エピソード25 人殺し
兵士たちは一斉にライフルを構えて引き金に指をかけるが、銃弾を撃つための動作を行うことに怯えている。
また弾が逸れたら?
確実に当たったはずの弾の軌道が目の前で歪められたのを見ていた兵たちの動揺は、上官の叱責と命令に背中を押されたとはいえ直ぐに治まるものでは無かった。
もしまた同様のことが起こったら、それは偶々では無く何らかの力によるものだと認めなくてはならない。
人は理解の及ばない物に対して生理的な恐怖を抱く。
目の前に立つ背が高く骨格のしっかりとした普通の男が、説明のつかない奇妙な力を持つ化け物に変化する。
それが恐いのだ。
タキは唇を歪めて笑う。
圧倒的な力の差に怖じ気ついている兵士たちになど負ける気はしなかった。問題はこの状況にあっても少しも動じず鋭い眼光で睨んでいる鷲鼻の男。
さすがにこれ以上異質な力を使って悪目立ちするのは避けたかった。誤魔化しのきかない程に力を行使すれば目をつけられ、例えここを逃げ延びても顔を見られているので手配書を作られてしまえば普通の生活を送ることが出来なくなる。
もう遅いかもしれないが。
事態は悪い方へと転がっている。切望したはずの平穏も安寧も最早手の届かぬ場所へと遠のいてしまった。
それならば流れに身を任せてもいいのかもしれない。
スイの学校も絵も、一旦諦めてまた初めからやり直せばいい。
「……まずは、逃げのびる」
戦い方など知らない。
仕事で鍛えられた己の力を使って人を傷つけたことなど無かった。争うことも奪うことも避けて生きてきたが、もう甘いことを言っていられない状況になっている。
ぐっと拳を握ってタキは息を短く吸った。
難しいことは解らない。
愚直さだけが自分の長所であることは自覚している。真っ直ぐに突き進むことしかできない。
どんな時も。
「う、わああ!来るな!」
正面に向かって駆けると悲鳴を上げながらその先にいた兵士が引き金を引く。恐怖からくる緊張で腕と肩が固まり、肘から指先まで震えているので狙いが定まっていない弾は力に頼らずとも勝手に逸れて行く。
恐れと焦りが連鎖して一気に銃声が木霊するが、どの兵士も銃口がぶれてあらぬ方向へと弾が飛んでいった。
逆に味方へと着弾して腕や脚を負傷し、血を流しながら倒れて痛い、痛いと喚き散らす。
駆け寄った兵士に右手を伸ばし撃った後の反動で微かに上がった銃口を上から押え、肘に左拳を力一杯叩きつけた。ミシリと響いた感触にタキはたじろぎ、殴られた方は蒼白になって声にならない声を上げる。
「う、あ……ああ、あ」
ずるりと引き金から指の先が抜け、痛みのためにぶるぶると震えた兵士の左手からライフルが落ちる。それを奪い取ってさきほどタキがやられたように後頭部に銃床を振り下ろす。
ゴキリと嫌な音がして兵士が受け身も取らずに地面に倒れて泡を吹いた。まるでピクリとも動かない兵士を見下ろし凍りつく。
「死んだ、のか?」
もしそうだとしたら人とはなんと脆い生き物なのか。
利き手では無い腕で殴った肘の骨は簡単に砕け、銃床を振り下ろしただけで泡を吹いて倒れ動かなくなるのだから。
「殴っただけで人を殺すなんて馬鹿力にも限度がある」
忌々しげに吐き捨てられた言葉にタキは畏怖し、思わずライフルを投げ捨てた。声の主を探して顔を上げると栗色の髪が目に入る。流れるような動作で右腕が上げられ、静かに撃鉄を起こす音を聞く。
漸く向けられた拳銃の照準がタキの左胸に狙いを定め、その鈍色に輝く銃身の向こうで黒い瞳が燃え上がった。
「俺が、」
殺した――?
