エピソード51 静かな夜
シルクは報告を受けてマラキア国の詳細な地図から目を上げて口元を歪めた。
時刻は深夜を回ろうとしている。北の国境まで連れてこられた無戸籍者たちは薄っぺらな毛布に包まり現実から逃避しようとしているのか静かに眠りについていた。
彼らが今の所比較的従順で助かっているが、そのうち不満を口にして反抗的な態度を取り始めるだろう。
その時に多少は手荒な真似をしてどちらが強者であるかを解らせなければならない。
この隊を率いるあの年若い大将はそれを嫌がるのだろう。
清廉潔白では人の上に立つことなど出来ぬと、ここでの経験で学んでくださればいいが。
「やはり動いたか」
「素人五十人ほどを連れて行った所でなにかできるとは思えませんが」
中央参謀部から送り込まれてきたエラトマに、斥候の得意な人間を数名貼り付けていたら思った通り直ぐに迂闊な行動を始めた。
アオイが宣戦布告を宣言した時に反発した態度から動くのではないかと睨んでいたが、あまりにも突発的かつお粗末な方法でエラトマは自らの主張を押し通そうとしている。
「ご命令通り黙って見ているように指示しましたが」
泳がされているのに気づかずエラトマは至極ご満悦の表情だったらしい。
ふっと笑いをもらして「だから三流だといっただろう」と返す。武器庫の担当者には今夜中から明け方まで、不自然な要請があれば詮索せずに渡してやれと最初から伝えていた。
エラトマがプノエー少尉と無戸籍者二名に接触した段階で、見張りの兵にも多少のことには目を瞑れと言ってあった。
そんなことにも気づかずに、あの参謀殿はにやついていたのだ。
愚かにも。
「中央参謀部はこの戦争を勝たせたいのか、勝たせたくないのか。私には解りかねます」
色の白い細面の男は渋面を作り、顎を振って理解できないと呟く。
この男は陸軍の参謀官で地味な作戦ながら手堅い策を練る。中央参謀部にいる常人とはかけ離れた思考の持ち主たちが立てる作戦より、オネスト参謀官が提案する策の方がシルクは好感が持てた。
「確かにあの男が言うように宣戦布告などをせずに奇襲攻撃をかけ、強引に勝利を掴まねばこの戦は厳しい物になるだろう」
そんなことは解っている。
元より勝ち目のない戦だ。手段を選べるほど我が国に余裕は無く、そして時間も無いのが現実である。
「だがアオイ様の危惧も解る」
国際条約を反故にすれば周辺国の怒りを買い、今や他国の援助無くしては立ち行かないスィール国の経済は直ぐに傾くことになるだろう。現状でも食糧難であり、生活必需品も不足している。上がり続ける物価は国民の生活を逼迫し、近い将来金は紙切れ同然になるだろう。
民は飢えて死ぬ。
勿論そうなればカルディアとて被害を覚悟せねばならない。完全に輸入に頼っているガソリンを断たれれば、統制地区のように地下鉄の整備がされてないカルディア地区では移動手段を失うことになる。
軍を維持することも、国としての秩序も護ることは難しい。
「それではアオイ様にこのことをお伝えした方が宜しいのでは?」
オネストの責めるような声に苦く笑うと、首の後ろに右手を移動させて揉み解す。出しゃばらず、仕事熱心なオネストがこんな風に不満げな口をきくことは珍しい。
それだけエラトマのことが気に入らないのだろう。
偉そうで、傲慢で、自分はお前たちとは違うのだと全身で語っているような男だ。たしかに好きにはなれそうにもない。
「勝たせたいのか勝たせたくないのかは解らんが、何故中央参謀部があの男を送り込んできたかは解る」
「理由を窺っても?」
「簡単だ」
参謀官であるオネストに中央参謀部の狙いを語るのもおかしな話だと思いながらもシルクは説明する。
「アオイ様が宣戦布告と国際条約を重んじ、通告なく開戦するなど有り得ないからだ。あの方が卑劣な行為を嫌うとよく知っている」
「つまり、中央参謀部は宣戦布告無しの開戦を望んでいた、と」
「エラトマ殿がアオイ様の決定に納得せずに奇襲作戦を独断で敢行することも織り込み済みだろう。あの三流参謀官が自分の策の正当性を曲げられず暴走し、アオイ様の不興を買うのも予定通り」
「その時既に遅し……ですか。戦は始まり、アオイ様が幾ら取り繕うとも条約を破ったと見做され援助は打ち切られる」
「それこそ中央が後始末はしてくれるんだろう」
「信じたい所ですが」
嘆息してオネストは暗い瞳で天を仰ぐ。
「いずれにしろ戦争はするんだ。宣戦布告があろうが、なかろうがな」
「……今回の件は全てエラトマ様が責任を負ってくださるのでしょうから、私はなにも知らなかったことにして目を瞑っておきます」
「そうしろ。それに」
口を噤んでシルクは眉を寄せる。
エラトマが命じた奇襲でどれ程の成果が出るのか解らないが、宣戦布告後と前では結果は大きく違うだろう。
アオイではなく総統が指揮を執っていれば間違いなくシルクたちは今頃隊を率いて山を下りていた。音も無く町へ近づき、時間をかけずに制圧して気付かれる前に次の町を襲っていただろう。
例え無警戒だったとしても五十人の無戸籍者が町を襲撃して落とせるとは思えない。
無謀すぎる。
指揮官が違えば死なずに済んだ命だ。
「従うべき相手を間違えば無駄に死ぬことを肝に銘じておけ」
あの男はいけ好かないが、言っていることに間違いは無い。武器を持って他国に侵略するということは正当な行為では無く、ただの略奪行為なのだ。無慈悲に人を殺め、奪い、尊厳を踏みにじる。
その戦争を仕掛ける側に大儀があろうとなかろうと、攻め込まれる方は関係がない。
形振り構っていられないのはこちらの方だ。
大将にアオイがいなければシルクとて宣戦布告なしの奇襲攻撃を支持する。その方が理に悖ろうとも、戦場では正しいからだ。
「勝利すればそれは正義となる」
「存じています」
オネストが胸に手を当てて深く頭を垂れる。
「明け方までに兵を動かせるように準備しておけ。この機会を失ってはならん。麓の町は必ず我々の物とする」
東の空が明るくなる頃には町の変化がアオイにも伝わるだろう。そしてその時に素早く町を落とすために隊を動かすよう進言しなくては。
混乱に乗じて陥落し、そこを拠点として次の戦いへと準備しなくてはならない。
アオイが嫌がろうとも戦いは始まったのだ。
「仰せのままに」
軽やかな声だけを残してオネストはテントの入り口の布を跳ね上げて出て行った。
「何故」
中央参謀部はこの戦争の指揮をアオイに執らせることを望んだのか。
そしてそれを許可した総統の考えはなんなのか。
「全く理解できん」
とてもまともな神経とは思えない。
ただ利用され、振り回されるアオイを気の毒だと思う。総統の息子として生まれることは決して幸福なことではないのだ。
シルクは地図を睨み、今頃山を下りているだろう五十人の無戸籍者と巻き込まれたプノエー少尉の武運を祈った。マラキア国とてスィール国の動向に注視している。今回の件も既に知られている可能性もあった。
「……何らかの手を打たれていると思っていた方がいいかもしれん」
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