エピソード26 兄の気配


 音も無く自転車は走るが、耳を掠めて行く風の音はびゅうびゅうと喧しいほどだった。凍りつくような風を正面から長時間受け続けていると身体の芯まで冷え切り、ハンドルを握る指も、ペダルを漕ぐ足先もじんじんと痛みを訴えてくる。

 自転車を操縦して全身運動をしているシオがそうなのだから、後ろで不安定な場所に足をかけて立っているサンは温かい上着を着ていたとしても寒さで固まっているに違いない。

 現にシオの肩を掴んでいる指先が氷のような冷たさで食い込んでいる。

 吐き出した息が白く後方へと流れて大気に滲んで消えていく。

 闇の中に浮かび上がる街並みは見慣れた物のはずなのに全く違う場所のように感じられ、どこか現実感を薄れさせた。


 間に合うのか。


 心は焦るばかりで一向に港へと辿り着けないような気がした。それでも自転車は二人を乗せて居住区である第四区を通過し、第八区の工場地帯へと侵入する。

 目の前に大きな倉庫の影がくっきりと現れ、幾つもの巨大な建物が重なりながら工場地帯を形作っている。屋根の上から煙突とダクトが出て、昼間は忙しく動いているのだろうが送電も働く人もない夜間はひっそりと朝を待っていた。

 その中を白い光が流れて建物の奥に消える。シオは速度を緩めて慎重に通りを窺いながら進むが、時間ばかりが無為に流れて行くようで苛立ちが強まった。

 人の住む場所では無い工場地帯で、光を生み動く物といえば数えるくらいしかないだろう。

 電池式の懐中電灯を持つ人か、軍の車か。

 港へと軍の部隊が入っているのだ。

 間違いなくあの光は軍の車のライトだろう。

「タキは」

 捕まっていないだろうか。

 左手をハンドルから離してそっと胸に当てた。二枚で一組のドックタグ。兄妹を繋ぐ絆であり、信頼の証であり、シオの全て。

 狭く小さな世界の全てだ。

 兄妹無くしてシオの世界は存在しない。

 出来ないのだから。

「どこだ、どこにいる」

 神経を鋭敏にしろ。

 周りから聞こえる音に集中し、なにひとつ聞き逃すな。

 銃声が微かに港の方から風に乗って聞こえ、続いて荒れたアスファルトを踏み散らす車の音が右手の西からこちらへと近づいて来るのを感じる。シオは素早く道を横断し、細い道へと入ってそこで自転車を止めた。

「ここからは別行動にしてくれ」

 肩越しに振り返って邪魔な荷物をおろすためにそう告げると、サンは無言で片足を引き戻して地面へと降りる。

「タキは港の近くにはもういない」

 目的が違う以上ここからは一緒に動くことはできなかった。後は好きなだけ真実とやらを撮りに奔走すればいい。

「解るのか?」

 サンが不思議そうな声で問うので雑に頷いて返した。生まれた時から共にいる感じ慣れた気配と匂いは、例え壁を隔てていようが暗闇の中だろうが関係ない。物理的な距離は弊害にならず、ただ漠然とした感覚だが理屈では無く解る。

 数百人の中でたった一人の人間であるタキを一瞬で見つけられるほどシオの中で深く刻まれているのだ。

「驚異的だな。一種の特殊能力に近い」

「変人扱いするな。ただ気配と音に過敏なだけだ」

 まるで奇人や変人のような言い方をするのでシオは顔を顰めて嫌悪を顕にする。だがサンは微笑し「これからはそれが必要になるだろう。自信持て」と首を振った。

 確かに人よりも気配と音に鋭いことで何度も危ない所を回避できたが、保安部や治安維持隊に法を犯したとして追われるこれから、その才能を一番感謝するようになるのかもしれない。

