、いつものように人の悪い笑みを浮かべているのだと想像できた。

「別嬪って、そんな言い方したらアゲハが傷つく」

「別嬪に別嬪と言ってなにが悪い?あれだけの別嬪はなかなかいない。女にも、もちろん男にもな」

「ちょっと!まさかアゲハに直接言ったんじゃないだろうね!?」

 まるで開き直ったかのような言い方にスイは柳眉を逆立てて振り返る。そうすると若い癖に髭を生やした男のむさ苦しい顔が嫌でも目に入った。

「だーかーら、なにが悪いんだって言ってんだろうが。治療が終わるまであっち向いてろ」

 大きな掌が頭をぐっと掴んで壁の方へと無理矢理顔を戻される。治療の邪魔になるので上半身は肌着すら身に着けていないので少々心許ない。ほんの少しも膨らんでいない胸の間にドックタグを挟んで膝に押し当てて、ゲンが薬を塗り終え荒い織り目の布と厚みのある柔らかな布を重ねて乗せテープで留め終わるまでじっと待った。

「……アゲハ、なにしに来たの?」

 薄々なんの用で来たのか勘付いてはいたが、スイはやはり気になって尋ねる。ふっと鼻から息を抜くようにして笑いゲンが「聞きたいか?」と質問に問いで返してきた。

「そんな言い方するのはずるい。話ふってきたの、ゲンさんの方だろ!?」

「そう噛みつくなよ。お気づきの通り、お前の怪我の具合を聞かれただけだ」

 苛立ちを壁に向かってぶつけるのは虚しい。だが面と向かってするには内容が微妙すぎて、正直この方が有難かった。

「なんて答えたの?」

「ありのままを」

 悪びれもせずにゲンは全てをアゲハに話したと教えてくれた。

 口止めをしていなかったのだからそのことを責めることはできず、患者の容体を簡単に他人に話すのはどうかと思うと軽率さを指摘しても、きっとこの医者は飄々として言っちまったもんはしょうがねえと肩を竦めるだろう。

「じゃあ、」

 アゲハは知ってしまったのだ。


 スイの右腕はずっと痺れたままで、元のように物が掴めるまで回復する見込みのないことを。


 シオに頼まれて兄たちの代わりに護ろうと頑張ってくれていたアゲハはきっと自分のせいだと責めるだろう。

 これは全てスイの不注意から受けた傷であり、その結果を重く受け止めて後悔するのも苦しむのもスイ自身でなければならない。


 だってアゲハはなにも悪くない。

 それでも優しいからスイの痛みも辛さも全部引き受けてしまう。


 言うことを聞かずに勝手に飛び出して、本当の危険がどういうものかをよく知りもしないで独りで出歩いて。焦りと寂しさに突き動かされたせいで、タキを探して共に戦う前にその術を失った。


 アゲハに落ち度などなにひとつないのに。


 護れなかったと悔やむのだ。

 アゲハは。


「傷痕が酷く残るか気にしてたぞ」

「傷痕?腕が動くようになるかじゃなくて?」

「スイちゃんは女の子だから、傷が残るのは困るってよ」

「そんなこと」

 スイは気にしない。

 服を着ていれば見えないような傷痕を気にするような繊細さは持ち合わせていない。そんな見当違いなことをアゲハが心配していたとは驚くやら呆れるやらである。

「だろ?俺もそう言ってやったんだが、――よし、終わったぞ」

「カルディアのお嬢様ならまだしも、ダウンタウン育ちの人間はこれくらいの怪我や傷痕のひとつやふたつ誰でも経験あるのに」

 頬を膨らませてスイは肌着を左手で掴んで引き寄せた。頭を突っ込んで左手を通し、右手を介助しながら身に着ける。上着は腕を通して羽織って、木でできた大きめのボタンで前を留める物をセリが用意してくれた。

 右手が使えなくても着やすく、留めやすいようにとスイのことを思って。

「“これくらい”じゃ、ねえだろ」

 苦々しい声でゲンは吐きだし、スイの頭を容赦なく掌で叩いた。油断していたので歯がぶつかって凄い音がし、舌を噛み切らなくて済んでよかったと目を白黒させる。

「ちょっと、痛いんだけど!?」

「当たり前だ。手加減してないんだからな」

 左手でぶたれた箇所を擦って痛みを堪えながらも抗議すると、ゲンは鼻を鳴らして顔を歪ませた。

「してよ!一応これでも女なんだから」

「うるせえな。女だって自覚があるなら、日常生活に響くような大怪我すんじゃねえ!しかもそれを“これくらい”なんて言いやがるから余計に腹が立つ!それにお前の身体のどこにも痕が残るような傷は他にはない。それはつまりだ」

 舌打ちしてから厳つい顔を横向け「危険から守ってくれてた奴がいるってことだろうが」と続けた。

「大事にされてたくせに、お前が今こうして一生抱えなきゃいけないような怪我をしてるって知ったらどう思うか。ちゃんと自覚しろ」

「そんなの」

 無鉄砲の自業自得だと怒られるより、きっと黙って許される。スイのこれからを案じて、自分のことよりも妹のために生きようとするだろう。

 これまで以上に。

 ずっと兄たちの優しさの中で甘やかされ、そしてそれに甘えて生きてきた。自分たちの生きている世界は狭く、関わってくる人間も少なかったから、兄妹三人一緒にいられるだけで幸せだったのだ。

