エピソード24 黒い染み
なにが悪かったのか。どこで間違えたのか。自分の過失ならば反省も途中修正もできただろう。
だがこの現状は自ら招いた物ではない。
国の利権を手にした者たちのくだらない利益や欲望の為に今タキは追われ、退路を断たれながら闇の中を彷徨っている。
一緒に働いていた同僚たちがどうなったのかも、雇ってくれていた親方が軍の兵士にどのように扱われているのかも解らない。
さすがに戸籍の無い物を雇っていたからということだけで難癖をつけて罪を捏造し、捕まるということは無いだろうがあの親方のことだ。黙って見ているとは思えなかった。少なからず文句を言って、突っかかるに違いない。
そうなった時に作戦の妨害をしたとして多少の暴力を振るわれることもあるだろう。
市民の不満や不安を煽らないように、夜間に働く者たちを最初の標的にすると読めなかったのはタキの落ち度だ。考えれば解った物を、五年も世話になった職場に愛着もあったことで判断を見誤った。
さっさと辞めて違う仕事に移っていればこんな目には合わなかったはずだ。
「できる訳が、ない」
例え解っていても親方や一緒に働く男たちを見捨てて次の仕事を見つけるなどできなかっただろう。
警告をするにも思い過ごしの可能性が高く、推測の域をでない話など口にするのも憚られる。
彼らは不確定な物に縋るような者たちではなかった。
タキのように常に最悪の場合を考える臆病者ではなく、なにかあったとしても自分の力と勇ましさで切り抜けて見せると豪語する逞しく前向きな男たちだ。
所詮仕事を変えて逃げたとしても、すぐに軍は手を伸ばしてくる。
最初か最期かの違いでしかない。
今は密やかに市民の神経を逆撫でしないように動いているが、そう時をおかずに彼らの行動は大胆さを増し苛烈な勢いでこの国の三割の人間を捕まえ始めるだろう。
暴挙は止むことなく加速する。
「誰にも、止められないのか」
ちらりと脳裏に浮かんだのは好戦的な目をした異国風の顔。反乱軍の頭首タスクならばもしやという気になるのは、圧倒的な自信と見る者を震え上がらせる体中から発する覇者の風格のせいだろう。
しかし戦うには国という存在は大きく、武器や兵の数に置いて圧倒的に不利だ。
それを覆すことが出来ない以上勝機は無い。
タキは弾む息を整える為に足を止め、頬を伝い顎から落ちる汗を拳で荒っぽく拭った。居住区域である第四区を目指しているが、そこへ逃げ込もうとしているのが解っている兵たちは車を駆り行く手を阻む。忙しなくライトが通りを凪いで、路地から迂闊に出ることができずに未だに広い工場地帯で逃げ道を探して走り回っていた。
ライトを点けたまま車を走らせるのは逃げ惑う者たちに恐怖と焦りを与えるためだ。
そして逃げ場を限定させ、包囲を狭める為の作戦。
「くそっ」
解っているのにタキは徐々に追い込まれていた。空に吸い込まれていく銃声と囃し立てるような声は遠くで、時には驚くほど近くで聞こえ体力と精神を消耗させていく。
もしもの時は。
右掌を開いて見つめ、ぎゅっと眉間に力を入れる。幼い頃浜辺を散策していたタキが出会った女性に贈り物だと渡された物は弟妹にもいえない秘密となった。彼女が何者で、与えられた物がなんなのか今でも解らない。
それでも感謝している。
追い詰められ、命の危険が迫った時に抵抗できるための力があるということはタキを落ち着かせ、自信を与えてくれるのだから。
「こんな所で捕まるわけにはいかない」
護りたい者がいる。
帰りを待っていてくれる者がいる。
信じてくれる者がいるから。
「なんとしてでも、帰る」
あの場所へ。
このまま真っ直ぐ進むと軍の施設のある道へと出る。第四区の居住区域に向かうには左手側の北へと行かねばならないが、さっき軍の車がその方向へあざ笑うかのように走って行ったのを見た。
追っているのはタキだけではないはずだが、何故か執拗に狙われ追われているような気がする。
「他の仲間が逃げられたのなら問題は無い」
タキを追う兵士が多ければ多いほど、仕事仲間の逃げられる確率は上がる。護りたい者や、待っている者がいるのはタキだけでは無い。気の好い同僚たちにも同じように大切な人が存在するのだから。
「行く先を、変えざるを得ないか」
嘆息して北から南の方へと視線を移す。軍の施設の横を南下すればミヤマの孤児院へと三十分ほどで辿り着く。追っている兵士は居住区域に行かせないようにと動いているので、第八区の方へと逃げることは容易い。
だがそこへと誘い込まれているという感が否めないことにタキの判断が揺らぐ。
どうする?
