エピソード20 正常値


 海から吹く強風が砂を巻き上げているのを目に留めホタルは首のストールを持ち上げて鼻まで覆った。視界を黄色く遮るかのような砂のカーテンがうねりながら横切って行く。

「この風が吹くと厄介だ。あんまり長居は出来ねえぞ」

 白いストールを頭から首にかけてぐるぐると巻きつけて、茶色の瞳だけを出している姿はまるで盗賊のようだが彼は歴とした首領自治区の十三代目首領である。熱がこもらないようにゆったりとした服を身に纏い、悠然と砂の上を歩くアラタはこの地に住まう者が持つことができる余裕のような物を感じさせた。

 昼間のうだるような暑さも、夜の凍えるような寒さにも耐えうる精神と肉体を鍛え上げてきたのだ。

 過酷な自然環境に対する対処法も、生き抜く術も手探りの中彼らは独自に見出して逞しく生きている。

 アラタは地図も方位磁石も使わずに、あの日取り損なった井戸の元へとホタルを先導していく。余所者から見ればどこも同じ景色にしか見えないというのに、アラタには風が吹けば形の変わる砂の山すら頭の中の正確な地図に影響を与えないようだ。

 一日養生した翌日直ぐにホタルは第八区と自治区を隔てるバリケードへと向かい、今日も入口で手続きをしてくれたあの兵士が「本当に物好きだな」と奇妙な物でも見るかのように顔を強張らせながら見送ってくれた。

 首領自治区へと足を踏み入れたホタルの前にまるで来るのが解っていたかのようにアラタが現れて、約束通り護衛と称して案内を買って出てくれたのだ。

 例の妖しげな宗教団体の人間が自治区にも入り込んでいると言っていたので警戒して、街の中だけでなく外の方まで目を光らせているのだとしたらホタルの訪問など即座に知れ渡ってしまうのかもしれない。

 しかしホタルのような一介の学生の護衛と案内を首領自ら行うとは、余程信用されていないのか、それとも興味本位で付き合っているだけか。

 自分が面白味のある人間でないことは自覚しているので前者かとも思われたが、それにしてはアラタの態度は砕けていてどこか親しみすら感じさせるのだから不思議だ。

「着いたぞ」

 唐突に告げられてホタルは面食らった。一人で地図と磁石を頼りに探していた時の半分以下の時間で井戸に辿り着けたことに驚愕し、地の利がある人間の偉大さを改めて突き付けられた気がする。

 重しを除け木の蓋を持ち上げて井戸の中を覗き込むと前回同様下方の暗い水面に二つの影が映っていた。

「……今回も突然後ろから襲ったりとか、しないだろうね?」

「はっ。するかよ」

 疑われている本人はけろりとした顔で笑い飛ばして井戸の傍から離れ、辺りをぐるりと見渡してどこまでも続く砂の大地に目を凝らしていた。

 彼が警戒しているのは野党や盗賊か、それとも邪教の教えに染まった怪しき人間たちか。


 どちらでもいい。


 止むことなく続く風がこれ以上酷くなる前に作業を終わらせて戻らなければ。

 井戸の内側に鉄製のフックが打ち込まれており、そこに水を汲み上げるための桶が引っかけられている。フックの根元に厳重に括りつけられている縄は桶の縁と繋がっており、その縄を掴んで桶をゆっくりと井戸水の中へと下ろして汲み上げるようになっていた。

 ホタルはそっと水の中に桶を沈ませると、自分の力で引っ張り上げられるだけの量を慎重に量って使い古された縄と桶を繋ぐ金具が外れないように持ち上げる。

 縄と金具を伝ってギシギシと軋む音が腕と肩に響き、今にも壊れ切れてしまうのではないかと冷や冷やする。掌に刺さる縄の感触も、ざらついた砂の舞う風も、照りつける太陽もホタルの中の焦燥感ばかりを焚きつけた。


 きっと今回も同じ結果になる――。


 それもそうだ。ホタルは水質を調べているだけで、まだなにも改善への一歩を踏み出せていないのだから。

 それでも自然の持つ本来の浄化作用を期待して、ほんの少しでも変化があればと願うのは強欲すぎるか。次々と転移して行く病巣を切除して投薬し治療するには時間も力も足りない。

