エピソード77 行き止まり


 真っ直ぐ走っては駄目だ。

 狙い撃たれてしまう。

 さっきまで足先があった場所に鉛の弾が撃ち込まれたのを見て戦慄しながら、スイは必死で足を動かした。

 第八区でタキを見たと聞いた情報を信じてその日からミヤマの孤児院に潜り込んでいる。あれから一度も部屋には帰っていない。たったひとりで部屋にいるのも、孤児院で寝泊まりするのもたいした違いは無かった。


 それに美味しい水が飲めるから。


 三年ぶりに飲んだ裏庭のポンプから汲む水は記憶通りに甘く、喉の渇きを十分に潤してくれた。無理やり連れて行かれたミヤマは鍵をかけることもできず、また軍は略奪や家を乗っ取られないようにと思いやることもしなかったのだろう。

 お陰で施錠されていなかったのでスイが中へと入ることができたが、部屋や台所は荒らされ目ぼしい物は全て無くなっていた。

 懐かしい家を歩き回りミヤマのベッドの下から昔スイが書いた絵が出てきて、捨てずに大切にしていてくれたことが嬉しく、また切なくなって老女を思い出しながら匂いの残るその布団で眠っても夢でさえ会えずに虚無感を抱えて目が覚める。


「あうっ!」

 角を曲がって細い道へと入る瞬間に脹脛を掠めるように銃弾が飛んで行った。熱さが走り、火傷した時のようなひりひりとした痛みが襲う。

 思わず足が止まりそうになるが、懸命に我慢して前へと意識して脚を動かし続ける。

 感傷に浸っている場合では無い。

 逃げなければ捕まってしまう。

 それどころかあの軍人はなにかを企んでいたかのようだった。


 同じ金の瞳をした男。


 それは多分タキのことだろう。

 タキを知っているような口ぶりだったが、それが友好的な接触では無いことは確かだ。切れ長の目の奥に狡猾な光を湛えて、スイを利用しようと算段していたのだから。

「タキ」

 男の手に落ちて兄を困らせたくはない。

 スイがタキを探しているのは傍に居たいからだけじゃなく、一緒に戦いたいからだ。足を引っ張ってタキの命を危険にさらしたいわけじゃない。


 逃げろ。


 こんなにも暗くて視界が悪いのに、あの軍人は執拗に足元を狙って撃ってくる。足を鈍らせて捕まえようという魂胆が見え見えだ。

 ちらりと見えた制服は黒だったから、きっと討伐隊の人間だろう。

 ひとりで見回りをすることは無く、普通は数人で通りを歩いている。だが追ってくる男の他に仲間がいるようには見えない。

 スイには好都合だったが、それでも距離を詰めてくる気配は恐ろしく生きた心地がしなかった。

 どこまで逃げればいいのか。

 またどこへ行けば安全なのか。

 全く解らないまま走り続ける恐怖と不安は焦りを生み、焼けつく痛みを訴える足が少し休もうと弱音を吐く。

 気管すら凍える冷たい風を吸い込んで肺が悲鳴を上げる。ゼイゼイと耳障りな呼吸音が頭の中に木霊してまともな思考を巡らせることができない。

 身体は暑いのに頬と鼻の頭、指先が冷え切ってじんじんと痺れる。汗が額と背中を流れて闇の中に束の間輝き消えて行く。


 タキ、どこにいるの?


 第八区ここにいるのか、それとももういないのか。

 こんなに会いたいのに会えないなんて。


 もう、独りで待つのはいやだ。


 そんなの寂しすぎる。

 苦しすぎるよ。


 ――ガシャン。


 唐突にスイは細い金属が織り込まれた物に行く手を阻まれてたたらを踏んだ。無意識に指を絡ませて掴んでいた物が棘を持った有刺鉄線であり、ぶつかった拍子にあちこち切り傷を作っただろうが今は麻痺していて小さな傷の痛みなどは感じられない。

「第八区の行き止まり」

 ここより先は首領自治区。

 汚染地域であり、スィール国内でありながら唯一自治を認められた場所。

 汚染濃度の高さは統制地区の倍はあり、そこに住む者の寿命は著しく短かった。


 最も死が近い場所、プリムス。


 そう言って第八区ダウンタウンに住む者たちですら近づくのを躊躇う場所だった。

 スイは迫ってくる男の足音を背中で聞きながら、できるだけ棘の無い場所を選んで握ると靴裏を引っかけて伸び上がる。

 ガシャガシャと金属が揺れて擦れる音が響く。

 第八区と首領自治区の間に築かれたバリケードの高さはスイの身長より少し高いくらいだった。出入りを禁じるためにあるわけでは無く、目に見える形ではっきりと境界を顕しているだけに過ぎないからだ。

 一番てっぺんの柵に手と足を乗せて、そこから自治区の地へと飛び降りる。

 硬い白茶けた大地には貧相な雑草がひょろひょろと生えているが、その上には白金の砂粒が覆い地面に張り付いていた。


 ガッ――!