「銃は持っているか?」

 眼鏡の奥からシオに注がれるのはもう同情でも憐れみでもない。

 同志を見る温かくも力強い瞳が、己の運命に抗おうとするシオを心の底から案じている。

「いや。奪えば奪われるからって、タキが」

 負けん気だけは強かったシオはダウンタウンの子供たちと常にぶつかり喧嘩を繰り返していた。孤児院育ちのシオたちを貧しいながらも家持ちの子供たちは徒党を組んで馬鹿にした。

 親がいるから偉いのか。

 家を持っているから凄いのか。

 親も家も無い者を蔑んで嘲笑し、更に惨めな思いをさせる残酷さに腹を立てた。泣きながら殴りかかっては、人数で押されていつもボロボロに叩きのめされる。それでも悔しくて何度も何度も向かって行った。

 そんなシオにタキは殴るから殴られるのだと諭した。

 自分たちを馬鹿にするあいつらも、他の誰かに馬鹿にされているから弱い者を苛めている。相手をしなければその内飽きて絡んでこなくなるから放っておけと。

「お前の兄は真っ当な人間だな。この国には珍しい」

「当然だ」

 殺伐とした第八区ダウンタウンでタキほど毅然とし、真っ直ぐな人間はいなかった。包容力と優しさは統制地区の人間ですら敵わない。


 シオの誇り。


「だが、軍は容赦しない。もしもの時のために持って行け」

 サンは懐に手を入れ鈍色の拳銃の銃口を掴み、銃把の方をシオに向けて差し出した。金属でできた、いかにも重そうなそれは回転式の弾倉を持ち銃把は木製でできている。銃口の長さは短い。

 一度も手にしたことの無い銃という人殺しの道具を前にシオは怖気づき頬を引き攣らせる。


 奪えば、奪われる。


「恐いか?」

 素直に頷けたのはサンの声にも銃に対する恐怖心が垣間見えたから。

 きっと誰もが恐いのだ。

「なにも持たずに軍と闘う方がもっと怖い。兄を救いたいのなら持って行け。別に使わなくても済むのならそれでもいいから」

 おずおずと手を伸ばして銃把を握ると、冷たい水に手を入れたかのような痺れる刺激が指先から肩まで走り抜けた。初めて触れたはずなのに何故か掌に馴染む感触がシオを慄かせる。

「使い方は簡単だ。安全装置を解除した後、狙って引き金を引けばいい。引き金を引くだけで撃鉄が起き上がって落ち、連続で発射が行える。だがその分引き金を引き切る力が余分にかかり、命中精度も劣る。弾は貴重で値が張る。できるだけ無駄弾は撃つな」

「サンは、撃ったこと」

「あるからこそ忠告するんだ。無知は無力だ。そして武器無くして戦う者は勇者に非ず。それはただの愚か者だ。引き金を引く時は思い切り引け。躊躇うな」

 こちらを向いたまま後退りしてサンは最後の注意事項を告げると、胸から下げたカメラを右手で支えて力なく笑った。

 改めて手の中の銃を見下ろして、これはサンの銃なのだと気づく。そして身を護る武器を手放した彼がどうやって己が身を危険から護り抜くのか。

「サン!待て」

 呼びかけた所で身を翻して港の方へと走って行く後ろ姿は止まりはしない。すぐに闇の中に同化して見えなくなる。

「なんで?」

 武器無くして戦う者は勇者では無く、愚者だと言った本人が丸腰で軍に楯突こうとしていた。喧しいほどシオによく考えろと諭していた人間だとは思えない行動に意表を突かれ戸惑う。

 きっと優しさでは無い。

 兄の窮地を救いたいと願ったシオに協力するのは、サンの中にある複雑な思い、あるいは過去に起因する物があるのかもしれなかった。

 シオは銃をブルゾンのポケットに捻じ込んで地を蹴る。ペダルに足を乗せて勢いに任せて漕ぎ出すと、理解できないことは全て頭の中から捨て去ってタキの気配を探って進む。今考え優先すべきことはタキを探し出すこと。

