エピソード23 無知と真実


 つけっ放しだったラジオがぶつりと音を立てて途絶え、その後に続く衣擦れの音を聞きながらシオはゆっくりと目を開いた。

 冊子を見ながら知らない間に眠っていたらしい。座ったまま首をソファーの背もたれの縁に乗せた不自然な格好で寝ていたので、肩から背中と腰にまで気怠い感覚が残っている。

 とっくに送電の止まっている時間の部屋は暗く、何度か瞬きをして闇に目を馴染ませようやく形に輪郭を取り戻すことができた。

「……サン?」

 部屋の主であるサンは暗がりの中でも解る程、蒼白な顔で椅子に腰かけて部屋の隅を睨んでいた。呼びかけるとずれてもいないのに眼鏡の蔓を押し上げて位置を整え、随分と時間をかけて視線をこちらへと向けた。

 シオの意識が途切れる前には撮って来た写真を現像すると暗室へと籠っていたはずだが、写真の出来がそんなに悪かったのだろうか。

 動揺と不安を突き抜けた後のような無表情をしたサンの顔は、無性に落ち着かなくさせる。

「なんだよ、どうしたんだ」

 聞きたくは無かったが、声をかけた手前そう問わねばならない。

 無視できない異様な雰囲気を纏ったサンの姿に、怖気づきながらもシオは返答を待つ。

「“狩り”が、」

 途中で言葉を切ったサンは戦慄わななく唇を押えようと引き結び、しばしの沈黙の後で「始まった」と続けた。

「狩り?なんだよ、それ」

 なにが始まったのか解らないが、どうやら只事ではなさそうだ。酷く跳ねる心臓と、逆に冷えて行く指先。嫌な予感は勘違いなどでは無く、目の前のサンの黒い瞳に憐れむような色が浮かんでいた。

 サンはよくそんな瞳でシオを見る。

 頭に入らないのに冊子を読んでいるシオを、考えるのが面倒だと放棄するシオを、カップ麺を旨そうに食べるシオを、喋っているシオを、黙っているシオを、ふとした拍子に憐憫の目を向けてくるのだ。

「オレは、可哀相な奴じゃない。っざけんな」

 乱暴に冊子を床に投げつけて立ち上がり、サンの目の前まで移動する。僅か三歩の距離しかない二人の間に横たわっている現実はあまりにも違いすぎるのだろう。

 未だに注がれる同情の視線にシオは声を荒げて拒絶する。

「そんな目で見んじゃねえよ!」

「……お前が可哀相なんじゃない。お前たちの立場が、環境が憐れなんだ」

 細い顎を横に振ってサンは眼鏡の向こうでそっと目を伏せた。そして徐に腰を上げテーブルの上に置いていた黒いカメラを掴むと玄関へと歩いて行く。逃げるのかと引き止めれば「真実を撮りに行ってくる。お前は決して外へ出るな」と強い口調で釘を刺された。

「真実って、なんだよ?狩りってなんなんだよ!外に出るなって」

 サンがカメラを手になにを撮っているのか解らない程愚かでは無い。日中出かけている時につけっ放しにされているラジオの意味も、シオが初めてここを訪れた時に配達した茶色の封筒の中になにが入っていたのかも薄々勘付いていた。

 そして第一区でなにかに追われてまで撮ろうとしていた真実。

 サンはもう隠していない。

 シオをこの部屋に招き入れた時から。

 ただ明言しないのは巻き込まないようにしているからだ。

「軍だな?軍がなにかを始めたのか。一体なにを」

「そこまで解っているのならおとなしくこの部屋にいろ。捕まりたければ止めはしないが」

 ノブを掴んでサンが最後の一線を引く。これを超えれば後戻りができなくなるのだと示して。

「ちゃんと教えろ。おれに無関係なことじゃないはずだ」

 シオが目に力を籠めて見据えると、サンは静かに嘆息してポケットに左手を入れて直ぐに出すと何かを放って来た。親指程の長さの薄い金属。それを右掌で受け止め、軽く握った指を開く。

「鍵?」

 訝りながら顔を上げると無言で暗室を指差される。今までその中を見たことは一度も無かった。勿論興味が無かったからでもあるが、鍵までかけている場所に土足で踏み込むほど馬鹿でもない。

 隠したい秘密を突けば、手痛い目に合う。

 ごくりと唾液を飲み、シオは鍵を手に暗室の前に立つ。ノブの下の小さな穴に差し込んで回すとかちりと軽い音がする。

 本当にいいのかとサンを振り返ったが、なにも言わずに空虚を見つめていた。

 決断するのは自分自身。

 そのためには情報を集め、考え抜くことが必要だとサンはシオにことあるごと言っていた。

 無知は無力だと。

 サンはちゃんとした戸籍を持つ者だ。

 だが彼はこの国の行く末を心から案じ、この国のあり方を論じ、この国に住む底辺の者たちを憐れみ、この国の法を疑問視し、この国の現状に反発と懸念を強め、この国の軍部の愚かさに義憤を抱き、この国の全ての責任を負う総統に対し静かに牙を剥こうとしている。

 富める者のみが享受している贅と権利と汚濁に塗れた真実を暴露し、虐げられていることを気付けない人々に最大の危機が訪れているのだと喚起していた。


 サンは知識を持つ機会を奪われた人々と戸籍を持たぬ者たちのために立ち上がり、行動しているのだ。


 それならば。


 本来怒るべき者である筆頭の立場であるシオたちがこのまま知らぬままでいいはずがない。

 声を上げ、抗わねばならないのはシオたちだ。


 冷たいノブを持ちシオはドアを開けた。

 化学薬剤の匂いの籠った部屋はその名の通り暗く、薄らと物の形が判別できるぐらいしかない。狭く右手側に細長い部屋の真ん中に遮光カーテンが天井から引かれており、その向こうで現像するのだろうと思われた。

