エピソード50 境界線を越える



「あれは強制と脅しだった」

 薬と引き換えに自分たちの命を差し出せという、明確な意思の上で成された物だった。足早に歩きながら呟けばヤトゥも小さく首肯する。

 逆らえば薬は取り上げられただろう。そして密命と言ったからには知ってしまったクイナたちを黙って野放しにはしない。どちらにせよ命を握っていたのはあの辛気臭い男だった。

「やはり親切という言葉を彼らに求めても無駄であると証明されたわけです」

 嘆息しているヤトゥに「悪かったな」と謝罪すると、不思議そうな顔で「なにが?」と首を傾げられる。

「薬をもらいに行こうと誘ったのはおれだ。そのせいであんたも命をかけなくちゃならなくなった」

 あまりにも苦しそうなシオを見ていられずに兵に薬をもらいに行くとクイナが立ち上がり、それにヤトゥが「私も一緒に」と二人で頼みに行くことになった。

 そのせいで死を早く引き寄せることになったことを詫びたのだ。

「先に彼を助けようとしたのは私です。手柄を独り占めされたくなかった私の強欲が招いたことですから、気にしないでください」

「……あんた今まで損ばかりしてたんじゃないか?」

 おとなしそうな顔をしたヤトゥは意外に食えない笑顔で「そうでもないですよ」と応えた。

「どちらにせよ、生きて帰れる見込みは低いだろうからな。残された時間を悔いなく生きることぐらいしかできないな」

 ペットボトルと薬を握り締めて与えられたテントへ戻ると左の一番端で眠っているシオの所へと向かう。

 まるで胎児の様に毛布に包まり眠る顔は穏やかとはいい難く、炎症による高熱と荒い息遣いの中で時折苦しげに呻き声が漏れる。上気した頬とじっとりと粘つく様な汗を掌で拭ってクイナは「シオ」と呼びかけた。

 眠っているのを起こしたくは無かったが時間がない。

「シオ、起きろ」

 肩を掴んで揺さぶると漸く目蓋が動いて薄く目を開く。熱に浮かされ潤んだ金の瞳は視点が定まらないようでふらふらと揺れている。

 強引に首の下に腕を入れて上体を起こすと、力が入らないのかぐったりとしたまま茫洋とした目を向けてきた。

「薬もらってきましたよ。飲んでからゆっくり寝て下さい」

 ヤトゥがペットボトルの蓋を取ってそっと唇に宛がうとシオは注がれるままにゆっくりと水を飲んだ。潤した後で炎症止めと鎮痛剤を口の中へと押し込み、再び水を流し込む。嚥下されて薬が胃の中へと納まるまで抱き起したままじっとシオの顔を見下ろしていた。

 腕に伝わる体温の高さは尋常では無い。

 医者を自任するヤトゥが大丈夫だと請け負ってもクイナは安心できなかった。沢山の人間がたいしたことの無い怪我や病気で命を落としていくのを見てきたからだ。

 人は些細なことがきっかけで簡単に死ぬ。


 普段余計なことは喋らないが、弟や妹の話になると目を細めて照れ臭そうに話す姿を同僚たちはみな微笑ましく見ていた。タキは無駄口を叩かず誰よりも真面目に働く男だったし、頼りがいのある男だった。

 クイナもそんなタキが好きだったし、なんども助けられてきた。

 そんなタキが帰ってこないと本当に心配し、案じていた弟とこんな北の端で再会したことはきっと偶然ではないのだ。

「大丈夫だ。すぐ良くなるからな」

 ヤトゥの言葉を今は信じるしかない。そっと元の通りに横たわらせて腕の中に薬と水を抱えさせ、クイナは毛布をきっちりと巻きつけてやる。

 そして腰を上げると近くにいた男たちを容赦なく叩き起こした。

 なんだなんだと訝りながら起き上がる男たちに意味ありげな視線を注いで、唇に指を当てて喋るなと伝えてからその指を近くの茂みへと向ける。

 そうすると勝手に逃げ出すのかと希望で瞳を輝かせるのでその都度胸が痛むが、適当に頷いてやると男たちは腰を低くしてヤトゥに続いて森へと分け入っていく。

中には苛立ちを隠さずに声を荒げる者もいたが、そういう奴らには力づくで従わせて、森の中へと導いた。ひとつのテントから大人数が消えていれば直ぐに気付かれるので、近くにあるテントを渡り歩いて適当に十人ずつ見繕った。

