エピソード36 罪悪感の吐露
鍵を開けて早足で部屋へと入ると心安らぐコーヒーの香りが漂っていて現実との温度差にホタルの身体から力が抜けてしてしまう。ここへと帰り着くまでに目にした多くの軍の車や、その中に押し込められた人々の姿を思い返して遣る瀬無い気持ちのままリビングへと移動する。
テーブルの上には朝食は乗っていないが、用意されたジャム用のスプーンや砂糖、フォークなどが置かれ、いつでも食べられるように準備されている。
一人分のコーヒーが硝子のサーバーの中に抽出されていたが、触れると随分冷めていて誰に飲まれる訳でも無く放置されていた。保温効果のあるコーヒーメーカーは電力消費が大きいので、統制地区では湯を沸かしコーヒーをドリップし終わると自動的に電源が落ちる物が主流だ。
コーヒーメーカーを使って淹れるということ自体が贅沢なことなので文句は言えず、作って直ぐに飲んでしまえば構わないので不便は無かった。
アゲハは浪費家では無く、物を大切に使う。特に食べ物に関しては顕著で、それは家を出た後に食べる物に苦労したからだろうとホタルは思っていた。
そんなアゲハが冷めるのが解っていてそのままにしているということが胸の不安を掻き立てる。
なにかがあったのだ――。
あれほど街を騒がせている保安部と治安維持隊の行動を見れば、その捜索の手から逃れることは難しいだろうと察することができる。確実に軍の手はこの第四区にも伸びており、タキたち兄妹の部屋も襲撃されたとしてもおかしくは無かった。
初手で多くの無戸籍者を捕えなければ意味がないことは軍もよく解っている。だから容赦なく引き立て、抵抗する物には力を揮う。
一斉に動き出した作戦は綿密な打ち合わせが重ねられ、逃げる隙を与えぬままに捕縛することを優先し動いている。
「アゲハはどこに」
そしてタキたちはどうなったのか。
ラジオをつけようと手を伸ばしたホタルの耳に玄関から鍵を開ける微かな音が聞こえた。最初は空耳かと疑いながら神経を総動員して耳を澄ませていると、ドアノブが回り引き開けられた空気の流れに乗ってコーヒーの香りがリビングの入り口の方へと移動する。ホタルは焦って玄関へと走った。
「――アゲハ!」
玄関の壁側に重そうに自転車を置き、疲れ果てたようにしゃがみ込んだアゲハの横顔が痛々しいほどに赤黒く腫れている。駆け寄ってよく見れば顎の下が裂けていて、傷口の周りの血は乾いて固まっていたが、開いた部分からはまだじわじわと出血していた。
汗だけでは無い酸味のある匂いがアゲハから漂っており、憔悴しきった様子も含めてなにかと戦ったのだということだけは解る。
あのアゲハが。
というのが正直な感想で、こんな状況だというのに胸の奥が震えるような喜びが湧き上がる。
アゲハは小さな頃から引っ込み思案でおとなしい性格だった。外で元気に遊ぶような子供では無く、自室で本を読んで過ごし一日誰とも喋らなくても気にならない。それでもホタルが誘えば仕方ないなという顔をしながらも嫌がらず外で一緒に遊んでくれたし、くだらないお喋りにも付き合ってくれた。
運動が苦手だから好んで部屋に籠っていたわけでは無い。
走れば兄妹の中でも一番速かったし、器用なアゲハはどんなスポーツも直ぐにコツを掴んで上達した。
注目を集めるのが嫌なのだと気づいたのはアゲハが学校へと行くようになって今まで以上に塞ぎこむようになってからだった。
親しい友達を作ろうともせず、授業以外では教室に寄りつかない。どこに隠れているのかは解らなかったが、授業開始一分前に戻ってきていたそうだ。
誰に対しても遠慮がちで、深く付きあうことに怯えていたアゲハが家を出て行った時には心配よりも不安が大きかった。
自分の命を捨ててしまうのではないか。
父も熱心に探そうとしなかったのは既に死んでいると思っていたからかもしれない。死ぬための家出だと感じていたのは父とホタルだけでは無く、キョウやヒビキすらもそう思っていた節はあった。
だがそう簡単に死を選ばないであろうことも心のどこかで感じていた。
アゲハが残した手紙は国と父へ向けての強い反発と、踏み躙られ続けている人々への優しい思いが満ちていたから。
絶望だけが書き記されていたのならアゲハは死んだのだと受け入れたかもしれない。
家を出た後の弟が沢山の苦汁をなめ、殺伐とした現実を目の当たりにして得た物がきっと良い経験になったのだ。
そして隣人の兄妹に接するうちに大切ななにかを手にした。
こんな姿になるまで必死に戦おうとする気持ちが芽生えた――それが嬉しかったのだ。
「アゲハ、立てる?リビングで手当てをしよう」
腕を取って肩を貸そうとすると抗うように手を振り払われた。見上げてくるコバルトブルーの瞳はくすみ、その中に浮かぶ後悔の念にホタルは痺れたように固まる。
「私、帰ってきちゃった」
顔を歪めて面を伏せ、アゲハは搾り出すように声を出す。指を握り締めようとして痛みに呻き、左手がさっと抑えた右手の甲がまるで水が溜まっているかのように膨らんでいた。
「帰ってきて当然だよ。ここはアゲハの家でもあるんだから」
「そう、じゃ」