 せめて水を浄化するための方策を決定づけるなにかを見出せれば。

「努力もせずに、愚かだな。僕は」

 自虐的に呟いて唇を歪ませれば、いつの間に来たのか目の前にアラタが立っていた。水を汲んだ桶を地面に置き、鞄を開いて検査キットの入った箱を取り出す。中には簡易計測器と試薬の入った茶色の小瓶が五本、そして蓋のついた小さな試験管が十本、割れたり壊れたりしないように固定されて入っている。

 その場で計測する分と、研究所で調べる分とに分けて試験管に入れて持ち帰る方にはしっかりと蓋をして元の場所へと戻す。予めシールで日付と採取場所を書き込んで貼ってあるので、別の場所で採取した物と混ざる心配はない。

 簡易計測器は上部に黒い蓋が被されていて、そこを開けると試薬と混ぜた試験管を差し込むことで測定する。蓋の下にある液晶画面に数値が表示され、その様々な検査結果を本体に記録していく。小型で高感度な割に操作の簡単な計測器は試薬も含めてかなりの高価な代物である。

 ホタルが調べているのは身体に害を成す毒性物質がどれほど水の中に含まれているか。毒性と言っても種類が多すぎて、全てを除去し飲み水に適するまでの物に戻すことは不可能だともいえる。

「どうだ?」

 示された数値は前回よりも悪い結果を報せる物で、ホタルは無言で首を横に振った。問うた男は別に気にする風でも無く桶を掴んで水を井戸の中へと戻し、内側に突き出たフックに引っかけて蓋を閉める。

 重しを乗せて「帰るぞ」と素っ気無く促すアラタに絶望的な思いで瞳を上げた。

「この水は飲み水に適さない」

 震える声で現実を口にしたのは、ホタルがここを訪れた際に常に感じるこの水を日頃から使用している者たちがいるという事実に危険性があると訴えるためだ。

 このからからに乾いた砂漠で井戸水を飲むなという方が無理はあるが、それでも警告として首領に伝えておく義務がある気がした。

 知識無く毒を帯びた魚を食べ、脂で灯りを灯し、保湿剤として肌に塗り込む第八区の人たちと同じように首領自治区に暮らす者たちが口にする危険な水に警鐘を鳴らすのはホタルの役目だろう。

「それがどうした?」

 だがアラタは冷たく硬い声でその事実を跳ねつけた。

「どうした、って――」

「なんだ?それは大変だ、この井戸に石と砂を投げ入れて埋め、誰も飲まないようにしようと言うとでも思ったか?ふざけるな。どこまでお前の頭は御目出度くできてんだ」

 茶色の瞳が怒りで澄み、オレンジ色に強く輝く。目元以外隠されていて見えないが、その顔がホタルを嘲笑し愚かだと見下しているのは解った。

「飲み水に適さなかろうが、いずれは毒に身体を蝕まれて死のうが関係ない。オレたちは未来じゃなく、今を生きてるんだ。必死に、喰らいついて」

「そんなことは、解って」

「解ってねえよ!あんたが住んでいるのはどこだ?ここか?違うだろうが!ここより汚染されていない水と大地に護られた場所だろ。そんな奴の綺麗ごとにオレたちが納得できるわけがない。あんたらが蔑んでこの首領自治区プリムスをP地区と呼ぶが、ほんとに愚かで貧しいのはオレたちじゃない」

 アラタは自分の胸を立てた親指で示した後、鼻で笑うと次はその手を北へと向けて指差し「カルディアの奴らと、そんな愚かな支配者を容認している統制地区の住人たちだ!」と高らかに叫ぶ。

 苦しい日々の中で将来を見据えて行動することは難しいだろう。遠い未来より今を生きるか死ぬかと綱渡りの状態で生きているのだから。

 虚しく項垂れてホタルは検査キットの蓋を閉じて鞄へと突っ込む。正論や倫理観は豊かで健全な社会の中でしか認められず、その価値を高めることも出来ない。

 悔しいが、アラタを説得する言葉をホタルは持っていなかった。

「オレたちには法は無いが、規則はある。なにかを決める時、オレたちは住民全員で集まり話し合う。女も子供も関係なく意見を述べ、その上で決定したことは文句を言わず従う」