 篝火だけの灯りの下では十分に辺りを照らすことができない。職場では発電機を使って照らす日と、篝火を使って仕事を行う日とあったので、炎が照らすことの出来ない死角を知っていたクイナにとって暢気な兵たちの目を盗んで動くことは容易かった。

 最後の十人を森の中へと向かわせた頃になりようやくさっきの暗い男とプノエー少尉がやって来た。それぞれが重そうな袋を担いでいて、そんな物を持って何故怪しまれずに来られたのか謎だったが騒がれていないのでそこはクイナが考えることでは無い。

「どうだ。五十人集まったか」

「森の中に潜ませている」

「ご苦労。急げ」

 男から袋を渡されると固い感触と金属の触れあう音が聞こえた。急かされるままにクイナは森へと入り、背後からついて来るプノエー少尉の重い足取りを気にして歩を緩める。

 重い袋のせいだけではないだろう。

 彼はこれから任されている密命である奇襲攻撃に不安と恐れを抱いているのだ。


 こんなことがあるのだろうか。


 プノエー少尉とあの男がどんな上下関係かは解らないが、互いに面識があり命令を実行させるための信頼関係のような物は無かった。

 そんなあやふやな命令を通せるほど軍という組織の規律は統一されていないのか。

 疑問は残るが今は従うしかない。

 いずれにせよ戦うことになるのは間違いないのだから。


 早いか遅いかの違いだけだ。


 目が覚めてクイナとヤトゥがいないことを知ったらシオは怒るだろうか。タキから聞いていた弟は気が短くて喧嘩っ早いらしいから、きっと黙ってはいないだろう。


 どうか追いかけて来ることだけはしないで欲しい。


 きっと奇襲をかけた自分たちは無事に国境へと戻ることはできないだろう。しかも五十人の戦闘訓練も受けていない人間にできることなど少ない。

 そして五十人の無戸籍者とたった一人で対峙せねばならぬ少尉に同情する。

 彼は薬が欲しいと強請ねだるクイナたちに力を振って追い払った他の兵士とは違う。迷惑そうにしながらも邪険にすること無く相手をし、そして結局は薬と水を持ってきてくれた。

 少なくとも恩を感じるだけの好意はある。

 無戸籍者たちが反感を持って抵抗したならば彼を護るくらいはしよう。

 山肌を十分ほど下った場所にヤトゥがいた。手を振って合図をする背後に不安げな人たちが立っている。

 下りてきたクイナの後ろから現れた兵士を見てみんなの顔が変わるのが解る。

「なんだよ、逃げるんじゃなかったのか!?」

 悲鳴のような声に怯えがあった。

 誰もが死ぬのも戦うのも嫌なのだ。

「騙したのか!?」

「お前軍の人間だったのかよ!」

「それともおれたちを売ったのか!その見返りになにをもらったんだよ!」

 詰る声にクイナは頬の内側を噛んで耐える。

 彼らの怒りは尤もで、無作為に選ばれた彼らには何の落ち度も無いはずだ。近くにいたヤトゥの腕を掴み、説明を求める彼らの必死さに胸が苦しくなる。

「騙したつもりはない。そもそもおれは逃げるとは言ってない。勝手に勘違いしたあんたらが間抜けなんだ」

 わざと挑発的に嘲笑してやった。

 勘違いするように誘導したのはクイナの方だ。彼らは悪くないのに、そう言わねば納得しない。今更頭を下げて協力してくれと頼んだ所で、従う訳がないのだから悪役を演じて力で導くしかなかった。

「今から麓の町へ行って攻撃を行う。迅速に攻め落として町を占拠する」

 怒りに満ちた視線の前でプノエーは静かに告げる。


 五十人で町を占拠する!?


