エピソード22 必死の逃亡
生臭い空気を乗せて吹く海からの風は、容赦なく船を揺らし甲板を歩く足元を危うくするが体重を上手く移動させ回避する。荷を肩に持ち上げて担ぐと更に右に左へと傾ぐが、もう五年もこの仕事をしているタキにはたいした障害にはならない。
動かない地面を歩くのと変わらない速度で港に渡した板の上を下る。夜の冷え込みは普段と変わらないが、強い風が吹くため体感温度はかなり寒い。
暑さや寒さに慣れているはずのタキの身体でさえも動いていなければ知らず震えるほどで、同僚たちも荷を置いて戻ってくる時には腕を擦って小走りで船へとやってくる。
一時期の忙しさに比べれば運びこむ荷の量も減っていて、船も一日に二艘程しかないからか余計に寒さが身に染みる。
親方の前に荷を下ろして不備が無いかのチェックを待っていると無意識でため息を吐いていたらしい。
「どうかしたのか?」
同僚の男が太い眉を寄せて肩を叩いてくる。前に親方に休憩してこいと追いやられた時に「お前が戻って来るまでに運び終えちまうかもな」と声をかけてきた男だ。釣りが趣味の癖にその才能が無い残念な男は名前をクイナという。
天然パーマのボサボサの髪は茶色でまるで鳥の巣のようだが、凛々しい眉の下にある同色の瞳は円らで優しい。
「いや、別に」
「なんでもないって顔じゃないけどな?おれでよけりゃ言ってみろって」
聞くだけ聞いてやるからさと顔をくしゃりとさせて微笑むクイナは図体がでかいが、まるで少年のようなあどけなさを持っている。
歳はタキの一つ下で、弟のシオと同じ歳だ。
――シオ。
なんでも知っていると思っていたタキは飛び出して行ったシオが行きそうな心当たりを思いつけずに愕然とした。職場に向かうしかなく、訪ねてみれば出勤はしているがいつ戻るかどうかははっきりとは解らないと追い帰された。ひっきりなしに出ては戻ってくる配達員と、荷を頼む客で小さな事務所は常に忙しそうだったのでそこで待つことは出来ない。
仕方なく近くの道をぶらぶらと当ても無く歩いてシオの姿を探したが、タキを本気で避けようと思っている弟を捕まえるのは難しいだろう。
「弟が、」
帰ってこないと零れた言葉にクイナが目を張って男っぽい唇をきゅっと引き結ぶ。
「治安維持隊に捕まっちまった可能性は?」
聞いていた親方が緊張した顔で会話に入ってくる。それには首を振って否定した。自転車を持って出て行ったのなら、弟が愚鈍な治安維持隊や保安部に掴まる心配は無い。仕事柄裏道脇道を知っているシオは小回りの利く自転車を上手く使って逃げ果せる。
「それなら大丈夫だろ。可愛い女の子の家にでも厄介になってんじゃないか?」
クイナの暢気な発言にそうならいいんだが、と濁してタキは荷を取りに船へと戻る。
今までならばそう心配もしなかっただろう。
寒さを凌ぐ工夫も、それに耐えうる身体もタキとシオには備わっている。空腹の紛らわし方や、危険を察知する感覚も鋭い。
でもいくらシオが道を知っていても、自転車を駆使して逃げ回っても治安維持隊と保安部が総力を挙げて捕えようとすればいずれ捕まる。国民登録義務法が施行された今、最初の犠牲者を誰にするかと虎視眈々と狙っているのだから。
それに話し合わなければならない。
これからのことを。
スイの為にも一刻も早く。
「どこにいるんだ」
首から下げたドックタグを服の上から掴んで呼びかける。
猶予は無いのだからと。
「おい、あれ」
船へと渡された板に足を置いたその先から両肩に荷を持った男が蒼白な顔で港の入り口を見た。それにつられるように目を向ければ、幾つもの光の筋が連なって工場地帯のある第七区の方からこちらへと近づいて来る。
「軍の車じゃないのか!?」
統制地区で闇を切り裂く光を持ち、高速で移動する物と言ったらそれ以外考えられない。なにかを追っているのか、それともここに用があるのか。
「やばいだろ!?」
流石の力自慢の猛者でも軍の車が次々とやってくるのを見ると震え上がるのか、男は荷を甲板に下ろして及び腰になった。
ここで働く男たちは殆どが戸籍を持たない者たちだ。中には昔罪を犯して服役していた者もいる。
最初の標的として狙われてもおかしくない。
「逃げろっ!」
タキは咄嗟に叫んで周りの同僚たちに警告する。甲板にいた三名の男達も荷を放り出して板を渡って下りてきた。
「軍が第七区の方からくる。第四区か第六区の方へ逃げろ!」