 何度も軍の車が目の前や後ろを走り去って行ったが、意味の無い威嚇射撃と投降を促す怒声を繰り返すばかりだった。恐怖を煽って獲物を追い立てているのだろうが、あまりにも稚拙で首を傾げてしまいたくなる。

 無線で聞いた指揮官の声に落ち着いた思慮深い雰囲気を感じたが、その男が立てた作戦にしてはあまりにも拙い気がした。

「なんだ?さっきの車が戻って」

 西側へと走り去ったはずの車がUターンして戻ってきたことにシオは眉を寄せた。ゆっくりと南側の路地を覗き込むようにしながら進んでくる車には明らかな意図が見える。

 なにかを見つけたのか銃を構えて後部座席の兵士が路地に向けて発砲した。

 南へと遠ざかって行く微かな足音にシオは「ああ」と納得する。

「北へ行かせないようにしているのか」

 南は第八区ダウンタウンと軍の施設と基地しかない。逃げ場は必然的にダウンタウンとなり、第七区と第八区を繋ぐ僅かな道で待ち伏せすれば簡単に捕えることができる。

 車を使ったとしても広い工場地帯で数十人の人間を追い、所定の場所へと誘い込むには地道な作戦だが確実で失敗が無いような気がした。

「タキは南に向かったのか」

 ペダルを踏む力が湧く。

 向かうべき方向が解っただけで元気が出るのだから人とは現金な物だ。

 腰を上げて全身を使って漕ぎ、寒さも忘れて風を切る。徐々に上がる息と滲む汗が熱を帯び、ただひたすらバネとして動き続けた。しなやかな筋肉を駆使して、いかに早く走るかを考える。

 興奮が脳を刺激し、今までになく神経が研ぎ澄まされていく。

 眉間の奥で明滅する光がタキの気配を伝えて、直ぐ近くまで来ていることを教えてくれた。

「――――!」

 軍の施設と第八区を繋ぐ石橋の方で不穏な轟音が鳴り、その数分後に銃声が立て続けに響いた。路地を飛び出して前輪を東へと向けて全速力で走る。

 なにが起きているのか解らないが、タキがそこにいるということだけは確かに感じた。


 どうか無事で。

 いて欲しいという願いは叶えられる。

 とても危うく、際どい所で。


「タキ!?」

 施設の灯りに照らされた水路の前の広場に車が三台停まっていた。兵士の姿は無く、エンジンのかかった車内に乗り込んでいるようだ。

 ただ一人を除いて。

 柔らかな巻き髪の軍人がタキの額に銃を突き付けている。どんな表情をしているのか背中をこちらに向けているので解らないが「この距離で頭を撃たれれば、どんな化け物でも死ぬ」と感情を押し殺した声で言い渡す。

 その行動を車の中の上官が制止するが止める気配は無い。

「あの声」

 上官の声は下卑た兵士を咎めたあの低い声で、それに丁寧な言葉で返していた若い男の声が今タキを殺そうとしている者の声だった。

「こいつを生かしておけば国の脅威になります。今仕留めなければ」

 死ねと残酷な宣告をして引き金にかかった指が動く。

 タキは胸のドックタグに触れて目を閉じた。まるで諦めたかのような仕草にシオの胸が熱く滾る。自転車を乗り捨てて、残りの距離を自分の足で駆けた。

 ポケットから銃を取り出し、教わった手順で安全装置を解除する。

 男が引き金を引き切る前にシオはその銃口を栗色の髪に埋めた。

「死ぬのは、てめぇだ」

 首から肩までの筋肉をびくりと固まらせて動きを止めた男は、タキを見ながら全ての神経をシオの方へと向けていた。

 見えない分恐怖は倍増する。

 薄らと笑みを浮かべて勝利を確信していると、タキがゆっくりと目蓋を上げて金の瞳を彷徨わせた。

 不思議そうな顔でシオを見つめ、それが誰か解るとくしゃりと笑み崩れ声に出さずに唇だけで弟の名前を呼んだ。

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