なんとも呆気なさすぎる。
男が言うようにタキの腕力が通常よりも強すぎるのだとしたら、力加減を間違えばいとも簡単に人を殺めてしまう。
目の前が暗転し、酷い眩暈が襲う。込み上げてくる吐き気と嫌悪感に胃の腑が捩れそうだ。
いっそのこと男の銃に撃たれて死ねたらどんなに楽か。
幼い頃母が死ぬことでこの世界から逃れたように自分も。
「死ねると思うな。お前は北へと行き、国の為に働くのだからな」
嘲笑と共に目尻が切れ上がった若い男の黒い瞳がキラリと輝く。はっと目を張りタキは無意識に動いた唇で「嫌だ」と叫んだ。
この国のためになど働くものか。
「お前に!拒否権は無いと言ったはずだ!」
銃声を轟かせた銃口は下から跳ね上げられた衝撃で天を向く。左手の軍の施設から届けられる灯りを曲刀が弾いて一閃し、若い男の腹部を裂いた。上等の紺色の軍服がはらりと切れ、真っ白な肌から鮮血が迸る。男はぎりっと白い歯を噛み、髪を振り乱しながら右腕を振り下ろし撃鉄を引き起こす。片目を細め引き金を引くその銃口の先にいたのはタキではない。
鳥の顔を形取った木彫りの面をつけた奇妙な男。その手に持った曲刀は今しがた斬った男の血で濡れており、長い手足をぶらぶらとさせながら低い姿勢で若い軍人が発砲すると同時に更に身を屈めて地を這うように駆け出した。
弾は仮面の男の頭上を飛び、後方の壁にめり込んだ。
「ちっ」
舌打ちして次の弾を撃ち出すための動作へと入るが、その前に下から抉るように刃が伸びてくる。銃を持つ手首から肘までの肉を袖と共に切り裂かれ、鮮血を流しながらもその照準を向かってくる仮面の下にある眉間に合わせ引き金を引く。
若い軍人の右腕は撃った反動を堪えられず大きく跳ね上がった。その拍子に血飛沫が舞うが、賢明なことに泣き言も悲鳴を上げない。
「軍人は、みな」
死ね!と哄笑した面を被った男の声に聞き覚えがあった。タキは銃という圧倒的脅威の武器に対して曲刀で戦う男の姿に身震いする。
十分な間合いがあるように見える距離でも長い手と足によってあっという間に詰められ、届かないだろうと舐めていたらぐんっと刃が伸びてくるのだ。近距離での戦闘ならばきっと彼は誰にも負けないだろう。
まるで肉食獣の牙のように鋭利で、強靭な曲刀は身体の一部同然に見えた。
「は、ははは!」
笑い声を上げながら曲刀を振い、白刃を赤い血で染めながら深く懐へと入り込む。
――仕留めた。
タキは息を飲み、その瞬間が訪れるのを待つ。不思議なことに兵士たちも奇妙な闖入者を追い払おうと攻撃をすることも無い。
下手に撃って味方の弾が当たり大怪我をすることを畏れているのかもしれなかった。
「そこまでだ」
唯一動いた鷲鼻の男がサーベルを抜き放ち、反った刀身同士を打ち合わせて手首を返すようにして弾き返した。
軽く後ろに跳躍して逃げ、仮面の男は嬉しそうに足を何度も地面に打ち鳴らす。
「いいね。血が騒ぐ」
「余計な血を流さず済ませようと思っていたが、そうはいかぬらしい」
「そんなこと言わずに、どうせなら楽しもうぜ?」
仮面男の軽口を聞き眉間に皺を刻むと更に険しい顔が凄みを増す。サーベルの柄を握る指を護るように半円の大きな鍔がついている部分を額に当てて何事か祈るかのように目を閉じる。
「クラウド様、どうか」
命を救われたはずの若い軍人が青い顔で戦いを止めようと上官へと呼びかけた。その懇願する声をクラウドと呼ばれた鷲鼻の男は「どいていろ」と一蹴し、切っ先を目の前の敵へと向ける。
「貴様、何者だ」
「オレか?オレは反乱軍クラルスの頭首タスク」
「反乱軍、クラルスの頭首、タスクか」
噛みしめるように繰り返し、クラウドは何故か思案気に口を閉ざす。仮面の向こうでタスクが戦闘を中断されていることに不服そうな眼をしている。
右へ左へと体重を移動させて早く戦おうぜと誘っているが、この場の指揮官はざっと味方の負傷者の様子に視線を走らせると徐に剣を収めた。
「おいおい、なんだよ。やらねえのか?」