一度船の上に上り逃げ遅れた者がいないか見回って港に戻ると、車が二台進入し眩いヘッドライトをタキへと向ける。身を翻して居住区のある第四区の方角へ駆け出すと「止まれ!」と制止する声と共にドアが喧しく開閉された。
「止まらんと撃つ!」
威嚇の声と銃を構え安全装置を解除する音が聞こる。揺るぎの無い意思の籠った視線を感じ、止まらなければ引き金を引くつもりなのだと肌で覚った。法執行後の一番初めの作戦を失敗させる事は赦されないと意気込んでいる。彼らの本気度にタキの背中を悪寒が這い上がった。
それでも手を挙げて降伏する選択肢はタキの中には無い。
例え銃弾を浴びて倒れようとも、足が動く限り駆け、腕があるうちは這いずって、意識がある間は最後まで諦めないと強い気持ちで光の中から逃れるように闇へと飛び込む。
その瞬間銃声の後でコンクリートを穿つ音が足元でするが、タキの足を鈍らせることも驚かせることも出来なかった。
腕のいい射撃手でなくて助かったとちらりと笑う余裕すらあったのは自分でも不思議だ。
こちらに近づいていた光の数だけで判断すれば車は十台ほどで、その中に軍の兵士が二人から四人乗っているとしてざっと二十から四十人の兵士が港へと入り込んできている。その中から同僚全てが逃げることなどきっと無理だ。
心優しく温かい彼らの中で兵士に囚われて強制労働へと送り込まれる者がいる。
武器を持たない人間を車で追回し、銃をちらつかせて脅し撃つなど狩りを楽しむ昔の貴族か何かのつもりだろうか。
悪趣味にもほどがある。
激しく地を蹴り目の前のコンテナに飛びつき、腕力のみで天井に上がると数歩で端まで走り切り飛び降りた。
タキは奪わなければ奪われないと思い込んでいた。
奪うから奪われるのだと、大人たちのやり取りを見て学んだが、どうやらこの国は骨の髄から腐っているらしい。
理不尽に奪い尽くしてもまだ足りないと舌なめずりをする獰猛で貪欲な者たちはすでに人ではないのだろう。
ミヤマが言うように鬼か悪魔なのだ。
目の前に餌をちらつかせ、後ろから銃で従わせるやり方には思いやりの欠片ほど見えない。
「スイは」
大丈夫だろうか。
明日は休ませた方が良いに違いない。対策を講じるまでは部屋でじっとしているしかないだろう。
そもそも仕事場を軍に荒らされたのならばタキも職を失うことになる。
八方塞だった。
逃げ場も、進むべき道も失われた状態でなにができるだろうか。
「銃声が」
港の方で立て続けに発砲する音が風に乗って聞こえてきた。誰かが犠牲になったのだろうが、それを確かめる術は無い。
銃声がしたからと言って殺されたとは限らない。彼らも自分たちが追っているのは大切な労働力であることは熟知しているだろう。
無闇には殺さないと信じたい。
細い道の先を車のヘッドライトが薙いでいく。びくりと足を止めて壁に背をつけて呼吸を整える。遠ざかって行くエンジン音を聞きながらタキは空を見上げた。
汚れた大気に覆われて星は見えないが、その向こうに確かに光り輝いて存在している。だからタキが望む道もただ見えないだけで、どこかにあるのだと祈るような思いで願う。
「シオ、今どこに」
世界が加速して兄妹を引き離そうとしているかのようだ。
たった独りではなにもできない。
不安で押し潰されそうだ。
もし二人になにかあったとしたら、自分を押えられるかどうか解らない。その相手を人相が解らなくなるまで殴り、首の骨を圧し折るくらいのことはしそうだった。
それほどまでに大切な物なのに。
「どうすれば、」
スイの未来、シオの行方、安息な場所であるはずの部屋。
ひとつずつ夢を実現するごとに、国は無慈悲なほどに奪っていく。
国が民に信頼され揺るがぬ確かな存在であるならば、革命を叫ぶ声を載せたビラが撒かれることも、テロリストを纏めて反乱軍を作る者もいなかったはずだ。
全て国が、総統が悪いのだ。
「俺たちがなにをしたというんだ」
多くを望まず静かな暮らしを続けられればそれで満足だったのに。
どうやったら護れるのかもうタキには解らない。
国と法に立ち向かえる程、強くは無い。
ぐっと込み上げてきた何かを無理矢理飲み込んで、身を起こすと再び走り始める。色んな感情や思考がぐるぐると回っていて気分が悪い。
今は軍の兵士に捕まらずに無事に帰ることだけを優先する。角に立ち道を窺い、気配も音もないことを確認してから縦断しまた新たな路地へと身を躍らせた。
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