エピソード81 アゲハの決意


 太陽がオレンジと赤を混ぜ合わせた色に変化し、茜色に染まった空と滲むようにしてゆっくりと海の方へと沈んでいく。

 昼間の焦がすような陽射しは和らぎ、弱々しい光がビルの窓を照らす。

 細長く伸びた影を見下ろしてアゲハは悔恨の念にかられて思わずため息を漏らした。

「今日も、見つけられなかった」

 仕事を終えた数少ない人々が夜の訪れを畏れるようにして足早に帰路に着く。

 夜間外出令が発布され、どの街も活気が無くなっていた。

 五人以上で同じ空間にいることすら法に触れるという無茶な規則に縛られて、沢山の店が経営できずにシャッターをおろし、工場は閉鎖、地下鉄を使用したくてもできない状況にされればそれも致し方ないことだ。

 殆どの人間が仕事を失い、生活の基盤である稼ぎと食料品を調達する手段と移動方法を奪われて今まで以上に重苦しい空気が街に流れている。

「こんなにも広かったのね……」

 八つに分かれた統制地区は普通に生きて行く分には狭く窮屈だったが、たったひとりの少女を探し出すには広く、砂浜で小さな宝石を見つけ出すのに等しいほどに困難だった。

 それを思えば家を出たアゲハが三年ぶりにホタルと街で再会できたのは偶然というには出来過ぎていたように感じる。千三百万人が住んでいるこの統制地区で生き別れた兄弟が巡り合うことができる確率は恐ろしく低い。

 特に今は住民たち全てが他人と関わることを避けて、ひっそりと家や路地裏に身を潜めている。

 スイのことを尋ねたくてもそれすら叶わないのではどうしようもなかった。


 それでも諦めたらそれで終わりだ。


 兄を探し出すということに執着しなければスイは孤独を埋めることができなかった。初めて独りにされた少女がそれだけを支えにして街を彷徨う姿を想像しアゲハは胸が突かれる思いがする。

 常に寄り添い生きてきた兄妹にとって、この別離は互いに苦しく寂しい物であるのに違いない。

 アゲハは兄弟という存在を自分から手放したから、彼らとは同じ思いを抱くことはできないが、それでも無力感と寂寥感に苛まれながら居場所も無く街を漂った日々に味わった孤独という化け物の恐ろしさは身に染みて覚えている。


 私が一番解ってあげられるはずだったのに。


 独りがどんなに虚しく寂しいか。

 世界に取り残されたと感じる寂寞のなんと辛いことか。


「スイちゃん、いまどこで」

 どうしているのか。

 空腹を抱えて寒さに震えているのではないか、危険な目に合っているのではないか、傷つき血を流して苦しんでいるのではないか。

 彼女は護られることを望んではいなかった。

 そして帰りを待つことを由とできるほど弱い魂の持ち主では無かった。

「望んでいたのは、」


 共に歩み、戦ってくれる者。


 “一緒に探すから”と懇願するのではなく“一緒に戦おう”と言えばよかったのだ。

 アゲハは言葉と選択を間違え、そしてスイは兄を焦がれる思いを力に変えて飛び出して行った。


 間に合うだろうか。


 まだ。


 生きて行くだけでも苦しい世界だから、心だけは自由に思考だけは誰にも侵されずにいるべきだと力強く金の瞳を輝かせてスイは言った。

 自由は罪では無く今を力強く生き抜くための力であり、未来を夢見る希望の光なのだと教えてくれた。


 固定観念に囚われない柔軟な力は銃よりも強く、困難を乗り越えることのできる無限の可能性を秘めているのだから。


 自分が世間一般の常識や倫理から外れていると自覚していたアゲハは、きっと誰からも認められず理解されないまま一生を終えるだろうと覚悟していた。

 それをスイは自分を曲げてまで他人の評価や世間体に拘るなんて馬鹿げており、自分を受け入れられずにいるアゲハを見ていて悔しいと言ってくれた。

 真っ直ぐな感性で率直な思いをぶつけてくれたスイの言葉は今思い返すと全てが激励に聞こえ、そっと背中を押してくれる。

 冷たい一陣の風がビルの隙間を吹き抜けてアゲハはぶるりと身体を震わせた。

 ゆっくりと夜を連れて星と月が瞬き始める。

「アゲハ?」

 驚いたような子供の声に名を呼ばれ振り返ると、バケツを下げた少年がやっぱりそうだと破顔した。

 バケツを揺らして駆けてくる姿がいつもと変わらずに明るく力強いことにほっと安堵しながら、彼らの純粋さと柔軟さに改めて感嘆する。

「久しぶりだな。元気してたか?傷……良くなったみたいで安心した」

 しげしげとアゲハの顎下を見つめるものだから苦笑いしてそっとかさぶたの覆った傷を撫でた。暫くは顔を洗うたびに痛み、咀嚼するたびに疼いたが今では鈍痛と痒みに悩まされるくらいに回復している。