 外の世界は理不尽で厳しかったけれど、貧しさや空腹はたいした苦労では無かった。

 ダウンタウンを抜け出して世界はほんの少し広がったけれど、それでも共通して求めるのは兄妹三人で過ごす静かで穏やかな生活だけ。

 慎ましく生きていたスイたちを許さなかったのは国だ。

 外からの圧力で平和だった小さな世界は終わりを告げ、兄妹それぞれが違う世界で生きることを余儀なくされた。

 そうして初めて解ったこともあったし、強さへの糸口を見つけられたと思う。

 二度と戻りたくは無いと思っていたダウンタウンでの暮らしも、ミヤマのいない孤児院で過ごした数日の中で色んなかけがえのない日々を思い出し、空気を感じて街並みを見ればそこで生まれ育ったのだと確かな実感を持ってスイを郷愁へと誘った。

 そして第八区ダウンタウンを去ることで失った物も多かったのだと後悔もした。

 今こうして兄たちの庇護から外へと出て思い、感じることは前までとは全く違い、そして望みも願いも大きく変わってきている。


 きっと、タキもシオも同じだと思う。


 今までと全く違った環境の中で戦っている兄たちは特に顕著にそれを感じているはず。だからこそ、今までのようにスイを優先して生きて欲しくは無かった。


 自分たちの望みのままに、自分たちの人生を歩んで欲しい。


 それならば、もう。

 会わない方が良いのかもしれない。


 唐突に兄への思慕の念が萎れて行き、スイはいつものようにドックタグを握り締めた。会いたくない訳では無い。逆に今まで以上に強く会いたいと切望しているが、そうすることによって兄の人生を縛りつけ狭めてしまうことが恐かった。

 会わなければスイの右腕が不自由であることを知られることは無く、きっとどこかで変わらず元気でいてくれると思ってくれるだろう。

「……どこにいても、繋がってる」

 このドックタグさえあれば離れていても、心は繋がっているのだ。

 だから。

 大丈夫。

「ありがと。ゲンさん。また明日」

「おいおい。まだ説教は終わってないぜ?」

「必要ないよ。じゃあね」

 渋面の医者を見ながら笑って診察台から降りると足早に粗末で薄い木のドアへと向かう。まだなにやら言いたげなゲンを大丈夫だからと笑顔で振りきって、スイは太陽の光りが射す外へと出た。

 カラカラに乾燥した空気と痛みさえ感じる陽射しは自治区プリムス独特で、殆どの住民が布で顔や体を覆って熱さを和らげようとしている。建物の作る影は濃く、陽炎が揺らめく中をなんの対策もせずに歩いているのはスイぐらいだ。

 自治区の外れに行けばバリケード越しに見える第八区ダウンタウンは直ぐ近くに見えるのに、あそこで暮らした日々でさえこんな暑く、乾燥した風を感じたことは無い。

 それでも湿気が無いから過ごしやすく、汗をかいても直ぐに乾くので脱水症状さえ気を付ければ生活していくのに苦労は無いような気がする。

 できるだけ建物が作る影の下を選びながらセリとアゲハの待つ家へと向かう。なんの手伝いもできないスイの代わりにアゲハは家事の手伝いをしており、勝手の違う首領自治区での暮らしをそれなりに楽しく過ごしているようだった。

 朝から洗濯をして干し、それから市場へと買い物に行って戻って来たら料理の手伝いをする。掃除や風呂の準備、水汲みなどで忙しく身体を動かしている。

 ここでは男が家事や育児に関わることは恥とされているらしく、甲斐甲斐しく主婦業に勤しんでいる姿を見て男たちは軟弱だと眉を潜めていた。アゲハの喋り方が女性っぽいのも彼らには受け入れられないようで、遠巻きに見ているだけで決して近づいてこようとはしない。

 逆に物珍しさと、綺麗な容姿に惹かれて女性たちのうけはいい。

 うちの旦那もアゲハみたいに家事に少しでも興味をもってくれたらいいのに、と洗濯場では愚痴を混ぜた冗談が交わされるぐらいだ。

 そんな時でもアゲハはなにも言わず柔らかく微笑んでいる。

「……悔しくないのかな。でも」

 男たちに揶揄され、女たちに珍しげに囲われても文句ひとつ言ったりしない。

 人とは違うことを愚かなことだと恥じ、心無い人たちの言動に振り回されて傷ついてきただろうアゲハが、前と違って穏やかとも言える表情で自治区の人の視線や言葉を受け止めていることにスイは驚き、そして感心していた。

 一緒に戦うために来たと言ってくれたアゲハは以前とは違う強さを持ち、大人の顔をしていて少々戸惑いもする。

 傷痕が残るかどうかを気にする辺りは変わっていなくてちょっと安心したけれど。


 アゲハには恩返しをしなくてはいけない。

 心配させて、こんな所まで来させてしまったから。


「なにが、できるかな」

 動かない右腕をそっと左手で抱き寄せて呟く。

 返せる物がなにひとつない。

 できることも少ない。

「そういえばアゲハの望みってなんだろう?」

 今度聞いてみようと心に留めて、見えてきたアラタとセリの家から温かでいい匂いがしているのに気付いて駆けだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る