 さすがに内心で驚き、クイナはこの作戦の無謀さに呆れた。

「その日のうちに本隊が町へ下りてくる。それまで守りきるのが我々の任務だ」

「ちょっと、待ってくれよ!そんなことできる訳ないだろう!どうやってこの少ない人数で町を攻め落とせって言うんだ!」

 そうだそうだと追従する人々を前にプノエーが持っていた袋を地面に置いた。

 不穏な重い音を聞き一斉に口を噤んで後退すると、それぞれ目配せし合って怖気づく。仕方がないのでクイナも持っていた袋を降ろして口を開けて中身を確認する。

 出てきたのは大量の手榴弾と弾薬。そして連射のできない拳銃が人数分。

 こんな装備で戦えとは、死ねと言われているのと同じ事だ。

 暗澹たる気持ちで拳銃を持ち、弾倉を取り出し弾薬を詰めた。

「おれたちにはもう戦うしか道は残されていない。後から送り込まれてくる同じ境遇の人間の為に敵を減らすぐらいしかできない。もし、それが嫌だと言うのなら、」

 カチリと音をさせて弾倉を戻して撃鉄を起こす。そしてゆっくりと構えてそれぞれの頭部を狙いながら横へ移動させた。

「おれが今すぐこの場で楽にしてやる」

 死にたくないと思う気持ちはみな同じだ。クイナの目が本気であることは伝わったらしく、おとなしく俯いて戦うことを無言で了承した。

「町の情報は無いが、今から山を下りて到着するのは夜明け前。町の人間はみな眠りの中だ。混乱に乗じて制圧する」

 作戦という作戦は無いようだ。

 とにかく町の人間はみな敵であり、攻撃対象だと認識していれば間違いない。


 国が違うだけで同じ人間なのに殺しあうなんて、とてもじゃないが納得はできないだろう。


 クイナもまだ受け入れられないのだ。

 生きるために盗みや、多少の傷害事件は起こしたことはある。それでも人の命を奪ったことは無かった。

 本当は怖い。

 死ぬことも殺すことも。

「時間がない、出発する」

 プノエーが号令をかけたので、荷物を担いでクイナは先頭をヤトゥに任せて真ん中あたりを見張りながら歩き出す。最後尾は少尉。

 渋々戦いに挑まねばならない男たちの足取りは重く遅い。緊張状態の中で獣道のような細い山道を下るのは疲れる。ただでさえ慣れない山道だ。全員の顔に疲労が色濃く浮かんでいた。

 誰もが無言で進む。

 無理難題を押し付ける国への怒りと反感をどこにもぶつけることができずに苦悩し迷っている。このまま命じられるまま人を殺していいのかという葛藤に苛まれ、死の行軍を続けるのは辛い。


 早く終わって欲しい。


 クイナは切に願う。

 境界線を越えてしまえばきっと楽になれる。全て終われば仕方がなかったのだと言い訳ができるから。

 生殺しのままでいる方が何倍も苦しい。

 本来なんの権利も持たないクイナたちは、諦めることに慣れているから。


 一度殺してしまえば、きっとなにも感じなくなる。


 漸く町の形が闇の中に薄らと見えてきた。そう大きな規模では無いことに安堵して、クイナは銃を握る手に力を籠める。

 東の空が瑠璃色へと変化していた。

 寝込みを襲うなど野盗や盗賊のような卑怯なやり方だが、味方の損失を最低限に抑えるためには有効な方法でもある。

 山裾に広がる畑と牧草地帯には動くものはいない。山のギリギリで止まり、プノエー少尉は五十人の内十五人ずつクイナとヤトゥに任せ、残りの二十人を率いて三方向から突入すると説明した。

