エピソード48 宣戦布告
厚い天幕に囲まれたテントはストーブが置かれているからか温かい。中央に置かれた折り畳み式のテーブルの上にはスィール国とマラキア国が描かれた地図が乗せられている。
上座に立ち地図を眺めているこの軍の大将たるアオイを観察しながらエラトマは心中で毒づいた。
評判通りの弱々しい男だ――というのが第一印象。
つるりとした丸顔に、目尻の垂れた優しげな面立ちは成人しているのにも拘らず幼く見えた。ほっそりとした身体からは気迫も次代の覇者たる風格も感じ得ない。生真面目そうな顔と潔白な雰囲気は政の汚さも、軍の激しい強さとも無縁な所で生きてきたのだろう。
中央参謀長官から直々に今回の派遣を打診され、エラトマは二つ返事で飛びついた。参謀部で同期のハモンがあまりにも優秀なため、その陰に隠れて評価されていなかったことを常に不満に思っていたが、漸く自分にも活躍の場が与えられたのだと喜んだ。
しかも反乱軍討伐隊の参謀としてハモンが派遣されたと聞き、勝手に劣等感を燃え上がらせ闘志へと変えた。
反乱軍など簡単に討伐が可能な作戦にハモンを宛がうなど、さぞや臍をかんでいるに違いない。
今回のマラキアとの戦は誰もが勝ち目がないと思っている。
その作戦をエラトマが担い、勝利へと導くことができればどちらが本当の策士か解らせることができる。
またとないチャンスだと思って乗り込んできたが、軍の士気を左右する大将のアオイがこんなに頼りない姿ではただでさえ使えない無戸籍者の兵が更に怖気づいてしまうではないか。
それに次期総統と目されているアオイとこれを機に御近づきになり、将来へと繋げられればと思っていたが――それも必要のないことかもしれない。
歴代の総統はみな傲慢で不遜だった。
荒ぶる海のように全てを飲み込まんばかりの激しさで軍と政を掌握していた。手綱を緩めることなど一切なく、鋭い眼光で監視し、刃向う者には容赦なく粛清を行う。
だがアオイにはその激しさも、厳しさも無い。
本当にあの総統閣下の血を分けた息子なのかと疑ってしまうほどに、容姿も雰囲気も性質も真逆だった。
そんな者に次期総統の地位が巡ってくるはずはないだろう。
もし総統になれるとしたらこの戦いで勝利を治め、国土を広げることに成功したことを評価されてのこと。
その為に貢献したエラトマが昇進することは間違いがない。
アオイが総統になるためにはエラトマの策が必要で、そしてエラトマが揺るぎ無い地位を手に入れるにはこの戦いに勝利せねばならないのだ。
互いの利の為には協力するのが一番だった。
まあ、御しやすいと言えば御しやすいか。
総統の面影なきアオイをこの戦場に置いてエラトマの思惑通りに動かせられれば問題は無いだろうと、覇気を感じられない穏やかな大将を受け入れることにした。
「マラキア国の兵力は予備役を含め三十一万人と言われております。圧倒的な兵力差と銃火器などの武器の差はそうそう埋められる物ではありません」
陸軍中将シルクは重々しい声で厳しい現実を告げる。いかにも軍人然とした男で高い頬骨と顎の張った四角い顔に、険しい表情を張り付けていた。総統の息子であるアオイを一応は尊重しているようで、これからの指針を示されるのを待っているようだ。
相手は国力を十分に蓄えており、七千万人の国民を抱えた豊かな国でもある。
百五十年戦争を経験していないマラキアはその分繁栄しているが、平和呆けした温い国であることもまた事実。
そこにこそ勝機はある。
スィール国も今は滅亡した南の国から侵攻された五十年前には国民六千万人程を有していたが、攻め込まれた街に住む八万人と兵士十四万人が犠牲になった。二年に渡る戦争で国民二十万人、民間兵含む兵士二千万人が更に命を落としたと言われている。
予想外に手強く激化して行く戦争を終わらせるために化学兵器の投入がなされ、その結果十八万人が死亡し、生死共に行方不明者が一千六百万人とされていた。