 彼らは素知らぬ顔をして怪我には触れて来なかったが、やはり気にしてくれていたようだ。

「もう、大丈夫。ありがとう、サビオ」

「なにがあったか知らないけど、せっかく綺麗な顔してんだからさ。気をつけろよ」

 大人ぶった言い方で帰り道を急ぐサビオと並んで歩きながら悄然と首肯すると、満足気な顔でうんうんと大きく頷かれた。

「仕事、あるのなら安心ね」

 殆どの子供たちが解雇されたと聞いている。

 サビオは浮かない顔で「いつ辞めさせられるか解んねえけどな」と呟いた。

「それより、いつになったら授業再開するんだ?」

 瞳に煌めいた好奇心と探究心に彼が公園での学びの場の再開を心待ちにしてくれていることが伝わって来て眉を下げる。

 いつとは言えないことを申し訳なく思いながら「そのうちね」と約束した。

「つまんねえのー」

 唇を尖らせサビオが公園のある方角を見る。アゲハもつられるように視線を動かしたが、ビルに遮られ子供たちが集まって来たあの小さな公園を見ることはできなかった。

「そういやさ、一回だけアゲハが女の子連れて来ただろ?」

「女の子?スイちゃんのこと?」

 そうそうと頷くサビオの年齢は十二歳だから十六歳のスイとは四つ離れている。そんな少年に女の子呼ばわりされたと知ったらきっとスイは烈火の如く噛みつくに違いない。

「スイちゃんがどうかした?」

 尋ねるとサビオが「一週間くらい前に見た」と何気なく答えるのでアゲハは「どこで!?」と思わず両肩を掴んで揺さぶった。

「ちょ、落ち着けよ。アゲハ」

 がくがくと頭を上下に動かしながら必死で懇願してくる少年の声にはっと我に返る。慌てて手を放し「ごめん」と謝罪してからもう一度どこで見たのかと問いなおす。

「第三区の地下鉄」

「どこ行きに乗ったかは、」

「解るよ」

 確認する前にサビオは得意げににやりと笑う。

 その頼もしさと抜け目の無さに感謝しながら行き先を聞くと、スイは第八区へと向かう電車に乗ったらしい。


 やっと。


 天を仰ぎ大きく息を吐き出した。

 ようやく手に入れた情報に歓喜する。


 今度こそ間違えない。


「ありがとう。助かったわ」

 頭を撫でて微笑むとサビオは誇らしげに胸を反らす。

「なにごとも注意深く見て考えろって教えたのはアゲハだろ」

「そう、そうね。この国の将来を担う子供たちがみんな同じようにできたら、きっと」

 スィール国は豊かで平和な国へと変わることができる。

 そのための一助になれたのならばアゲハのささやかな罪滅ぼしも成果があったのかもしれない。

「あなたたちは希望なのよ。だからそれを忘れないで」

 サビオがきょとんとした顔で首を傾げる。すぐに小ばかにしたような表情で「なに言ってんだよ」と吐き出した。

「おれたちみたいな子供に真剣に向き合って、勉強を教えてくれるアゲハがおれたちの希望なんだぞ!それ忘れるなよ?ちゃんと授業再開させねえと許さないからな!」

 指を突きつけて念押ししてくるサビオの顔は酷く真面目くさっていて、アゲハは胸をじんっとさせながらしっかりと頷いて見せる。

 子供たちにアゲハの存在が希望なのだと言われる日が来るなんて思ってもいなかった。

 いつだって彼らに励まされ、支えられていて。

 教えているというよりも教え育てられているように思っていたから。

「ありがとう、サビオ。絶対にスイちゃんを見つけて、この理不尽な世界と戦って戻って来るから」

「……なんてもんと戦う決心してんだよ」

 呆れている少年に「本当にね」と返して、そっとその背中を押してやる。

「早く帰りなさい。夜が来る」

 でも、と振り返るサビオの鼻の頭が寒さで赤くなっていた。道の上に伸びていた影は薄くなり、周囲の暗さと同化していく。

「アゲハ。絶対に、無事に帰ってこいよ?」

「大丈夫。私には銃よりも強く、無限の可能性を秘めた力があるんだから」

 なんのてらいも無く口に出来たのは不思議だったが、それがなんだか嬉しくてアゲハはふわりと笑う。

 サビオが目を瞬かせて不安そうに「待ってるからな」とだけ残して返事も聞かずに走り出した。その背中を見えなくなるまで見送って、夜の帳が降り始めた道を歩き出す。目的地の定まった脚は迷いも無く南へと向かう。


 絶対に戻ってくる。


 スイちゃんと、タキちゃんを連れて。

 ここに。


 アゲハを待っていてくれる人がいるのだと思えばそれすら力になる。


 大丈夫だ。

 まだ、間に合う。

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