エピソード82 道を作る


 なにも無い部屋には色鮮やかな織物が石床に敷かれている。精緻な模様が織り込まれているようにも、ただ気紛れに糸を変えて織っただけのものにも見える不可思議な敷物はタスクの母親の出身国から輸入した物だ。

 南国特有の大らかさと大胆さを感じさせる作風は郷愁に似た思いを抱かせる。

 母は女だということが信じられない程に頑健で強かった。しなやかな筋肉を纏い、俊敏さと柔軟さを武器に戦う母が愉悦に満ちた表情で男たちを倒していく姿は子供ながらに震え上がるくらいに恐ろしく、またとても美しかったのを覚えている。

 浅黒い肌は滑らかで、引き締まった肉体をした母に言い寄る男は沢山いて、毎夜寝室を訪れる男に同じ顔は無かった。

 だがどんな男にも満足できず、戦いの中でしか己を満たすことができないことに母が苛立ちを抱えていたのだと知ったのはタスクが第二次成長期を迎えた頃だ。

 その頃には既に母は肺を病んでこの世を去った後だったので慰めることも、力づけてやることもできなかった。

 どんなに強くても、健康でも、汚染地域の魔の手からは逃れられないのだ。


 あの母でさえ抗えなかったのだから。


 タスクはとろみのある透明の液体を注いだグラスをぐいっと傾けた。度数の強い酒は舌を痺れさせ、喉に絡み付くようにして胃の腑に収まる。


 手応えの無い奴らばかりだ――。


 反乱軍クラルスに集まってくる殆どの人間たちは碌に戦いの経験も無く、銃の扱いも覚束ない。あまりの弱さと危機感の無さにびっくりしたが、異能の民という脅威が常にあり戦いが何度も繰り返し行われていた首領自治区の住民に比べれば統制地区の人間は甘やかされていたのだから仕方がなかった。

 裏切り者たちへ容赦ない報復をし、異能の民との戦闘では敵の姿が無くなるまで戦い続けたタスクを“血も涙も無い掃除師”と両者が忌まわしげに呼んだ。

 それはきっと切り刻みながら狂気に彩られた笑みを浮かべる姿を見て、誰もが嫌悪感を抱かずにはいられないからだろう。


 血が滾るのだ。

 心が躍るのだ。


 戦うことでしか己の価値を見出せないのは辛いが、それでも人々がタスクの強さに惹かれて思いを託してくれることでそれは昇華させられる。


 上に立つ者は孤独なのだ。


 首領自治区プリムスで首領の命じるままに戦っていた頃には思い至ることはできなかったこと。


 ディナトも孤高の場所に独りで立っていたのか。


 十一代首領ディナト。

 タスクが唯一膝を着き、持てる力を尽くして戦い仕えよう思えた男。


 黄金色の瞳は砂漠の砂の如く煌めき、薄茶色の髪はまるで鬣の様に風に靡いていた。男らしく凛々しい顔立ちで、いつもは落ち着いた物言いをする癖に、時折見せる茶目っ気のある言動は見過ごせない魅力があった。


 目の前で。


 苦い思いを飲み込もうとタスクは手酌で酒を注ぎ足してぐいっと飲み干す。


 あれは海岸での戦いだった。


 どこまでも白い砂浜に黒い波が打ち寄せる中、多くの人間が血を流し傷ついて倒れていた。不可思議で怪しげな術を使って戦う異能の民は厄介だったが、異能力を持つ者は少なく殆どの民は能力を持たない普通の人間だった。