 言葉を切りアラタはほんの少しだけ目尻を下げて微笑む。

「苦い魚を食べることを選んだのも、いずれは死を招く水を飲むことも、砂漠に埋もれて消えゆく運命の街に留まることも全てみんなで決めたことだ」

 凛とした声は自分たちの街や民に誇りを持っているからだろう。心強くホタルの耳に届けられる。

「オレたちは統制地区の無知な奴らとは違う。危険性を知った上で選択した。だからお前がそんな顔をする必要なんかなにひとつねえんだよ」

「そんな、顔って、どんな顔だよ」

「その情けねえ顔のことだな。さ、帰るぞ。オレは忙しいんだ」

 まだしゃがんでいるホタルの腕を引っ張って無理矢理立たせると、アラタはせかせかと砂を踏みしめて歩いて行く。その後ろをついて行きながらホタルは彼らの強さに改めて畏怖し、そして頼もしさと明るさに何故か勇気づけられている気がした。


 不思議な男だ。


 首領になったのは僅か半年前に父を戦いで喪ってからのはずなのに、その堂々とした姿はもう何年も住民を率いているように見える。自分とそう変わらない歳の男が人々を纏めているという事実に戦慄すら覚えた。

「まっすぐ帰れよ!」

 忙しいと言ったのは口実では無かったようで、街に入るや否やそう言って早足で市場の中へと入って行く。ホタルが礼をいう暇も無かったぐらいだ。

 苦笑いして街を抜けバリケードへと向かって硬い大地を行く。微かに見える入口でいつもの兵士がホタルに気付いたのか大きく手を振る。この間のことがあるからか、第八区の方では無く首領自治区の方を気にして見てくれていたらしい。

 彼らに勝手に嫌悪感を抱いていたホタルの心が萎れて行く。立場や仕事、住む場所が違うだけで人は簡単に優劣を決めて線引きをしてしまう。差別や暴力を行う理由にそれらはならないが、国が認めれば歯止めが効かなくなるのは彼らの所為では無い。

 だからと言って赦されることではないが、仕事を離れた彼ら個人は決して悪ではないのだ。

 手を振り返してホタルは薄く笑う。顔が見える距離まで行くと兵士はにこにこと笑いながら「無事に帰って来たな」と揶揄するので「今回はお手を煩わせることにならなくてほっとしています」と無難に応えた。

 記録簿の名前の後ろにバリケードを越えて戻った現時刻を書き入れて通行証を返して第八区へと入る。

 記憶を辿りながら通りを歩いて進んで行くと、この前燃えていた辺りの屋根が黒く焼け落ち、出火元になったらしい場所は跡形も無く焼けたのかその部分だけ虚ろな空間を広げていた。

 ダウンタウンは狭い場所に密集して建物が立っている。火が出れば隣家に燃え移る可能性が非常に高く、あの日は特に海からの風が強く吹いていて被害を更に増大させたのだろう。

 出火原因を特定するための捜査はされなかったはずだ。

 親切な兵士が“駆除”と口を滑らせたことから、これは完全に軍が絡んだ放火であり、明らかな殺人である。

 罪に問われないのは国と法が彼らを護ってくれているからだ。

 むしろ率先して“駆除”を推奨しているぐらいだから始末が悪い。

「国民登録義務法」

 タキたちはここ第八区出身者で戸籍を持たぬ者だ。この法律が施行され見つかれば強制的に捕えられ、厳しい労働を課せられる。人工栽培所プラントハウスに三年か、北の山の開墾に二年従事しなければ戻ってこられない。

 隣家が無人になり、賑やかだった暮らしが寂しくなる。

 考えるだけで目の前が暗くなるようだ。

 彼らが戻ってこられる頃にはホタルはもうあそこにいない。

 大学を卒業し、父の下で働くことを約束させられているから。

「なにを」

 考えているのだろうか。

 総統やカルディア地区の人々は。

 戸籍を持たぬとも彼らも同じ人間だというのに。

 反感や疑問を抱いても決して口に出来ない弱い自分が何を言っても真実味を帯びない。

「あった、ここだ」

 木造の二階家は随分傾き、本当に人が住んでいるのかと疑いそうになる位にボロボロだったが、あの日タキがホタルを連れて訪ねたあの孤児院で間違いなかった。

 軍の施設が直ぐ近くあり、人通りも少なく静かな場所だ.

