エピソード53 戦場


 熱に浮かされずっと浅い眠りを漂っていたシオだったが、揺さぶられて無理矢理起こされ目を開けた先にいたクイナとヤトゥの姿を確かに見たのを覚えている。

 どうやってか手に入れてきた薬と水を飲ませてくれた彼らの顔を、定まらない視線でなんとか捕えればほっとしたような表情でシオを見下ろしていた。


 どうして彼らは優しくしてくれるのだろうか。


 タキと一緒に働いていたからという理由だけでシオを助けようとは思わないはずだ。兄は常に穏やかで他人とぶつかることは無い。シオと違って真面目で人を思いやれる人間だからきっとクイナとも良好な人間関係を築いていたのだろう。

 だから恩義を感じて心配してくれている。

 でもそれだけじゃなく、持って生まれたクイナの性質もあるのだろう。人の良さそうな茶色の瞳と面立ちから滲み出る、鷹揚さと前向きな明るさが感じられる。


 解らないのはヤトゥだ。

 彼とは完全に初対面で、医者としての誇りや本分から動いているのだとしたら逆に脅威を覚える。

 こんなところでシオを助けた所でヤトゥになんの利点もないのに。

 理解を超えるなんらかの思惑があるとしか思えないが、考えてもその理由や利害に思い至ることはできなかった。


 それでも。


 彼らの瞳にある純粋な労わりの色と優しさに触れたことでシオは救われた。それは間違いない。


「おい。いつまで寝ているつもりだ」

 突然肩に硬い衝撃を受けてシオは重たい瞼を持ち上げる。じっとりと汗ばんだ身体に張り付く服の不快感と、冷めた瞳で見下している兵の顔に不愉快な気持ちになった。こんな目覚め方が気分の良い物ではないことは誰にでも解る。

 熱の名残で気だるい身体を動かしたくなくてもう一度眠りにつこうと毛布を引き上げて目を閉じた。

「聞こえなかったのか!?」

 怒声が聞こえ背中に感じた感触は固い軍靴の裏だった。

 こうやって高圧的に人を足蹴に出来る人間の命令など聞きたくは無い。腕の中の薬と水を掻き抱いて息を詰めてやり過ごそうと無視を決め込んだ。

「いい加減にしろっ!」

「ちょっ!そんなもんで殴ったら怪我をする。そいつは昨日来た時から具合が悪いんだ。あんたらが手荒な方法でオレたちを連れてきたりするから」

 目を閉じているのでどんなもので殴ろうとしていたのかは解らないが、見かねて近くにいた人間が間に入ってくれた。

 これで安心して寝ていられる。

 そう思いながら、ふとクイナやヤトゥの気配が近くにないことに気付いて疑問に思う。兵士の横暴を止めてくれたのは知らない声の人間だった。クイナやヤトゥが傍に居れば彼らが兵に文句を言ったはずだ。

 シオは耳を澄ませて神経を集中させる。

 近くにいるのは戸籍を持たない罪で連れて来られた同じ境遇の人間が五人。そして兵士が一人。少し離れた場所に息を押し殺して緊張している人間の集団があり、その周りに統率された動きで歩き回る気配が二十ほど。更にその奥で頻繁に交わされる言葉は「奇襲攻撃の」「町の征服」「救出」「開戦」という四つ。車の動く音と排気ガスの匂いの他に、油や火薬の匂いもする。ガチャガチャと煩い金属の音は兵たちの纏う装備が擦れ合う音か。


 いない――。


 声も気配も靴音も感じられない。

 匂いも。


「……なにがあった?」

 シオはむくりと起き上がり、毛布の下に薬と水を隠して兵を見上げた。兵はヘルメットを被っており、その短い唾の下でギラリと目を光らせ「なんだ、元気じゃないか!」と声を荒げる。

 元気じゃねぇよと口の中で毒づき、睨み返しながら返答があるまでじっと待つ。

「昨日連れてこられた中から五十人の人間を連れて奇襲攻撃が行われたらしい。今からその攻撃した町へ援軍として向かうことになった」

 説明してくれたのは目の前の兵の暴力から庇ってくれた男だった。ちらりと横目で見ると頭の禿げた小柄な中年男で、気の弱そうな風貌をしているが兵に噛みついたことからも見た目通りの人間では無いのだろう。