 銃声は風に流されて消えて行くが、足元を揺らす衝撃は鼓膜を震わせて再び恐怖を抱かせる。

 スイは少しでも遠くへと胸中で唱えて疲れ果てた脚を動かして走り出す。

 統制地区とも第八区とも違う荒ぶる風が南から吹いている。向かい風の中を進みながら何故か懐かしい匂いを嗅いだ気がして心が浮遊した。


 初めて来たはずなのに。

 不思議だ。


「う、あっ!!」

 既視感に囚われていた僅かな隙を狙ったかのように、すごい勢いで右肩になにかがぶつかって来た。その衝撃でスイは前方に弾け飛び、息のできない重く熱い激痛に悶え苦しむ。じたばたと肩を押えて地面に転がり、一体何が起きたのか理解できないまま動揺していると、目の端にバリケードの向こうからあの軍人が銃を構えているのが映った。


 撃たれた!?


 幾ら遮る物がなにも無い場所だとはいえ、かなりの距離があるのに。

 辺りはほぼ闇に沈みスイが走っているのが見えたとしても薄らと輪郭もおぼろげなはず。それでも標的を撃ち抜ける技術を持っているのだろう。


 恐い。


「にげ、なきゃ」

 肩が外れたかのように指先まで力が入らない。スイはしっかりと左手で肩を押さえたまま立ち上がり、ふらつく足で前へと進む。

「大丈夫、これくらいで、死なない」

 叱咤しながらオレンジ色の小さな光が寄り集まっている場所を目指して歩く。

 もう走れない。

 足を交わすことで精一杯だ。

 それでもいい。

「あいつから、逃げられれば」

 どうやらバリケードを越えてまでは追って来られないらしい。そのことにほっとしながら後は無心で灯りを目指した。

 灯りは小さかったので随分歩かなければ辿り着かないかもしれないと思っていたが、疲れ果てた足でも程なくして街を象るバロック小屋と小さな建物が密集している場所へ到着する。

 灯りだと思っていた物が小屋の傍で焚かれた火で、それを囲んで数人の男が酒を飲んでいた。ふらふらと近づいて来るスイに気付くと警戒の色を浮かべて小銃を手に立ち上がる。

 ここでも命を狙われるのかと落胆すると、両脚から力が抜けてその場にへたり込んだ。

「怪我しているのか?」

 焚火を囲んでいた中心に居た青年がゆっくりとこちらへと歩いてくるのをぼんやりと眺めながら小さく頷く。

「討伐隊の、男に追われて」

「ここへ逃げ込んだか」

 日に焼けた肌に赤茶色の髪を後ろで束ねた青年は、夜中に傷を負って逃げ込んだ怪しい人間であるにもかかわらずスイの傍まで近寄ると押えている肩を一瞥して「異能の民にしては間抜けだ」となにやら呟いた。

「統制地区の民間人か」

 首に巻いていた白地に真っ青なラインの入ったストールを外すと、徐にスイの手を除けさせて傷口の上に押さえつけた。

「う、痛っ!」

「中に弾が埋まってるな。直ぐに取り出さないとまずい」

 激痛に背中が反り返り、青年の腕から逃れようと身を捩るが抵抗のかいなく逆に地面に押し付けられてしまう。

 眦から涙が溢れて、スイは青年を睨みつける。

「おっと、そう怖い顔するな。別に取って食おうってんじゃない。助けてやろうってのに――おい、その目」

 途中で青年の顔色が変わる。

 スイの瞳を見つめて嫌な物を見たと言わんばかりに舌打ちした。

「オレの見間違いじゃなきゃ金の目だな」

「それが、どうした!」

 スイたち兄妹の瞳が珍しいのは知っている。

 だが見知らぬ二人の男に目の敵にされる謂れは無いだろう。

「こんな形で親父の子供に会えるとはな」

「まさか、アラタ様!」

 焚火を囲んでいた数人の男たちが気色ばんで騒ぎ出す。

「親父の子供……?」

 なにを言っているのかスイには解らない。

 アラタと呼ばれた青年はため息を吐いて、困惑したままのスイの首の後ろを掴んで立ち上がる。

「ちょ、なにすんだ!」

「だから言っただろ。助けてやるってな」

 そのままの状態で引きずられてスイは大声で喚くが聞き入れる気はないようだ。青年は底冷えのするようなオレンジの瞳で見据えて「その目に感謝するんだな」と告げた後は口を噤んで街の中へと進んで行った。

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