頭を振るアゲハの背中をそっと撫でて「詳しい話しは中でしよう」と促すが、違うのだと何度も繰り返して最後に「ごめんなさい」と謝った。
身を震わせて泣いているアゲハがなにを悔やんでいるのか解らない。説明を求めても今は頭も心も様々な感情が行き交って上手く言葉にできないだろう。落ち着くまで背中を擦っているぐらいしかホタルには思いつかなかった。
「……こんなの、酷過ぎる」
ぽつりと零れた本心からの言葉は、統制地区に住む者全ての心を代弁しているようだ。ホタルも同じ思いを抱いて部屋へと帰って来たのだから。
「私、なにも、できなかった」
不自然に腫れた手を伸ばし自転車に手を触れて、アゲハは愛おしそうに撫でた。銀色をした自転車に見覚えがあり「これ、シオの」と持ち主を特定したホタルの声にゆっくりとアゲハの頭が上下に動く。
ホタルが研究室に泊まり込んでいる間に帰って来たのだろうか。
「シオちゃんもタキちゃんも、スイちゃんを助ける為に戻って来たのに」
間に合わなかった、と続いた言葉に頭が真っ白になる。
彼らはみな軍に捕まってしまったのか。
「タキちゃんは解らないけど、シオちゃんは保安部に連れて行かれた」
恥じ入るように顔を背けた仕草で、シオがアゲハの目の前で保安部に連行されたのだと悟る。きっと怪我もその時に受けた物なのだろう。
なにもできなかったと己を責めるのは、シオを助けられなかったことに起因する。
「スイちゃんは」
聞くのが恐かったが、聞かない方がもっと恐い。
アゲハは膝を引き寄せて抱え込むと、そこに額を擦りつけて首を横に振る。
その動作が“駄目だった”のか“解らない”を意味しているのか計りかねてホタルは祈るような気持ちでもう一度尋ねた。
「スイちゃんはどうなった?」
「……解らない。学校まで行ったけど警備員に相手にされなくて、追い帰されそうになってた所を助けてくれた人が学生は誰一人捕まってないから安心していいって言ってくれたけど」
その情報が正しいかどうか確認が取れないまま帰ってきたのだと、悔いているアゲハの頭を抱き寄せてホタルは深く息を吐き出した。
「私よく知らない人の言うことを信じて、帰ってきちゃって、その間に本当はスイちゃんが捕まっていて酷い目に合っていたらって考えたら恐くなってきて」
「大丈夫、スイちゃんはきっと無事だから」
「シオちゃんに頼むって言われたのに、あちこち痛くて、苦しくて、安心したくて逃げ帰って」
「アゲハ、大丈夫だから。落ち着いて」
頬に張り付いた汚れ縺れた髪をそっと退けてやりながら囁くと、アゲハは激しく震えだししがみ付いてきた。その必死さに心を掻き乱されないようにと言い聞かせ、冷静であるように努める。
「正直スイちゃんのことなんかどうでもいいって、早く帰って身体を綺麗にして、服を着替えて傷の手当てをして眠りたいって、私、自分のことばかりで、」
それは仕方がないことだ。
今まで感じたことの無い恐怖と痛みを前に、自分のことより他人を思いやれる人間などいはしない。どんなに清廉潔白な人物であろうとも生死が関われば、己の身が可愛いと思うのが当然なのだ。
アゲハが助けてくれた人の言葉に縋って、自分のことを優先した所で誰も責めることはできない。
「悪くないよ、アゲハはなにも悪くない」
違う、違うと繰り言を口にしてアゲハは泣きじゃくる。自分の卑怯さを許せず、後悔の念に苛まれ続ける姿は憐れだ。
ホタルはほうっと嘆息して「間違いなくシオは保安部に連れて行かれたんだね?」と確認すると腕の中で小さく首肯する。
それならばできることはあるかもしれない。
「保安部に行ってシオがどうなったか聞いてみるよ。あそこにはキョウがいるから」
「でも」
「大丈夫。シオを助けるためになにか方法を見つけるから」
できる訳がないと思いながらアゲハはそれでも期待に満ちた瞳でホタルを見上げてくる。確かに大きなことはできない。
妹が保安部に勤めていると言ってもたいした権限があるわけでも無く、尋ねたところで秘密事項だと拒絶される可能性もある。忙しくて面会できないと門前払いになることも想定内だ。
でもこうして抱き合って慰めているよりは、アゲハの罪悪感を軽減できる。
ホタルもシオのことが心配であることには変わりがない。
「行ってくるけど、アゲハはちゃんと自分で手当てをしてじっと部屋で待っていて。帰ってきたら誰もいないとスイも不安になるだろうから」
立ち上がってノブに手をかけるとアゲハが途端に不安そうな顔をする。
「スイちゃんに、シオちゃんのことどうやって伝えれば」
「……隠してもすぐにばれる。正直に言った方がいいかもしれない」
嘘を吐けば良好だった関係が歪んでしまう。そうれならば最初から全てを伝えて、アゲハが後悔しているのならば謝ってしまった方がいいはずだ。
「解った」
悄然と項垂れてアゲハは呟き、行ってらっしゃいと覇気なくホタルを送り出す。ドアを閉めて外から施錠するとホタルは迷いを振り切るように階段へと向かった。
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