「五十人?」

「あんたのことを心配してた二人の若い男もいなくなってるから、もしかしたら」

 その奇襲攻撃に参加しているかもしれない、と告げられてくらりと眩暈がした。おそらくこの男の言う通り、その作戦に参加して戦っているに違いないとシオは確信していた。

 毛布の中の薬と水。

 これを手に入れるのと引き換えにクイナとヤトゥは危険な戦場へと向かったのだ。

「あいつら」

 死に急いで一足先に戦いの地へと赴くとは阿呆にもほどがある。それも良く知らないシオのために命と身体を張って、一体何の得があるのだ。

 統制地区でも底辺に位置する戸籍無き者として生きてきたのなら、他人に情けや優しさをかけては馬鹿を見るのだと知っているはずだ。身に染み付いているはずの習慣や暗黙の了解事項に背いてまで救うほどシオの命に価値は無いのに。

 なんの見返りも期待せずに人に親切にできるほどの余裕も、思いやりもシオは持ち合わせていなかった。


 だから理解できない。

 彼らの想いや行動の意味が。


「馬鹿だろ?だって初対面なのに」


 こんな糞みたいな世の中に善意だけで動ける人間がいるなんて信じられないだろうが。


「直ぐに出発する。用意しろ!」

 声高に言い捨てて兵が去って行く。その後ろ姿をぼんやりと見送って毛布の下でペットボトルの蓋をぎゅっと握りしめた。

「大丈夫か?」

「……ああ」

 気遣うようにかけられた声になんとか返答する。男は腰を上げると先に行っていると言って毛布を持ち、軍服を着た兵たちの中で私服を着た人間が集められている場所へと移動して行く。

 呆然としながら毛布の下から薬を取り出した。二種類の薬は夜中に飲んだ分だけ減っていて、昨夜の高熱にうなされていたシオを痛みと苦しみから解放してくれたのはこれのお陰なのだと改めて感謝した。

 薬をシートから押し出して掌に乗せ、小さな錠剤を見つめて苦笑いする。

「いくら物価が高くて薬と水が貴重だって言っても命と同額ってことはないだろっ」

 悔しくて奥歯を噛み締めた。一度ぐっと指を折り込んで薬を掌に握り締めてから口の中へと放り込んだ。そして蓋を開けて水を全部飲み干すとシオは毛布を身体に巻きつけて立ち上がった。

 薬はジーンズのポケットへ。

 熱のせいかふわふわと足元が覚束ないが、集中力が途切れるほどの物では無い。逆に神経が研ぎ澄まされているのか、今までよりも気配や音に敏感になっている。

 空はまだ明けきらず、薄闇に包まれた中でシオはそっと私服の群れの中に紛れ込む。四百人ほどの無戸籍者たちは不安げな顔で兵たちからの指示を待っている。シオも黙ってその時を待つ。

「半数は山の斜面を下って町へ向かう。残り半分はトラックで移動し、町を攻撃する。先発隊として戦っている者たちの援護を中心に、町を攻め落とすことが最終目的だ!怖気づいて戦えない者はその分、死に近づく。恐ければ引き金を引け!戦え!そうすることで活路が見出される!」

 わざと乱暴な言葉で煽る下士官に向けられる目はやはり怯え竦んだものばかりだった。その中でシオの金の瞳は異様な光を湛えているが、多くの臆病者たちの影に隠れて気付かれない。

 下士官が適当に集められた四百人を半分に分ける。その際に悲鳴に似たため息が上がった。

 それもそうだろう。

 山を下る方に選ばれれば、戦場につくのは遅くなり死の期限も伸びる。逆にトラックで移動すれば歩かずに楽に戦場へと向かえるが、先に町へと着くので命のやり取りをいち早く始めなければならない。


 逸るな。


 兄の声が聞こえるがシオはどうしてもトラックへと乗りたかった。まだ体力が戻っていないことも理由のひとつだが、早く町へ行きクイナとヤトゥに再会したかったからだ。

 会って馬鹿なことをしやがってと殴ってやろうと思っていた。

 だが無慈悲にもシオの目の前で線引きされた瞬間に「そんな」無体な、と呟いた目の前の男の腕を引いてさっと場所を入れ替わった。驚く男の顔を振り返らずに移動を始めた列の流れに乗ってトラックへと向かう。

「ありがとう!」

 感謝の言葉を投げられたが、男が可哀相だから変わってやったつもりはないので無視する。シオがトラックに乗りたかったのと、男が山から進軍する方を望んだだけ。


 単なる利害の一致だ。


 幌の無いトラックの荷台に二十人ぐらいが乗り込んで準備が整うとすぐに号令がかけられ舗装された道路へと動き出した。ヘッドライトを点けずに走り出す十台のトラックは国境を超えてマラキア国を目指す。

