エピソード78 幻覚
部屋の四隅で焚かれている香から甘いような独特の匂いが充満して立ち昇る煙で白く煙っている。
寝台の上に俯せにさせられ、なんの薬だか解らない物を傷口の近くに打たれた後は四肢に力が入らず、頭の中にもぼんやりと霞みがかかったようで思考力すら低下していた。
少しの痛みも感じなくなったのは嬉しいが、まるで自分の身体とは思えないくらいの脱力感と重さに寒気だけが感じられて恐ろしい。
なにをされるのか。
助けるとあの青年は言っていたが、誰もいない部屋にひとりで放っておかれていてはその気があるのかは甚だ疑問で、呼吸するたびに鼻孔の奥まで入り込む甘い匂いは更に浮遊感と心地良さを湧き上がらせた。
柔らかな枕に頬を埋めて壁を眺めること無く見つめて、ただじっと横たわっている時間が数分なのかそれとも数十分なのかも解らない。
一瞬のようでいて、永遠にも感じられる。
不思議だ。
首領自治区で見知らぬ青年にこの部屋へと連れて来られ、寝台の上に寝転がっているのをまるで他人事のように感想を抱いてスイはほんの少しだけ微笑む。
そうするとなんだか心が浮き立つように軽くなり、次から次へと笑いがこみあげてきてだんだん楽しくなってきた。
霧がかかったかのような視界も脳内もまるで現実とはかけ離れていて、スイの理性や自制心の箍が外れて行く。
今の精神状態で絵を描いたら面白い作品が出来上がりそうだな。
手に筆を持ち鮮やかなピンクや水色で雲を描き、淡い紫と黄色で大地を塗る。そして真っ赤な血のような空に銀色に輝く三日月を浮かべて、タキとシオの姿を――。
「いやだ!やだ、いやだあ!!」
紙に描かれた薄っぺらなタキとシオが風に飛ばされ空の三日月に斬りつけられた。そして赤黒い血を流して更に空が真紅に彩られていく。
気付けば手にしていたのは筆では無く、三日月の剣。その刃には兄たちの血と脂でてらてらと光っている。
逞しい筋肉がついたタキの腕や脚が足元に散乱し、中途半端に首から切り離された頭がスイの暴挙を責めていた。そして引き締まった身体のシオの胴体は臍の部分で二つに離れ、肘で地を這いながら恨めしそうにこっちを見ていた。
「ちが、う。こんなの、現実じゃ」
ない。
「やめて、やっ!」
目の前に広がる現実とは思えない映像から目を反らしたくても目蓋は少しも動かず、頭を振って拒絶したくても顎の先すら微動だにしない。
大好きな兄たちを自らの手にかけるなんて例え夢でも見たくなかった。
涙腺すら麻痺しているのか涙すら出ない状況に、自分が冷たく残酷な人間なのだと証明しているようで辛くなる。
もういやだ。
これが現実なら終わらせて欲しい。
全てを。
どこか遠くで誰かが話している声が聞こえるが、なにを言っているのか全く解らない。不明瞭なのもあるが、言葉自体が切れ切れに聞こえて脳の中で更にばらばらになる。
打たれた薬のせいなのか、それとも焚かれている香のせいなのか。
無遠慮に項に手が添えられているのが微かに感じられ、スイは身動ぎしようとしたが既に身体の自由は奪われていた後だった。
人が動いてできた風が甘い匂いを乱し、ほんの少しだけ視界が戻る。オレンジ色の光に照らされた壁に二つの人影が映っていた。ひんやりとした布が当てられ意識を右肩へと向けるとそこに剥き出しの細い肩が見え、いつの間に服を脱がされたのかと驚く。
羞恥を感じる間なく濡れた布で拭った患部を太い指が押し広げ、そこに鋏のような器具をぐいぐいと入れてくる。
見ているだけで痛い光景に悲鳴を上げようとしたが、舌が凍りついたかのように動かない。呻くような声が微かに漏れただけで、その反応にも動じずに抉るように器具の先が肉を割って奥へと入ってきた。
痛く、ない?
そのことがスイの緊張と恐怖を和らげ、これが治療の一環であることを冷静に受け入れられた。
勿論不快感と耳に聞こえる生々しい音に怖気は走るが、身体の中に弾が入ったままでいるわけにもいかないので我慢しなくてはならない。
さっきまでの恐ろしい幻覚が消えてなくなったこともスイを落ち着かせる要因になっていた。
いくら会いたくてもあんな形での再会は望んでいないのだから。
「――――だ?」
「少し───弾、――――傷が――熱、命に――――」
問いかけた方の声には聴き覚えがあり、部屋にいるもう一人はあの青年だと知ることができた。傷口を掻き回している声の主は医者なのか、治療の具合を説明しているようだが上手く聞き取れない。
大丈夫。
これぐらいでは人は死なない。
そう言って自分を慰め、鼓舞しなければ安心を得ることはできなかった。あとは恐れるなといつものように言い聞かせ、これでスイにも討伐隊と戦う理由ができたじゃないかと励ます。
この借りはいつか必ず返すと秘かに誓って、あの取り澄ました軍人の顔を思い出しては奮い立つ。
タキの敵はスイの敵だ。
だから必ず、あの男を倒す。
だんだんと朦朧としてきた意識の中でスイは悲しそうに目を伏せるアゲハを見た気がした。
綺麗で長い銀の髪を無造作に束ねて背に垂らし、ゆったりとした線の出ないセーターやシャツを着たアゲハは男でも女でも無い繊細な美しさを持っている。
いつも柔らかく微笑んでいるのに、そのコバルトブルーの瞳は悲しみに彩られていた。
『贖罪のつもりで子供たちに勉強を教えているのよ』
アゲハの罪とはなんだろう?
彼ほど罪や咎とは無縁な人間はいないのに。
そういえばホタルも同じような目をしていた。
あの兄弟が背負っている物がなんなのか解らないが、善良そのものの二人には似つかわしくない黒い怨念のような罪咎。
ああ、悲しまないで。
今アゲハを苦しめ、悲しませているのは他でもないスイだ。
スイのことをシオに頼まれたアゲハは「私が護るから」と背負い込まなくても良いのに、その優しさと強い責任感で受け入れてくれた。
アゲハが言ったようにみんなの帰る場所で、みんなのことを待っていられたら良かったのに。
スイはそんなか弱く、おとなしい人間じゃないから。
ごめんね、アゲハ。
そこでぷつりと意識が途切れ、スイは深い眠りの中へと落ち込んで行った。
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