 ホタルは玄関の前に立ち扉をノックしたが応えは無い。留守かと訝りながら、また改めて訪ねてこようと立ち去りかけた時、耳にキイキイと金属の擦れ合う音が聞こえてきた。

 音は右手側の脇道の奥からで、どうやらそこを通って裏に出られそうだ。

 裏に庭でもあるのだろうかと進んで行くと、ささやかな空き地に柵を設けて区切られた畑があった。雑草が咲かせる花と、狂ったように飛ぶ白いモンシロチョウが一匹。その傍に手押しポンプがあり、そのハンドルを腰の曲がったミヤマが押している音がキイキイと甲高く鳴る。

 管から勢いよく流れる水が太陽の光に反射して眩い。

「ミヤマさん」

 声をかけると胡乱気な顔でホタルを見上げる。押していた手を止めて垂れた目蓋の向こうで誰が来たのかよく見ようと目を動かしていた。

「先日お世話になった、タキの友人のホタルです」

「……ああ」

 あんたかいと口の中で続けてミヤマは視線を外して水の溜まった桶を掴んで歩き出す。畑に撒くのだろうと思っていたら、ホタルが来た道を辿って行くのでどうやら家の中へと運ぶようだ。

「あの、シオが来てませんか?」

 後ろをついて歩きながら尋ねると「シオ?来てないよ」と素気無すげなく返される。

 アゲハからシオとスイの喧嘩に仲裁に入ったが、上手く行かずに飛び出して行ったと告げられたのは今日の朝だった。

 確かめればタキもスイから聞いていなかったようで、昨日一日は仕事が急な早出ですれ違っただけだろうと思っていたようだ。流石に二日目の今日はおかしいと思っていたらしく、忙しく登校したスイを見送ってから話しをすると額を手で覆って苦しそうに唸った。

 仕事から帰ったばかりで寝ていないのにタキはシオの仕事場に行ってみると出かけて行った。

 元々汚染地区の井戸水を汲みに行くつもりだったので、帰りに第八区に寄りお礼の挨拶も兼ねて訪ね、シオの行方を聞いてみようと思ったのだが。

「二日も帰ってこなくて、心配してるんです。どこか行きそうな場所に心当たりはありませんか?」

 藁にもすがりたい気持ちで懇願するホタルをミヤマが足を止めて振り返る。その口に歪んだ笑みを浮かべて。

「知るもんか。シオは特に兄妹以外の人間に興味を持たない人間だ。あたしにだって心の底から懐いてなかった。そんなシオがあたしを頼ってくるわけないだろ」

 思ってもみなかった激しい拒絶に慄き口を噤む。

「あの子が信用しているのはタキとスイだけ。そのシオに友達なんて殊勝なものいるのか解らないしね。意地っ張りな性格だから帰りにくいだけじゃないのかい」

 懐いていなかったといいながら、シオを語るミヤマの目には愛情が溢れていた。厳しい物言いや、態度はきっと相手がホタルだからだ。

「素直じゃないですから。シオは」

 そしてミヤマも。

 帰ってこないのだと聞いた途端に足を止めて振り返ったのはシオを案じていたからに違いない。

「帰って来ると信じて、もう少し待ってみます」

 シオが帰る場所はあそこしかない。

 だからきっと戻ってくる。

「好きにすりゃいい。あたしには関係ないからね」

 ふんっと横を向いて再び歩き出したミヤマの横に立ち、持っている重たそうな桶をそっと奪う。

「この間の御礼に運ばせてください」

「……好きにしな」

 腰の上に手を組んで前のめりに歩いて行くミヤマの少し後ろをゆっくりと進む。こうやってタキやシオ、スイも彼女の後を兄弟三人仲良く歩いていたのかもしれないと思うと、無愛想なミヤマも愛しく思えるから不思議だ。