南の国からの侵攻者たちの人口と今のスィール国の国民数はそう変わらない。
それでも化学兵器の使用を強行せねばならなかったほどに彼らは粘り強く戦い、そして長期の戦いにも耐え抜いたのだ。
我々にも同様の戦いをできない道理は無い。
不意を突いた先制攻撃で完膚なきまでに叩き潰すことができれば――。
「マラキア国に宣戦布告をする」
アオイが口にした言葉にエラトマは思わず「なんですと!」と声を上げていた。陸軍中将シルクはちらりと視線を動かしてこちらを見たが、直ぐに視線は逸らされてアオイへと移動する。
「当然だろう。マラキア国とは国交があり、彼の国からの物資の援助や協力があったからこそ我が国はなんとかやってこられたのだ。国際条約にも宣戦布告無しの開戦は固く禁じられている。それを破って戦いに挑めば周辺国の反感を買い、スィール国は貿易や国交や援助を受けられなくなってしまう」
眉を寄せてエラトマの反感に対しての不快感を顕にアオイが正当な言葉を吐く。だがその言葉が単なる綺麗ごとであり、戦争を仕掛けようとしている側である自分たちが国際条約を護れば勝利が遠退くことへの懸念は配慮されていない。
「どうか、お考えを改めてはもらえませんか?シルク中将からマラキア国との兵力戦力の差をお聞きしたはず。正攻法で挑んだ所で勝ち目はありません。アオイ様はこの戦いに勝つためにこちらへと来たはずです」
アオイは紺色の瞳に一瞬困惑と迷いを浮かべたが「そのつもりだ」と短く答えた。
「それならばここは宣戦布告など御止めになり、相手の不意を突き、先制攻撃を仕掛けて勢いをつける方がこれからの戦いに有益になります。最初の戦いを勝利で終えるか、敗走するかで全く違う結果になるのです!」
伝わるように熱意を込めて訴えるが、アオイの顔はだんだんと翳りエラトマへの不信感を募らせていくように思えた。
「
「私は国際条約を破棄して戦うことで、今後スィール国が負わねばならなくなる損害を心配しているのだ。我々が戦いに勝利したとしても国が更なる混迷を迎えていれば意味は無い。なんのために戦うのかを忘れるな」
エラトマから視線を外してアオイはシルク中将へと向けると「明日、宣戦布告を行う。準備を進めておけ」と命じてテントを出て行った。その後ろに続く護衛隊長が冷たい目で睨んでいったが、そんなもの痛くも痒くも無い。
ただ腹は立つ。
陸軍中将シルクは無言でテントを去って行き、取り残されたエラトマは「これだから清濁併せのむことのできん人間はっ」と愚痴り爪を噛む。
戦いにおいて正々堂々という言葉は力ある者にのみ許される権利である。
それを理解していないのだ。
「愚か者め」
舌打ちをしてテントを後にする。入口に立っていた歩哨が敬礼をしたが、その顔に侮蔑が隠れているのを見つけ苛立つ。
どいつもこいつも役立たずの癖に、一人前に人を貶す。
森を切り開いて野営地の為の広場が作られているこの場所は闇に包まれて重苦しい。カルディアよりは空気が良いが、その分北に位置する為に冷え込みは厳しかった。
粗末なテントの下で薄い毛布に包まれているだけだというのに何故眠れるのか不思議だが、無戸籍者たちはぐっすりと寝息を立てている。
こっちは吐き出す息が真っ白いのを見ているだけで寒気が襲ってくるというのに、鈍いと言うか逞しいと言うか。
「お願いです。炎症止めか、なければ鎮痛剤でもいいんです!」
「駄目だと言っているだろう。おとなしく寝ていろ」
「そんな!寝ていて治るようなら頼みませんよ」
「けちけちするなよ。あるんだろ?少しくらい分けてくれてもいいじゃないか」
篝火の近くで一人の兵士を捕まえて二人の無戸籍者が懇願している。迷惑そうに追い払おうとしているが、二人の男は食い下がり続けていた。