 だが彼らの妄執に憑りつかれたような瞳と、死ぬことを畏れない戦いぶりは腑に落ちない奇妙な不快感を残す。

 死ぬ直前まで彼らの信じる女の名前を祈るように繰り返す異常な様子には流石のタスクも怖気が走った。

 海に突き出た岬を護るために彼らは必死で、そしてタスクたちも薄ら寒い存在との戦いをここで終わらせようと躍起になっていたのだ。

 確かにこちら側が優勢だった。


 だった、はずなのに。


 突然打ち寄せる波の中に巨大な黒い魚の姿が見え、あっという間に波打ち際が跳ねる魚で埋め尽くされた。

 次から次へと波に乗って押し寄せてくる魚は空中に身をくねらせて跳び上がると近くにいた人間に喰らいつく。

 忽ち上がる悲鳴と動揺。

 身体中を魚に食いちぎられ、海の中へと引きずり込んで行く恐ろしい光景に歓声を上げたのは異能の民。口々に「メディア様!」と叫びながら勝利を確信して走り回る。

「ディナト!」

 鱗が舞い、水しぶきが上がった。タスクは仕えるべき首領の姿を見失い、戦場で無力に名を呼ぶばかり。


 ――疾く参れ。


 女の声が海の向こうから聞こえてきた。

 音として聞こえたのではない。

 感覚として、魂に直接接触してきている。


 ――穢れし地を我が手に。


 抑揚のない声は女の信奉者を突き動かす。果敢に戦う彼らと、巨大な魚の猛攻撃に押していたはずのこちら側が圧倒的に不利な立場へと変わっていた。


「嘘だろ!?」

 漸く見つけたディナトの背中は揉み合う異能者と共に海へと落ちる。すかさず波が覆い、黒い巨大な魚が次から次へと襲いかかって見えなくなった。

 黒い海に赤い血が流れ、無残な躯だけが波間に浮かぶ。

 叫びながらタスクは海へと飛び込み襲い来る魚を斬り殺しながら、腕を伸ばして水底へ消えゆこうとするディナトの服を寸での所で掴んだ。

「――――!?」

 引き上げた頭首の右側の顔半分は巨大魚の鋭いあぎとにより食いちぎられ、穴の開いた腹部からは噛み切られた腸がはみ出していた。既にこと切れたディナトの身体を必死で抱えて海から上がり、白い砂浜に黒い染みのような足跡を残してタスクはすごすごと逃げ帰ったのだ。


 涙などでない。

 今でも、あの時も。


 ただ己の不甲斐無さに落ち込み、なにもかもが嫌になっただけ。

 その後ディナトの息子であるダイチが十二代首領となったが、タスクが焦がれた金の瞳も陽が当たると茶金に輝く鬣のような頭髪もそこには受け継がれていなかった。

 ただ凡庸なオレンジの瞳と茶色の髪を持ったダイチに、父であるディナトの鷹揚さと明るい朗らかさがあれば違ったのかもしれない。次代の首領に魅力を感じられず、タスクは生まれ育った自治区を出た。

 護れなかったという無力感を抱えてディナトのいない自治区にいることは耐えられなかったのだ。

 統制地区の第八区ダウンタウンに潜り込み十三年程が経ったが、その間に色々とあった。まさか反乱軍の頭首となり国と戦うことになるとは思いもしなかったが、余りにも理不尽が横行する現状に誰も立たないのならばオレが、と軽い気持ちで始めた。

 血を見ぬ日々が長すぎて退屈していたのも理由のひとつでもある。


「まさかあの眼にもう一度出会えるとは」


 何度目の杯なのかもう覚えていない程にタスクは酒を飲んでいた。軽い酩酊状態の中でアキラが連れてきた金の瞳の男を思い出す。

 タキは素晴らしい肉体と共に優しさや思慮深さも持ち合わせていた。恵まれた器に力強く輝く魂を入れて、望む願いは弟妹との平穏な生活という謙虚さ。

 迷いと戸惑いの中で戦いへと身を投じたタキの働きぶりは、クラルスのメンバーからも派遣先のアポファシスからも評判はいい。逃げ遅れた者を放っておけない甘さも、敵に情けをかける弱さも、危うくはあるが確実に仲間からの信頼を獲得している。

 実直さと素朴さは頼れる人物だと評価され、ディナトのような軽口を叩く余裕や懐っこさは無いのに不思議と目を惹く男だった。


 この座を渡しても良い。


 初めてそう思えた男に出会えたことをタスクは喜び、そしてまだ簡単には譲れないと苦笑いした。

 第八区はあの執念深い保安部だった若造が、今では第八区反乱軍討伐隊を率いる地位を得てタキを執拗に探している。

「戻すのは、そいつを片付けてからだな」

 一応の終息を見せた第六区からダウンタウンには戻さずに、アキラを使いにやって第三区へと向かわせたのはそのためだ。


 大切な人材だ。

 今度こそ。


 道を作る。


 飲み干した盃に酒を注ぎ足そうと瓶を傾けたが、そこにはもう一滴も残ってはいなかった。タスクは不貞腐れて瓶を転がすと、杯を置いてごろりと横になった。

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