拍子抜けしたタスクが左手を差し出して引き止めようとしたが、冷たく一瞥をくれた後で「この場は一旦引く」と告げたクラウドに素気無く拒絶される。
「なんだよ、なんだよ!腰抜けめ」
「なんとでもいえ。貴様の手下が多数水路向こうに潜んでいるのに比べ、我々は傷を負い多勢に無勢とあらば撤退も已むを得ん」
くるりと背を向けられタスクは癖の強いプラチナブロンドの髪を、苛立ちを紛らわすために突き出していた左手で掻き回す。
それでも背後から斬りつけるなど卑怯なことはしない。
「命拾いをしたな」
クラウドはどこか安堵の色を浮かべた瞳でタキをちらりと見つめ車へと向かった。そして出血した腕で腹部を押えている若い軍人に撤退を指示して乗り込んだ。
兵士たちは明らかにほっとした顔で被弾した仲間に手を貸して車へと移動して行く。タキが力加減を間違えた所為で殴り殺された兵士は二人の兵士に腕と足を抱えられて運ばれる。
タスクは抜身の曲刀を下げて水路の方を向き、なにやら指を動かして合図をしていた。対岸にクラウドの言う通り反乱軍が身を潜めているのだ。
車のエンジン音が響き、危機が去ったことに肩から力が抜けた。
何気なくアスファルトに流れる水を辿って首を巡らせたタキの額に冷たい金属が触れる。狙いが撃った瞬間に外れないように傷ついた腕だけでなく左手をグリップに添えて、至近距離の若い男の黒い瞳の瞳孔が開いているのがくっきりと見えた。
「この距離で頭を撃たれれば、いくら化け物でも死ぬ」
避けることも出来ないだろうと薄い唇を引き上げて微笑むと、撃鉄を親指で起こしてぎゅっと銃把を握り込む。
「なにをしている!ツクシ、命令だぞ!」
「クラウド様、こいつを生かしておけば国の脅威となります。今、仕留めなければ」
車の窓から上官が咎めて叫ぶが、若い男は命令違反を犯してまでタキの命を消そうと決断する。
殺さずに国の為に働かせると言っていたのに、何故。
「死ね」
引き金にかけられた細い人差し指が動く。
気付いたタスクが二人を振り返り、曲刀を握っている右肩がぴくりと反応したが流石に間に合わないだろう。
タキはそっと左手を胸に当てドックタグを探り、金の瞳をそっと目蓋で隠して弟と妹を思った。
心の中を占めているのはいつだって弟妹のことだけだった。
俺が護らなければと思っていたのに、それすら叶わなくなるのかと胸に冷たい風が吹く。
不意にタキを呼んでいるかのように海鳴りの音が遠くで微かに鳴り響き、足元の堅いアスファルトが柔らかな砂地へと変わる。
ねっとりとした黒い海は荒々しく白波を立てて打ち寄せ、その向こうから白く輝く光の束が空へと向かって迸った。
もしくは逆だったのかもしれない。
光は空から海へと射したのか。
どちらでも構わない。
タキはその光景が忘れられずに何度も思い出す。
誘われるように砂浜を進んだ先にまるで赤子が海から這い出てきたような姿のままでこちらを見た女性がそこにいた。一糸まとわぬ姿の女は白く輝く肌に漆黒の長い髪を貼りつかせ、濡れた紺碧の瞳と珊瑚のような色の形の良い唇、桜貝のような可憐な爪をした美しく神々しい、人とは全く違った存在が。
彼女に抱き締められた時自分は死ぬのだと思い身体を強張らせたが、温かな温もりに包まれ「贈り物だ」と渡された不思議な力はなんの為に与えられた物なのか。
この力でなにか成さねばならないのだとしたら、何故その時に彼女はなにも言わなかったのだ。
おかしい。
死の間際に弟妹の顔では無く思い出すのが、過去の不可思議な女との邂逅だとは。
それに一向に訪れない死の痛みや衝撃に訝り目を開けると、栗色の巻毛の向こうに鏡を映したかのように輝く金色の瞳があった。
己の物より丸く明るいその瞳に映るのは間抜けな顔をした己の顔。
「死ぬのは、てめぇだ」
黙っていれば麗しい顔立ちの弟は栗色の頭部に銃を押し付けて鮮やかに笑った。
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