大柄の鳥の巣のような頭をした男と、学者風の男が必死で薬が欲しいと頼んでいるようだ。
エラトマが「どうした?」と兵に声をかけると「それが」と困惑気味に説明をしてきた。
どうやら連れて来られてきた無戸籍者の中に体調を崩している者がいるらしい。その為に炎症止めか鎮痛剤をくれないかと陳情していると。
「あの状況じゃ戦えない。戦うために無理矢理連れて来たのなら責任とれよ」
兵の胸倉を左手一本で掴み上げる腕力は十分な戦力として働いてくれるに違いない。だがこの場で大切な兵を傷つけられては困る。それに騒ぎが大きくなり、寝静まっている無戸籍者たちが一斉に暴れ出せば互いにただでは済まない。
大事な戦いを前に衝突は避けた方がいいだろう。
貴重な物資だからとたった数粒の薬をケチった所為で揉め、戦力が削がれるのは困る。
「いいだろう。用意してやれ」
「え?いいんですか?」
「責任は私が取る。早く取ってこい」
兵を掴んでいた手を放すと男が「あんたが話の分かる奴で助かったぜ」と破顔するが、エラトマは善意でしたわけでもないので黙って無視した。
もたついている兵を追い払うようにして急かせると、漸く決心したのか敬礼して倉庫へと走って行く。
「良かったですね」
「ああ。これであいつも少しは楽になるだろう」
二人は顔を見合わせてほっとした顔で喜び合っている。元々知り合いなのか、それともここへと連れて来られる過程で親しくなったのか解らないが、自分のことよりも他者の心配ができるほど余裕があるらしい。
善良と言うよりは馬鹿なのだろう。
統制地区で生きている人間は総じて愚かだ。
ここで薬を貰って命を繋いだところで、直ぐに死が訪れると言うのに。きっと生きて帰れると思っているのだ。
戦争へと駆り出されて生きて帰れるものがどれ程いるのかを知らないから希望を持っていられるのだろう。
それならば早々に希望は打ち砕いてやった方が親切と言う物だ。
人の心配などしている場合では無く、自分の命を大切にしろと教えてやろう。
銀色の包みに錠剤が並べられたシートを二つ持って走って戻ってきた兵が男たちに差し出す。
「炎症止めと鎮痛剤だ」
どうやら両方持ってきてやったらしい。しかも飲むための水の入ったペットボトルまで与えるとは存外にこの男もお人よしだと眉を寄せたが、その対価が自分たちの命であると知らぬ二人は有難がって頭を深く下げていた。
薬と水を持って病気の男の元へと戻ろうとしていた二人を呼び止める。
怪訝そうな顔だが警戒心はそこに全く無い。
「お前たちに重要な任務を与える。今から五十人程を引き連れて麓の町を襲え。他の兵士に気付かれないように注意しろ。お前、名は」
「第二中隊所属プノエー少尉です」
「そうか。ならばプノエー少尉、小隊を率いてマラキア国に奇襲をかけろ。これは密命だ。大将閣下は速やかな作戦実行を望んでおられる。直ちに武器を集め、出兵せよ。誰にも気づかれてはならない」
「……ですが」
突然の作戦命令に戸惑いながらプノエーは視線を彷徨わせた。直属の上官では無い参謀官のエラトマからの命令に従うべきか否かを考えている。
「これはこの戦いの行方を決める大切な作戦だ。機を逸しては敗戦へと至る。一分一秒を争う問題だぞ。失敗すれば叱責では済まず、お前の首が飛ぶことになる」
「そんな」
蒼白になったプノエーが惑っている時間を与えてはならない。
「直ぐに準備をしろ。お前らもだ」
二人連れがはっと顔を見合わせて走り去る。エラトマは兵の背を押して武器庫へと足を向けた。それとなく口添えをしてやらねば武器を調達することはできないからだ。
宣戦布告などさせるものか。
意地の悪い思いで呟き、エラトマは澄ました顔のアオイが追い込まれて行く姿を想像してほくそ笑んだ。
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