エピソード21 どんな絵を


 キャンバスに墨色を丁寧に塗り込みながら、自分の心の中にも同じ色がゆっくりと澱のように沈んでいくのが解る。白い部分が無くなるまで執拗に塗り重ね、絵の具の水分を含んだ紙が撓んでいるのに気付き仕方なく手を止めた。


 シオは帰ってこなかった。


 初めて喧嘩した日に飛び出して行ってからもう二日経っていた。

 知らず内に薄い胸の上を掌で押えて、その下にある兄妹揃いのドックタグを確かめる。刻まれているのは三人の名前と住所だけ。ただそれだけが確かで大切な物だったはずなのに。

 ようやく手にした心から安心できる住家のはずなのに、シオはそこに戻ることを拒否している。

 その事実が辛く、悲しい。

 タキが寝る間を惜しんでシオの勤務先である荷運び屋の事務所に何度も足を運んでいるが、音や気配に敏感なシオは勘付いて逃げるのか、それとも兄の行動を読んで先回りしているのか捕まらない。

 こうなってしまった原因が自分にあることが悔しくて、申し訳なくて泣けてくる。

 テロリストのビラを持っていたのは、掲げる思想に感銘を受けたわけじゃない。

 ダウンタウンの片隅で生まれ育った自分が兄たちの助力を受けて学校へと通い好きな絵を描いて、知識を学ぶ機会を与えられているのは随分恵まれていることだとスイ自身よく解っていた。

 幸福だと解っているスイがテロリストの声に惹かれる理由がない。勿論彼らが口にする横行する理不尽さや、底辺にある者の権利を奪う国のやり方に不満や憤りはある。多くの民を蔑ろにする軍も、物価が上がり生活すらままならない状況を放置する為政者たちも、汚染の広がる国土を切り捨てて自分だけ安全な場所にいる総統も赦し難いと思っている。


 思ってはいるが、反旗を翻し戦おうとまでは思えない。


「慎ましやかな生活だけで、十分」

 兄妹三人静かに暮らせればそれだけで幸せだったのに。

 そう願っていたはずのスイが持ち込んだテロリストのビラが、兄妹の中に波紋を広げ確かだと思っていた物がいかに脆く儚い物だったのかと思い知らされた。

 ドックタグを握り締めていた指が緩んでスイは筆に手を伸ばす。

 こういう時の自分の感情を鎮める方法はたったひとつしかない。嬉しくても、悲しくても、苦しくても、辛くても、スイが素直に気持ちをぶつけられるのは絵しかなかった。

 今の感情がなにを生み出すのか。

 どんな絵を描くのか解らない。

 それでも形にしてみれば、少しは整理できるかもしれない。そんな縋る様な思いでパレットに青いチューブを絞って出し、筆で墨色と混ぜ合わせて濃紺を作り出した。

 まだ乾いていないキャンバスに思い切って色を乗せる。左から右へと横に真っ直ぐ筆を滑らせて墨色と濃紺の境を明確にする。

 そうすると絵の下から三分の一くらいから突然世界が変わって見えた。スイは夢中で墨色の上に濃紺を重ねる。途中で作っていた濃紺が無くなったので青を筆に取り、そのままゆっくりと上と横に動かし続けた。

 墨色の上に重ねた色は目立たないが、目には映らなくてもそこに存在し変化を与える。スイは荒い手触りの布を手に取り墨色と濃紺の境界辺りを軽く押さえて色を拭う。そうすると乾き切っていなかった墨色と共に濃紺も消えて、白い紙が薄墨に濡れたような鮮やかさを持って丸く浮かび上がった。

「花」

 ぶるりとスイの背中が震える。まるでなにかに導かれるように境目の中央、右下辺りに一箇所、左端に一箇所と少し離して随分下にも同様に色を抜く。

 大小さまざまな灰白い部分を眺めて、パレットに赤と白の絵の具を少量出してそっと混ぜた。白に赤をほんの少しだけ。可愛らしい桃色を作り出すとそっと丸く繰り抜かれた場所に筆を持って行く。

 慎重に動かして陰影をつけながら、その花弁が形作る繊細さと強さを描き出す。

 幾重も重なる花びらの美しさ、綻びかけている姿が与える期待感、緑色の混じった固い蕾。

 この期に及んで自らが描いた花が蓮の花であることに怯んだが、ここで手を止めては絵を完成させることができない。

 手を伸ばして黒い絵の具を無意識で掴むと直接チューブから細筆の先に取り、真ん中の青色の部分に縦に細長いビルのシルエットを描き込んでいく。集合住宅であるアパートの群れは低所得で家賃光熱費を払えば食費が僅かしか残らない者たちの住む場所。その中に間違いなく自分たちの部屋も含まれている。

 そしてその向こうに見たくなくても目に焼き付いている高く阻む壁を荒々しく強調して描いた。

 筆を変えて今度はパレットの上に出していた白い色に水を多めにして溶く。ひたひたになった筆は少し重く、持ち上げると先からポタポタと落ちそうなほどだった。

「――恐れるな」

 スイは心を鎮めて腕を上げた。

 床が汚れるのも厭わずにキャンバスに向かって白い滴が飛び散るように勢いよく振り下ろす。右上から左下に向かってまるで雪が降るような、光の粒子が煌めいているような。


 違う。


「海の泡」


 どうしてこんな絵になったのか、スイにもよく解らない。戸惑いと驚きがないまぜになって余計に心をざわめかせる。


 水分の多い白い小さな粒が重力に引かれるように下の部分が膨らんで流れ落ちそうになっていた。慌ててイーゼルからキャンバスをおろして机の上に横たえる。寸での所で無残な姿にならずに済んだことに安堵した。

 床に散らばった白い斑点と、イーゼルの足にもべったりとついた白い絵の具。乾く前にと別の布を掴みそれらを拭う。這いつくばって拭いていると美術室の床には何年も前の絵の具の汚れも、傷もたくさん残っているのが目に映る。

 顔を上げればデッサン用の像や有名画家の描いた名画集の分厚い本が並ぶ棚の横に細長い窓があり、空は茜色に染まり始めていた。

「帰らないと」

 心配する。

 これ以上タキに心労をかけてはいけない。

 スイは片づけを明日に持ち越して急いで鞄を背負うと美術室を飛び出した。こんな時間まで絵を描き帰宅を渋っていたのは帰った部屋にシオがいないことを受け入れたくないからだ。

 タキはスイの帰りを待っていてくれる。帰宅したスイと入れ替わりに仕事へと向かうのだが、その後でたった一人部屋に残されることが酷く寂しい。

 一緒にいてもあまり喋らないシオだが、それでもいるのといないのでは大違いだ。

「帰って、きてよ」

 そうじゃないと謝りたくても謝れない。

 タキだけでも駄目で、シオだけでも駄目なのだ。

 タキとシオとスイの三人がいて初めて家族なのだから。


 校門を潜って人通りの少ない道を走り、地下鉄への階段を下りながら今日は帰って来るかもしれないと自分を鼓舞して前を睨むように顔を上げた。

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