エピソード35 騒々しい日


 車が巻き上げた砂埃に咳き込みながら足を引き寄せて一旦蹲ると、蹴り上げられた腹の内部が引き攣れたように痛む。ずきずきと疼く顎も、胃液と嘔吐物のせいで食道が焼けるように熱を持っているのも苦しくてアゲハは全てを放棄したくなる。

 汚れた服も髪も頬も気持ちが悪く、饐えたような酷い臭いに再び吐き気が込み上げてきたが必死で堪えた。

 吐いてすっきりするのなら何度でも嘔吐するが、体力を奪われ胃液で食道が荒れるだけで良いことなどなにひとつないのだ。

「スイ、ちゃんを」

 護らなければ。

 シオとの約束がアゲハの投げ出しそうな気持ちを奮い立たせ、震える四肢に力を与える。なんとか立ち上がり己の身を振り返れば、部屋に戻って身体や髪を拭って着替えた方がいいような状態だった。

 だが今はそんな無駄な時間を費やしている場合では無い。

 部屋を飛び出す時から握り締めていた鍵をズボンのポケットに捻じ込んで肩口と胸元が汚れているアイボリー色のセーターを慎重に脱ぐ。汚れていない箇所で顔と髪を丁寧に拭い、最後に白いインナーシャツをズボンから出せば見苦しくない程度には身だしなみは整う。

 多少臭うのは仕方がない。

 顎の下はどうやら切れているらしく、触るとぱっくりと割れて拭いても血が滲んでくる。そのうち血が固まって止まるだろうと諦め、シオの自転車を起こして使えるかどうかを確認するとフレームが多少曲がってはいたが乗れない程では無い。

 このまま放置していけば確実に盗まれてしまう。

 シオが大切にしていた物を他の誰かが使うなど断じて許し難く、また売り払って金に換えられることになったら彼に申し開きができない。

 セーターを投げ捨てしっかりとハンドルを掴みサドルを跨いで腰をおろす。ペダルに左足を乗せ、右足で地面を蹴って勢いをつけると車輪が動いて自転車が走り出した。

 前傾姿勢で漕ぐので鈍痛が腹を襲う。ぽたぽたと顎の先から汗では無く血が流れ、シャツとズボンの腿の辺りを汚していった。

 初めて振るわれた暴力という理不尽な力にアゲハの心は恐怖に染まり、痛みと共に恐ろしい記憶として刻まれる。こんなことを平気でできる人間がいるのだということが一番アゲハを傷つけ怯えさせた。

 一度味わった恐怖は消せない。

 咄嗟にシオを逃がそうと動いたが、こんな苦しく痛い思いをすると解っていたら間に割って入ろうなどと思わなかっただろう。

 知らなかったからできたことで、シオと約束したがスイを護るために同じことをできるかと問われればアゲハは逡巡する。迷って、考えて、足が竦んで動けなくなってしまうに違いない。

 身体を駆け巡る恐怖は震えとなって現れ、今も止むことなく苛んでいる。

「私なんかが傍に居てもきっとスイちゃんを護れない」

 所詮カルディア育ちのアゲハには力に屈しない勇気などないのだ。護られて育ち、与えられることが当たり前の生活をしていた報いだろう。

 タキやシオのように庇護されずに生き抜いてきた者はそれだけで自信と逞しさを得られる。手にしているものは自分たちだけだが、その繋がりも思いも強く、互いを思いやり助け合うことを知っていた。

 中途半端に家族を捨てて逃げ出したアゲハに待っていたのは、夜の震えるような寒さと空腹、そして孤独と虚無感だけ。

 ごみを漁り、風の当たらない場所を見つけて暗闇の中で過ごした日々は苦労と呼ぶにはお粗末すぎる。あまり思い出したくない惨めな過去をアゲハは眉間に力を入れることで追いやってペダルを漕いだ。