 一度も統制地区から出たことの無かったシオが昨日あの壁を超えてカルディアへと入り、今北の隣国へと向かっている。

 あまりにもかけ離れてしまった現状に戸惑いはあるが、昨日捕えられた時の絶望はもう無かった。

 地下鉄で灯りに切り取られたかのように出現する駅構内を見るたびに作り物めいた物に感じられ、自分の人生までも予め決められているかのような気がしていた。その度におとなしく思い通りになどなってたまるかと奮い立っていたことを思い出す。

 シオの行きつく未来が死の訪れならば、それすら抗って最期まで戦って見せると薄闇の向こうを睨みつけた。


 どれくらい見つめていたのか。


 気付けば周りは朝靄に包まれ太陽の光が大地に注ぎ始めていた。夜の気配は身を潜め、どこかへ逃げ去っていったかのように清浄な空気が満ちている。

 マラキア国の空気は統制地区の物に比べ清々しく、色んな匂いがした。

 肺いっぱいに吸い込んでシオはその香りを記憶に刻む。


 無事に帰れたなら、スイにマラキアのことを話してやろう。

 絵心が無い上に口下手だから上手く伝えられないかもしれないが、少しでも多くのことを覚えて持ち帰りたい。


 ――ごめんな。


 あの日謝れなかった言葉を繰り返し、ドックタグを握り締めてシオはタキにも同様の謝罪を心の中で呟いた。

 兄の教えに反してカルディアの手先となり戦うことを許して欲しいと。


「敵軍接近!」

 切羽詰った声に我に返り、シオは耳と目を使って現状把握に努めた。突如爆音が轟いて爆風が右手側から襲う。ばらばらと石礫が上からと横から飛んできた。運転手がハンドルを切った弾みでタイヤが浮いて、荷台は不安定な状態になる。

「なんだ!?どうなってんだ!?」

 荷台に座っていた人間が恐慌状態で騒ぎ始めた。逃れようと端に人が押し寄せ始めたせいで更に荷台が傾ぐ。慌てて運転手はハンドルを操作して横転するのを留めようとしたが、乱暴に動かしたせいでタイヤは空を掻いてその脇に投げ込まれた手榴弾の威力で薙ぎ倒された。

 跳ね上がった荷台から地面に投げ出されて、ごろごろと転がった後で一瞬途切れた意識を無理矢理引き戻す。

 濛々と舞い上がる砂塵と鼻に突くガソリン匂い。呻き声の合間に少し離れた場所で悲鳴と怒声が入り混じり、銃声と聴力を奪う爆弾の音が交互に続いている。

「待ち伏せされていた?」

 起き上がろうとしてシオは頭の上を弾が飛んでいくのに気付き、そのまま腕を使い這って進む。荷台から放り出された人間の殆どがトラックと人間の下敷きになり、身動きできなくなっていた。運転席の扉が開いてそこからヘルメットが覗き、そこを狙って銃弾が襲う。

 前触れも無く始まった戦闘に驚きながらも、シオはぐるりと周囲を見渡した。

 トラックはマラキア軍の攻撃を受けてこれ以上進むことはできなくなっているようで、荷台から飛び降りた人間に粗末な武器を渡しながら応戦するようにと命令していた。初めて持つ銃の扱いをどうしたらいいのか戸惑いながらも、死の銃弾が飛び交う戦場で必死に生きるために引き金を引いている。

「おれにも」

 武器を寄越せと倒れたトラックに近づこうとして地面に黒い染みを作っている物に目をやり止まる。

 血では無い。

 鼻を刺激する異臭。

 意識を取り戻して直ぐに嗅いだ匂いを思い出す。

「ガソリンが」

 庶民にとって手の出ないガソリンのことをそんなに知っている訳ではないが、油と同様に火に引火すると聞いたことがある。

 火薬の匂いもするこの場所は危険であるとシオの中の本能が告げる。

「う、たす」

 数々の脚と腕の中からシオを見つめて指を動かして救出を願う声が聞こえた。恐怖に憑りつかれたその瞳の黒い色はまるで感染するかのようにシオにも恐れを抱かせる。

「た、す、けて」

 男の声を掻き消すようにバラバラと銃弾の音が響く。タイヤに車体の裏に、荷台の縁に火花が散った。

 シオは身を起こし、中腰のまま走る。

 男の泣き叫ぶ声を聞きながら近くのトラックへと向かった。


 刹那。


 火柱を上げてトラックが炎上爆発した。肉の焼ける匂いが風に乗って届けられた気がしてシオはぐっと吐き気を堪える。黒い煙と赤い炎の向こうに敵の姿を認めて夢中で駆けた。


 なにも考えずに。

 ただ足を前に出してトラックの影まで。

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