エピソード49 兄の手
貨物トラックの扉が開かれるまで荷台の中はシオが嘔吐した物の匂いが充満していた。痛みの激しさに気を失い、そしてまた強い痛みに目覚めを余儀なくされるという責苦は永遠に続くのだろう。
死ぬまで。
乗せられた時のまま入口で倒れていたシオに扉を開けた兵士たちが騒然とする。死にかけている人間をどうするか頭を突き合わせて相談しているのをぼんやりと聞きながら、シオを避けるようにして乗っていた人間が次々と下ろされていく気配に神経を尖らせていた。
長い距離を移動してきたトラックの中で痛みにのた打ち回り、吐き続ける人間がいるのは迷惑であり、恐怖でもあるだろう。
嫌でも死を意識させられる。
これからの自分たちの上に確実に降りかかるであろう死の予感が、彼らを怯えさせたに違いない。
申し訳ない気持ちはあるが、今はただ痛みがシオを苛む。
後ろ手に縛られたままでは痛む腹を宥められず、呻いて身体をくの字に曲げるしかない。
「大丈夫ですか?」
下りて行く人々の列から離れてしゃがみ込んできた男がいた。シオの顔色をじっくりと見て、次に吐き出された物を観察する。その目が素早く腹部へと移り、シャツの裾へと手を伸ばしてきた。
「ちょっと診せて下さい」
なにをするのかと警戒し身動ぎしたシオを宥めるように微笑んで見つめ、男は「医者の端くれなので、少しは力になれるかもしれません」と安心させるように優しく続けた。
疑いながらも一際痛みを訴えた左の腹に顔を顰める。
その隙に男はシャツの裾を捲り上げてきた。
「……腫れていますね。強く殴られたか、ぶつけたか」
「うあっ!」
ひんやりとした指が左の骨盤の少し上を押えると激痛に目の前が赤く染まった。なにかを探るように指先をめり込ませながら少しずつ動かして行く男の腕を振り払いたくても自由がきかない。
「やめ、ろ!」
「痛むでしょうが、もう少し」
穏やかな声だがいたぶる様に指は執拗に痛む場所を圧してくる。医者だと言うがとんだやぶ医者だ。
痛がる人間を追い詰めるように苦しめるのだから。
「があっ!!」
一番深い所を抉られて身体が跳ね上がった拍子に首から下げたドックタグが襟首からこぼれ出てきた。
二枚一組の薄い金属の板。
縋りたくてたまらないのに腕が縛られているから握り締めることができない。目尻から流れる涙の理由は痛みと寂しさからだ。
「た、き……す、」
乱れた呼吸の合間に呼ぶのは兄妹の名前。
自分たちにはそれしかなかった。
それだけで十分だったのに。
「おい、これ」
頭の上を通り過ぎて行く沢山の足音のひとつがまた立ち止まってシオの傍に気配が落ちる。太い腕がドックタグへと伸ばされるのを拒むことはできなかった。
「や、めろ、さわんじゃ、ねえ」
罵倒できずに嗚咽混じりの懇願になってしまった屈辱に身を震わせてシオは男を睨んだ。ぼさぼさ頭の茶色の髪に同色の瞳。真っ直ぐ引かれた太い眉にがっしりとした体躯。日に焼けた肌をした朴訥そうな男だった。
「タキ、シオ、スイ……それから住所か」
「……かえせ」
彫られた文字を男が読み上げて眉を下げる。優しげな微笑みにシオは気勢をそがれたが、ここで怯んでは大切なタグを奪われてしまうかもしれない。
たいした代物ではないが、人の物を無闇に欲しがる人間も中にはいるのだから。
「そうか。お前が可愛い女の子の家に転がり込んで兄ちゃんを心配させてた弟か」
「な、にを」
言っているのか解らない。
だが男はタグを襟首の中へと戻し、シオの頭を大きな掌で撫でてくれた。
「タキの弟ならおれの弟も同じ。こんな所で初顔合わせとは散々だが、知ってる奴がいる方が心強いもんな」
「あんた、タキを――」
知っているのか。
「そうだ。一緒に働いてた。おれはクイナ、よろしくな」
「私はヤトゥです。どうやら腸が腫れているだけのようなので、命に別状はないでしょう」
破れていたり、出血していなくてよかったと笑うがこれほど痛いのに腫れているだけとは信じられない。
そもそも触れただけで出血しているかどうか解る程名医には見えないので、もしかしたら気休めなのかもしれないと嘆息する。
それでも命に問題は無いと言われて現金にも痛みが薄れた気がした。
「大丈夫なのか?」
シオの処分をどうするかで悩んでいた兵たちが、医者だと自称するヤトゥに恐る恐る尋ねて来る。ここで駄目だと判断されればシオは捨て置かれるか、面倒だと殺されたかもしれない。
「暫くは薬を投与して安静が必要ですが」
きっと与えてはくれないでしょうねとヤトゥは苦笑いする。兵たちも自分たちの一存で物資を分けることはできないのだと弁解し、テントで休ませてやれと指で指し示してくれた。
「んじゃ行くか」
軽々とシオを抱え上げてクイナが荷台から降りる。タキと同じ港で荷卸しの仕事をしていたからか歩いていても安定感があり、少しの衝撃でも痛む腹に不思議と響かない。
死ぬまで続くのかと思っていた痛みが落ち着き始め、横たえられクイナによって戒めを解かれたシオはかけられた毛布に包まり安堵の息を洩らした。タキと離れて北へとやって来たが、ここでまた兄に助けられるとは。
どこまでも頼りがいのあるタキに感謝しながら、クイナにもその意思を伝える。
「ありがと、な」
「いいって」
再び大きな手が頭に触れてきて、シオは無意識にその掌に額を擦りつけた。幼い頃タキと二人で母の帰りを待っていた、あの狭い世界の中でいつも身を寄せ合い寂しさを紛らせていたのを思い出す。
泣いてばかりいたシオが眠るまで頭を撫でてくれた兄の手を。
スイが生まれて孤児院で生活するようになってからはそんな触れ合いは無くなったが、いつも優しく見守ってくれていたタキの視線を感じていた。
「タキ……」
泣き虫の癖に生意気なシオをいつも落ち着けと諭し、逸るなと言い聞かせてくれたタキはここにはいない。
あるのは残酷な現実だけ。
それでもシオは生きている。
まだ。
「今はゆっくり休んでください」
それが一番の薬ですよとヤトゥが囁く。
シオはそっと頭を動かして頷くと、毛布に頬を埋めて目を閉じた。痛みは無くならないが、憔悴しきった身体は眠りへとゆっくり落ちて行く。
「薬が貰えるように談判しますから。そうすればもっと楽になれますよ」
「……ああ」
生返事を返したことは覚えているが、意識はそこでぷつりと途切れた。
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