 シオならば簡単に第二区へと辿り着いていただろうが、なかなか速度が出ないまま遅々として進まない自転車に痺れを切らす。

 こんなことなら地下鉄で向かった方が速かっただろう。

 腰を上げて立ってペダルを踏むと漸く加速し、アゲハが苦心して学校のある第二区へと入ったのは登校時間も終わり授業が始まった後だった。


 もう、無理かもしれない。


 怠い足を必死で動かしながらも脳裏に浮かぶのはシオが車に押し込められる場面。いつしかその姿がスイへと変わり、泣き叫びながら連れ去られていく。

 タキの別れの言葉が繰り返され、シオが「頼んだからな」と瞳に力を入れて見つめてくる。

「やめて……」

 何度もまるでなにもできないアゲハを責めるように、脳は映像と音で喚起してくる。昔から過度な期待に弱く、肝心な時にいつも失敗した。そんな自分の性質を知っているアゲハは失敗を恐れるあまりできるだけ人の目に留まらないように気配を殺して生きてきた。

 だが残念なことに見た目が他者より少し見栄えがするせいで注目を浴び、無理矢理発表者に選ばれたり、学園祭の劇で主役をやらされたりする。

 仕方なく失敗しないようにと練習を重ねて努力をすれば、体調を崩して休み急遽代役を立てて貰って迷惑をかけ、熱に浮かされたまま舞台に上がり台詞を間違えて台無しにしてきた。


 今度もきっと失敗する。


 幼い頃からの経験が強迫観念として根付いているアゲハには、物事が思い通りに進むなど簡単に思ったりはできない。

 父もそんなアゲハを早々に見限って、出来の悪い次男の存在など忘れたように見向きもしなくなったではないか。


 父にとって価値の無い子供として判断されることは、その頃すでに自分が他人とは違うことを自覚していたアゲハにとって世界の終わりを宣告されたも同然だった。

 兄や姉妹はどこも欠けること無く、純粋で美しい。

 父の期待に応え、軽やかに順風満帆の人生を生きていた。


 羨ましかった。


 苦しくて、兄と姉妹に醜く嫉妬する自分が嫌で仕方がなかったから。

 アゲハは家を出た。

 いてもいなくても父には変わりがないのなら、完璧な兄と姉妹を見ながらあの家に居続け心が朽ちる前に出た方が良いと思って。

 他にも理由はあるが、アゲハは穢れゆく自らの心の中に少しでも真っ白な部分があるうちに逃げ出したかったのだ。


 人間でいられる間に。


 見えてきた学校の校門の前は静かで、軍の横暴な捕縛があった形跡はなさそうだった。ピタリと閉ざされた鉄門の横に立つ警備員が胡乱な目で眺めてくるので、自転車を下りて会釈をして近づく。

「あの、すみません。スイという学生が在籍していると思うのですが、彼女は今どこに」

 あまりにも間抜けな質問だが、第四区での保安部の強引な行動を思えばスイが無事だとは楽観できない。

 授業を受けているのか、それとも保安部に連れられて行ったのか。

「お前とその学生はどういった関係だ?」

 明らかに胡散臭そうな顔でアゲハを見ている。

 それもそうだろう。

 顎から出血した血で汚れたシャツを着て、ふらふらになりながら自転車で乗り付けてきた人間を誰もまともだとは思わない。

「友人の妹なんです。心配だから見に行って欲しいと言われて」

「友人の妹ねぇ」

 疑いの眼差しにアゲハはやはり身なりを整えてくれば良かったと歯噛みする。傷の手当もせずに学校に押しかけてくる人間を信用するほど警備は甘くない。

 カルディア地区から通う大切な子供たちを護るために置かれている警備員は国に雇われており、高額な賃金を保障される代わりに命を懸けて門を突破されるのを止めなければならないのだ。

「無事でいるかどうかだけでも教えてください」

 手を伸ばして懇願すると、腰に差していた警棒を抜き放ち強かに打ち据えられた。手の甲に振り下ろされた衝撃で身体がよろけるほどで、アゲハは悲鳴を飲み込むので精一杯だった。