 カーテンからこちら側には沢山のポリタンクが並んでおり、その中の半分ほどになにかの溶剤か水が入っている。換気扇が壁に埋め込まれているが、それは元々ついていた物では無く後からサンがつけたようだった。

 天井から吊られた棚に沢山の日付のついたファイルが並び、それが今まで撮ってきた写真の数々であることは察しが付く。

 一歩中へと入り換気扇が作動していることに気付いてシオは首を傾げた。

 統制地区すべての住民の家から送電が切られたはずのこの部屋で何故電気を使う物が動いているのか。

 ラジオは電池で動いているのでその限りではないが、換気扇が動いているとなると他に電力を作り出す物がここにあるということになる。そういえば空気を震わせる奇妙な音が断続的に続いていた。

 目につく場所にそれらしきものは無い。

 となれば――。

 カーテンに近づくと耳に機械音が届く。そっと襞を手繰り寄せて中を覗き込むと簡易式のキッチンが据えられ、現像された写真が壁に渡された紐の下で吊るされて乾かされているのが見えた。

 薬剤の匂いが鼻の奥を刺激する不快さに皺を寄せて堪えながら視線を更に奥の方へと向ける。

 奥の壁には粗末な机があり、そのすぐ傍の床に置かれた小さな発電機がぶるぶると身を震わせて健気に動いている。机の上には横長の黒い機械があり、沢山のつまみとボタンが並び、メーターのような針のついた物があったが、それらがなんなのかまでは解らない。

 ふらふらと机まで移動してその無骨な機械を見下ろし、電源である青いレバーを引き上げると針が振れ、その横に数字がデジタル表示された。

「なんだ、これ」

 微かに聞こえる音を辿ると機械の横にヘッドホンがあり、そこから人の声が漏れ聞こえてくる。掴み上げて耳に当てると雑音の向こうからはっきりとした声で『逃がすなよ。初の作戦で失敗は許されん』と語りかけてきた。

 まるでシオに話しているかのようで驚き声を出しかけたが、直ぐに『了解』と別の声が反応する。

『港で重い積み荷を扱う男たちだ。十分な働き手になるだろうが、捕えるとなると一筋縄ではいかんが』

 最初に聞こえた低い声の男がどうやら一番偉いらしく、続いた少し若い男の声が丁寧な言葉で確認してくる。

『抵抗した場合には発砲しても構いませんか?』

『許可は出ている。だが、なるべく生きて捕え北へ送り込めと言われている』

 その後の野卑た声は狩りの獲物を蔑んで笑う。

『筋肉自慢の愚鈍な奴らだ。遅い足で逃げられるとは思えないね』

『頭まで筋肉でできてるからな。どんな行動に出るか解らないぜ?』

『あいつらの知能は動物並みだもんな』

『そこらへんにしておけ。甘く見ると逃げられ、こちらの損失が大きくなるぞ。いいな。心してかかれ』

 下品な笑いを嗜め最初の男が兵の士気を高めようと鼓舞する。『了解!』と応えた声の後で『目標地点前。散開せよ!』と若い男が命じた。

 その後はどこの班が港に侵入したとか、第四区へと逃げた者を追う等の報告が立て続けに行われたがシオはこれ以上聞いていられないとヘッドホンを置いて電源を急いで切った。

「港で積み荷を扱う」

 この時間に外で仕事に精を出しているのは歓楽街の女たちか、港で働く者たちぐらいだ。

「タキ」

 間違いなく襲撃されたのは兄の仕事場。数日会っていないが心配してシオの職場に何度も訪ねて来てくれているのは知っていた。それでもなんとなく顔を会わせ辛くてずるずると日を延ばしている内に帰りそびれていたのだ。

 スイもきっと心配してくれている。

 どんな顔をして謝ればいいのか解らないのも、帰るという選択ができない理由のひとつでもあった。

「タキが、」


 危ない。

 軍に“狩り”という名の作戦で追われている。


「行かないと」

 絡まるカーテンを押し退けて暗室を出ると玄関の横の自転車を掴んだ。「シオ」と冷たい手が腕を押えてくるがそれを振り解いて睨みつけた。

「タキが危ないんだ。おれが行かないと」

「タキ?」

 誰だと問われシオは乾いた唇を舐めて「兄貴だ」と短く答える。サンが一瞬痛みを堪えたような苦悶の表情をして小さく首肯した。

「一緒に行こう。港に着いたら別行動で構わない。オレはあいつらの極悪非道な姿を撮り、真実を求める。お前は必ず、兄を」

 救えと肩を叩いてサンは鍵が刺されたままの暗室に駆け寄り、しっかりと施錠すると再び玄関へと舞い戻る。

「行こう」

 背中を押されてシオは自転車を抱えて飛び出した。


 絶対に渡してなるものか。


 タキはシオが唯一従う相手だ。

 スイとシオの絶対的存在であり、タキ無くして兄妹は成り立たない。


「軍の汚い犬どもに、触れさせてたまるかっ」

 吠えて階段を駆け下り、扉を開けて外へ出る。自転車を置き跨ると、遅れずにサンが後ろに飛び乗った。そのままペダルを漕いで夜の闇に突き進む。


 待っていてくれと、無事でいてくれと願いながら。

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