 方法は問わない。

 そして容赦はするなと言い含めて、少尉は二十人に武器を持たせないまま町へと近づいて行く。

 ギリギリまで武器は持たせない方がいいのは解るので、クイナもそうすることにした。

 ヤトゥとも別れてクイナは西側から町へと近づく。十五人の顔を見るとみんな真っ青な顔で震えていた。

「死にたくなければ引き金を引け。躊躇ったらやられるぞ」

 町外れの小屋の影でクイナは荷物を開けて銃と弾薬を手渡す。そして手榴弾も数個持たせると、彼らの顔を見渡して「騙したようにして連れてきて悪かった。生きて作戦を終えられたら幾らでも殴らせてやるから」と謝罪して。

「……殴るだけじゃすまないからな」

 一人の男が手榴弾と弾薬でズボンのポケットをパンパンに膨らませて睨む。他の十四人も同じような出で立ちだ。

「生きて国へ帰れたら、なんか奢れよ」

「――――っ!」

 男は笑窪を刻んで破顔した。

 その言葉と笑顔にクイナは息を飲む。


 生きて国へ帰れたら――彼は帰るつもりなのだ。

 この戦争を生き延びて。


「……ああ、なんでも奢ってやるから、だから、」

 生き延びよう。

 約束をしてクイナは立ち上がる。そして強く頷く仲間たちの瞳には諦めない不屈の闘志が燃えていた。

 後は無言で視線を合わせてから町への侵略を始める。

 一軒の農家である家の扉を蹴り開けて、二人を一階の奥へクイナは二階へと上がる。古い木造の家屋は歩くたびに音がした。

 他人の匂いのする家はクイナを異物として弾き出そうとしているように感じる。激しく脈打つ心臓と、緊張で震える指に余計な力が入らないようにと何度も深呼吸をするがたいした効果はないようだった。

 階段を上って直ぐの部屋を開けるとダブルベッドの上に二つの影が横たわっているのが見えた。年老いた夫婦は深い眠りの中にいるようで、銃を構えて入ってきたクイナの気配に気づかない。

 一歩。

 また一歩近づく。

 睫毛が落とす影も、皺も、少し開かれた唇の間から見える前歯まで解る距離まで近づいた後で後悔した。

 薄暗くて顔が判別できないまま引き金を引けばよかったのに。

 そうすれば殺すことになる老夫婦の顔など知らぬままで済んだ。


 いや。


 首を軽く振りクイナは思い直す。

 自分が殺す相手だからこそ顔を覚えていなくてはならないのだ。


 息を吸い込んで銃口を定める。

 まずは夫人から一瞬で終わらせられるように頭部に狙いをつけ、恐怖で震える腕を左手で支えた。ぐっと力を指先に入れて引くと冗談かと思えるような音と衝撃にびっくりする。匂いが鼻に感じられる頃には驚いて飛び起きた夫が意味の無い言葉を叫んで寝台を飛び降りてきた。

 撃鉄を起こしてもう一度。

 目を見開いたまま白髪の老人は喉を押えて床に倒れた。どくどくと流れる血が喉の奥で逆流して苦しそうにもがく。狙いが甘かった所為で頭部を撃ち損なってしまった。

 可哀相に苦しまずに殺すことができなかったことを詫びてクイナは今度こそ頭部を狙う。

 床が頭蓋骨に着弾した衝撃で振動する。新たに流れる赤い液体の中に血では無い物が混じっているが、クイナはそこから目を反らして部屋を出る。


 超えたのだ――。


 もう戻れぬ一線を自分の意思で。


 他に方法はあったかもしれないが、今更もしもと仮定することは愚かである。

 クイナは目を閉じ束の間黙とうを捧げた。

 こうして生きて行くしかないのだと言い訳しても虚しいだけだったが、自分が奪った命に釈明した所で罪が無くなるわけでもない。

 階段を下りた所で合流し、町の奥へと向かうために急いだ。


 夜明けが来る前に、全てを終わらせると誓って。

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