「邪魔だ。失せろ」

 鋭い声に竦んでしまった足は道路に縫い取られてしまったかのように動かない。舌打ちをして今度は腕を大きく振り上げて威嚇してくる。

「早くどこかへ行け!」

「っ!!」

 高圧的な恫喝と共に風を切って振り下ろされる警棒の脅威にアゲハは身体を強張らせて痛みを覚悟した。目を閉じて息を詰めその時を待ったが、いつまでたっても訪れぬことを不思議に思いそっと目を開ける。

「え、誰?」

 柔らかそうな金の髪に包まれた形の良い後頭部と品の良いスーツを着た姿勢の良い背中が目の前にあった。白く眩しい手が黒い革のケースの把手を握っており、その形状が美しい曲線を持った細長い物であることに目を引かれた。腕の長さより少し小さいケースは中身が書類や小物類ではないことくらい解る。

 アゲハは触れたことが無いが、連れて行ってもらった劇場で見たことがあった。


 きっと中に入っているのはヴァイオリンだ。

 彼は音楽家なのだろうか。


 ぼんやりと視線を戻して肩越しに警備員の顔を覗き見た時に不可解な物を目にした。警棒を握っていない方の手で頻りに喉を押え、顔を真っ赤にして口を大きく開けている姿。

 目一杯広げて肩を上下させている警備員はまるで息ができずに苦しんでいるように見えた。

 冷や汗を流して喘ぐように空気を吐き出している。

「なに、が」

 起きているのか。

 目を閉じている間になにかが起きたに違いないが、アゲハには全く見当もつかない。

「大丈夫。ちょっと喉を圧迫して声が出ないようにしただけだから」

「声が、出ない?」

 確かにそう言われてみてみると、必死で声を出そうと喉を震わせているように見えた。突然奪われた声に警備員は困惑し、取り乱しているのか血走った目で男を見つめ空気が喘鳴する音だけを洩らしながら助けてくれと訴える。

「そんなに怖がらなくても直ぐに出るようになるよ。君が無抵抗の人間を殴ろうとするからちょっとお仕置きしただけだ」

 肩を竦めて男はこちらを向いてにこりと微笑んだ。透き通るような肌に通った鼻梁の男は碧色の瞳でアゲハを一瞥すると「凄まじい格好だ」と少々驚いた顔をした。

「ちょっと、色々あって」

「そうだね。今日は騒がしくて耳がおかしくなりそうだ。こんな日はおとなしく家で美しい音楽を聴くに限る。さあ、こんな所にいないで帰ろう」

 細長く綺麗な指がアゲハの腕を押して駅の方へと押しやる。

 だがここへ来た目的が果たされないまま帰ることはできない。「ちょっと、困ります」と抵抗すれば男は何故か花のように微笑んで更にぐいぐいとアゲハの背中を押し始める。

「君がここへ来たのは友人の妹の安否を確認する為だろう?それならば大丈夫だ。今日この学校に軍の車が押しかけてはきたが、誰も捕えずに帰還したよ。学生は誰一人欠けること無く授業を受けているから安心して帰りなさい」

「誰も?本当に?」

 軍が来たのに何故スイは無事だったのだ。

 訳が解らないがその言葉を鵜呑みにすることは危険な気がして身を捩って警備員を振り返ると、その通りだと言わんばかりに頷くのでアゲハは取りあえず信じることにした。

 もし夕方までにスイが帰ってこなかったら、改めてその時に動こうと決めてここは一度帰ることにする。

「御親切にありがとうございます」

 自転車のハンドルを握って押しながら数歩進み、危ない所を助けてくれたらしい男に頭を下げる。

「これからもっと騒音が鳴り狂う。あまり首を突っ込まずに賢明な行動をすることをお勧めするよ。それじゃ」

 手を上げて去って行く男の背中を見送って、アゲハは自転車を引きずりながら駅へと向かった。

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