 薄い扉を開けて中へと入ると短い廊下の途中にある台所へとミヤマが入って行くのでそれに続く。小ざっぱりとした台所には物が殆どない。床に置かれた野菜籠に入っているのは痩せた人参とじゃが芋が数個。庭で取れた香草が吊るされ、調味料の類いは全く無い。

「そこに入れとくれ」

 指差したのは水瓶で、明らかに料理や飲み水としてこの水を使うのだと解る。

 ホタルは逡巡したが、先程のアラタとのやり取りが頭に残っていたので黙って甕に桶を引っくり返して水を入れた。


 ――なんだ?


 微かに感じた違和感。

 その理由が解らずに戸惑う。

「どうしたんだい?」

 怪訝そうなのはミヤマも同じだった。桶を持ったまま突然固まったホタルの様子に異常な物を感じている。

「甘い、匂い?」

 花や果物や、ましてや糖分的な甘さでは無い。初めて嗅ぐのに懐かしいような匂いが、ホタルの鼻孔を通り抜ける。

 爽やかさを含んだ微かな甘い香り。

「まさか」

 ホタルは水瓶の中を見る。そこに映っているホタルの顔はまるで鏡のように澄み、こちらを驚いた様に見つめ返してきた。

 恐る恐る手を差し入れて掬い上げるとひんやりとした感触と清浄な色を湛えた液体が満たされる。吸い込まれるように顔を近づけて掌の水を口に含んだ。薬剤の匂いも、不純物の混じった臭いも全く無い。

 喉を通り過ぎる涼やかな液体はペットボトルのミネラルウォーターとは違う天然の甘やかな香りと味を残して静かに胃の腑に到達する。

「美味しい……」

 どうして。

「タキがここに来たばかりの頃に裏のポンプが壊れたことがあって、近くの施設の水道管と繋げてくれたんだ。あいつらこんなにいい水を浴びるように飲んでるんだよ。たいした仕事してない癖に」

 せせら笑っていい気味だと笑うミヤマは、軍の施設の水を勝手に使用しているのだと語る。だがそれは有り得ない。施設の水道管は第八区の下を通っておらず、それと繋げるにはかなりの長さのパイプがいる上に大掛かりな工事になる。そんなことをしていれば兵士が気付いて捕まるだろう。

 そもそもこんな水はカルディア地区でも飲んだことは無い。

 無論総統もだろう。

「ちょっと、調べても良いですか?」

「なにを調べるんだい?」

「水質検査です」

 断られなかったことをいいことにホタルは逸る気持ちを押えて鞄を開く。中から検査キットの箱を取り出して試験管に瓶の水を入れて試薬を一滴垂らして計測器にかけた。

「そんなっ」

 今で見たこと無い数値だった。


 正常値。


 この国の水でこんな結果が出るなど有り得ない。しかもここは第八区ダウンタウン。バリケードを超えればすぐに汚染地区は目と鼻の先の場所だ。

「どうした?」

「いえ。すみません、ミヤマさん。この水を少し貰って帰ってもいいですか?よく調べたいので」

「なんか不味い物でも入ってるのかい?」

 不安そうな顔をしているのは軍の水を無断で使用しているからなのか、それともこの水が美味しいのはその中になにか変な物でも入っていたらと恐がっているからなのか。

「その逆です。なにも、でなかった」

 頭を振って口にしたホタルの言葉にどれだけ重要な意味があるのか解らないミヤマはほっとしたように「ならなんの問題も無い」と呟いた。

 ホタルにも一体どういうことなのか解らないことをミヤマに説明することは出来ない。空いている試験管全てにここの水を入れて蓋をして箱の中へ入れる。鞄に突っ込んでから立ち上がると「それではお邪魔しました。御礼はまた今度ゆっくり伺います」と頭を深く下げて辞した。

 計測器の不具合かもしれないから研究室でちゃんと調べなければと思う気持ちが足を速めている。

 自分の研究が進むと喜ぶよりも、知らなくていいことに触れたような気がして怖い。


 どうか間違いであってほしいと願いながらホタルは地下鉄の駅へと急いだ。

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