悩んだのは一瞬だ。
追われている状況で兵を撒きながら部屋に戻ることは危険な気がした。振りきれずに部屋まで突き止められたらスイも一緒に捕えられてしまう。
それならば一旦、
例え罠だとしても切り抜けてやる――そう決意し、己を奮い立たせて一路施設へと至る道へと飛び込んだ。
その道はただひたすら真っ直ぐで擦れ違う車が余裕で交わせるだけの幅があった。左手に広がる巨大な軍の施設は皓々と明かりを灯しているが、今は息を潜めているかのように静かだ。
身を隠す物が無い道を逃げ走ることに不安はあるが、逆に追ってくる方も同じ条件でありこっそりと近づいて奇襲をかけることはできない。
そちらの方へ逃げたと連絡を受けた施設の兵士が新手の追っ手として行く手を阻むこともあるだろうが、その時はその時だと開き直る。勝算や作戦などなにもないが、じっと捕まるのを待っているのは性に合わない。
最後まで抵抗してやる。
諦めの悪さは折り紙つきだと笑って、タキは出来るだけ施設側では無く工場側の暗い道を選んで走った。あんなに聞こえていた銃声も執拗に追っていたライトも不気味なほど無くなり、逃げ果せたと胸を撫で下ろすより逆に心は落胆の色を濃くしていく。
獲物が狙っていた場所へと逃げ込もうとしているのならば、後は黙って行かせてやればいいのだ。
やはり。
「ああ……」
タキは足を止めて大きく息を吐いた。脱力する身体に鞭打つように同じくらい大きく空気を吸い込んで肺を満たす。
ライトを消した軍の車が三台、第七区と第八区の区切りである水路の前に停車しているのが見えた。その水路の上に渡された石橋を渡り東の方へ進んだ先にミヤマの住む孤児院があるのだが、タキの希望を奪うかのように兵士がライフルをこちらへと向けている。
「抵抗せずにおとなしく捕まれば撃ちはしない」
低い声が中央に立つ若い男の後ろから響く。そこに少しばかりの思いやりを汲みとってタキは狼狽えた。
中央の若い男が手にしているのは拳銃で、グリップを握ってはいるがこちらに銃口を向けてはいない。そしてその後ろに立つのは背の高い鷲鼻の男で、険しい目元をしているがこちらを見ている瞳の中に蔑んだ色はどこにも無かった。紺色の軍服を着ているので彼らが保安部の部隊であることは間違いない。
統制地区の人間で構成されている下級兵士の集まりの治安維持隊に比べ、保安部はカルディア出身の者が大半を占めている。その分優秀で、差別意識が強く情け容赦ない冷酷さを持っていた。
できれば相対したくない相手だ。
タキに向けられたライフルの数は八。少しでも動けば撃つぞという気迫が腕に、目に込められている。
襟章の数と形と立ち位置によりこの部隊の一番上にいるのが鷲鼻の男で、その前にいる若い男がライフルを構えている兵より立場が上なのだとなんとなく解った。
統率している男が少しはタキたちのような者に同情を抱いているようなのが救いだったが、八もの銃口が狙いを定めていることに変わりはない。
「……捕まって、北の山に送られるのは御免だ」
「何故北の山だと決めつける?
ぽつりと呟いたタキの言葉に反応したのは若い男だった。傷ひとつない美しい蟀谷に栗色の巻毛がかかり、澄んだ黒い瞳には微かな苛立ちを見せている。
「俺のような力仕事しかできない男を
北の山の開墾へ投入するのにうってつけなのは港で重い積み荷を運び下ろすタキたちのような人間だ。そんな男たちを一定気温に管理された施設や工場内で働かせるには効率が悪い。
捕まれば確実に北へと行かせられる。
例え派遣先が
「どちらにせよ、御免だ」
「お前らに決定権も拒否権も無い。国民登録義務法違反で捕縛する」
「横暴だな」
栗色の巻毛を掻き上げて男が右隣りに居並ぶ兵士に合図をすると、四人の兵士がライフルを構えたまま近づいてきた。
タキは両腕をだらりと身体の横に垂らして抵抗せずに彼らが傍に来るまで待つ。ゆっくりと息をして、心を平らかにするよう努めた。耳を澄ませば聞こえてくるのは波が打ち寄せる海の歌声。ひとつ打ち寄せては退き、また打ち寄せてくる波の輪唱は数を増すごとに大きく壮大な音楽を奏でる。
ピチャリ――。
大きく水音が響く。
だが誰もその異変に気付かない。
パシャリ、パシャリ――。
次第に強くなっていく音が水路の中から聞こえてくるのに、注意を向ける者はいなかった。
背中に銃口を当てて両方から腕を掴まれる。その時になって漸く兵士の手から逃れようと身を捩ったタキに容赦なく銃床が叩きつけられた。
頭に一回、続けて腹部に二回。
「くっ」
よろめいて膝を着き、呻き声を上げたタキを取り囲んだ兵士たちはにやにやと笑い見下ろした。
その愉悦の顔に反吐が出る。
タキはアスファルトの上に滑らせた掌をぎゅっと握り込む。漣のように繰り返し聞こえてくる音は諦めるなと囁き続けている。
「笑っていられるのも、今の内だ」
「なんだって?」
「どうした?大きな声で言ってみろよ」
嘲笑と共になにもできないだろうと決めつけた兵士の気持ちが伝わってきて、タキの小さな自尊心を激しく侮辱した。
「何度でも言ってやる」
顔を上げて金の瞳を煌めかせた。
「今のうちに好きなだけ笑っていろ。直ぐに笑えなくしてやるから」
地に着け拳を握った右腕に力を籠める。不自然な力が鼓膜を圧し、耳鳴りを齎す。神経を刺激する不快な波動にいち早く気付いたのは鷲鼻の男だった。眉間が寄り、出所を探そうと首を巡らす。
だがもう遅い。
ゴォオオオ――。
「生意気な口を」
「なんだ?」
「うわあああ!?」
兵士たちがその音に気付いた時には地面が揺れ、アスファルトに罅が入っていた。その隙間から勢いよく水柱が立ち上がる。何本も、何十本も次々と硬いアスファルトを押し砕き足元を崩れさせていく。
「地震か!?」
突然のことに兵たちの銃口はばらばらと違う方向を向いた。タキはその隙に近くにいた兵士四人を薙ぎ倒して飛び出す。水に濡れた衣服は重く動きにくいが、さほど問題ではない。
「ま、待て!止まれ!撃つぞ!」
「撃ちたければ、」
撃てばいい。
どうせたいした打撃を与えることは出来ない。
前床を左手で支え、右手で引き金を引いた兵士に鷲鼻の男は「止めろ!」と一喝したが銃口から弾が発射された後だった。
回転しながら飛び出した弾は走ってくるタキへ吸い込まれていく。撃った男は勝利を確認して笑ったが、次の瞬間着弾したはずの弾が何かに阻まれ軌道を変えたのを見て凍りついた。
濡れた服が分厚い鋼鉄の板にでもなったように弾き返したのだと気づいた者はいないだろう。ただ確かに当たったはずの弾が不自然に軌道を変え、タキが傷ひとつ負っていないことは有り得ない事態だとは解る。
「お前、一体――」
驚愕に見開かれた瞳の中に恐怖を認めタキは滴の下たる前髪を振って「さあな」と不敵に笑う。
怖気づいた兵士が下がり、タキの前にいるのは栗色の巻毛の若い男とこの場を仕切る男だけになった。吹き上げる水は未だ止むことなく地面を黒く濡らしていく。窪んだ箇所には水溜りもでき、男たちの足元にも黒い染みは広がっていた。
「黙って見逃してくれないか?」
炯々と光る金の瞳に怯んで若い男は上官を振り仰ぐ。鷲鼻の男は嘆息し「申し訳ないが例外は認められん」と答え、竦み上がっている兵たちに睨みをきかせた。
「作戦遂行に命をかけろ!捕えるのだ!」
号令と共に目が覚めたかのように動き出す兵たちをタキは腰を落として身構えて迎えた。
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