エピソード19 闇雲に全力疾走



「なに、やってんだ」

 タキがいない時は自分がスイを見守って、導かなくてはいけないのに。

 部屋にアゲハが来て問い詰められ、自分が隠し持っていた冊子についての疾しさから逃げてしまった。

 大切なはずの妹を放り出して。

 今更帰れない。

 どんな顔をして会えばいいのか解らない。

 スイにも、アゲハにも。

 とにかく今は現実から逃げたいと漕ぐ足に力を籠めてひたすら脇目もふらずに走り続ける。景色が滲んでどんどん後方へと流れて行く中を一向に晴れないもやもやを抱えて当ても無く進んだ。

 高揚するどころかどんどん落ち込んで行く感情を、自分でコントロールできないまま彷徨っている。

 足が疲れても腕が痺れても加速して、どこまでも追いかけてくる糞みたいな現実を振り払おうと懸命に走ったが結局はどこにも行けない。悔しさと虚しさで速度を緩めた先に黒いコートを纏った男が歩いているのが目に入った。

 朝靄から逃れるように道の端を歩く男は首からカメラを提げていたが、まるで隠すように右腕で抱えている。見慣れた眼鏡の奥の鋭い瞳が背後を窺って軽く舌打ちした。

「サン?なんで、こんな所に」

 思わず洩れた純粋な疑問。景色も見ずに足の向くまま、気ままに走っていたシオだが現在地を見失うほど無心では無かった。

 ここは第一区。大企業を運営している会社や技術者が集まる施設が多い地域だ。この区域の東の外れに人工栽培所プラントハウスが広がっている。居住区では無い第一区で朝の早い時間帯に歩いている人間は皆無で治安維持隊に見つかれば不審であると判断されても仕方がない。

 しかも後ろを気にしながらこそこそと歩いている姿は後ろ暗い人間であると大声で言っているような物だ。

「おい、サ――!」

 名前を呼ぼうとしてシオは靄の向こうから複数の足音が近づいて来るのを確かに聞いて途中で止めた。サンが第一区で何をしていたのかは解らないが、どうやら誉められたことではないのは解る。

 そんな時に素性がばれる様なことをしてはまずいことはシオでも理解できた。

 地を蹴りペダルを踏んだ。サンが三叉路を右へと向かったのを追って曲がり、腰を上げ加速して横を通り抜けると前に回り込んで停まらせる。急ブレーキをかけたため上手く速度を落とせず横滑りするのを左足でなんとか止め、警戒して踵を返そうとしたサンに「乗れ!」と叫ぶ。

「シ――」

 驚いて名を口にしかけたが途中で飲み込み、駆け足で寄って来る。シオの自転車は後輪の上に荷台は無い。腰かけることは出来ないが、車輪の軸から左右に足を乗せられる位の芯棒が出ている。

 車体を起こしてやると直ぐにサンはその棒に左足をかけて後輪を跨ぎ、反対側の棒の上に乗せた。

「喋るなよ。舌噛んで死んじまうから。しっかり掴まってろ」

 肩をサンの薄い掌が掴み、その手を通じて了承したと頷いた気配が届けられる。ぺろりと上唇を舐めてから腰と腕に力を入れて、鈍く疲労を訴える腿と脹脛を酷使し発車した。

 いつもとは違う二人分の体重を乗せたペダルは想像以上に重く、なかなか速度が出ない。太陽の光が靄の中へと射し込んでくるが、追いかけてくる何者かにシオとサンが乗った自転車はまだ見つかっていないと解るのは耳に忙しない足音が聞こえないからだ。

 配達で回ることも多い第一区の抜け道は熟知している。メイン通りから細い下り道へとハンドルを切って入り込めば、自転車は気持ちいいほど速度を増していく。

 凄い勢いで駆け下りれば視界の先に見えるのはびゅんびゅんと近づいては遠ざかって行く両壁と朝日に輝いているメイン通りへと交差する通り。

 そこを少しのブレーキだけで曲がり、メイン通りに入る手前で今度はノンブレーキで左へと曲がるとシオに掴まっている指が肩に食い込んで息を飲む音が聞こえた。

 もうサンを追っていた複数の足音と気配は遠ざかっていたが、油断はできないと直接第三区に入るのを止めて一旦太陽を背に西へと走り、第二区へと入ると学校施設が開く前準備をするための出勤者が地下鉄の駅からぞろぞろと上がって来ていた所だった。

 清掃作業の制服を着た者たちが道具を片手にあちこちへと散らばって行く。その中を走る二人乗りの自転車を不思議そうに見る人たちもいたが、彼らは総じて無気力な者が多い。

 直ぐに興味を失って黙々と作業を開始する。

 学校の裏手を擦り抜けて第三区へと移動すると正面から太陽を受けて目が眩む。影を求めて端へと寄り、通い慣れたサンの部屋への道を辿った。

 こんな朝早くにこの区域を訪れたことはなかったが、商業施設の多いこの地区は朝の訪れが遅いのかどの店もシャッターが下ろされており開店準備をしている様子はどこにも無い。

 きっと学校関係が一番早く開くので清掃業者が入るのだろう。そしてその後にこの第三区へと移動して、次に第一区へと向かえば効率はいい。

 もしくは別の清掃作業員が時間をずらして担当地区に出勤してくるのかもしれないが、自分の職業とは関係ない仕事のこと等どうでもよかった。

 人通りの無い道は走りやすく、あっという間にサンの部屋のあるビルへ到着した。

「着いたぞ」

「……助かったが、二度と御免だな」

 さっさと飛び降りたサンの顔に珍しく恐怖に似た怯えを見出しシオはにっと笑う。

どうやら全力疾走の自転車の速度に随分慄いたらしい。

「そういうなって。いつだって後ろに乗せてやるからさ」

「無謀で乱暴な運転は生きた心地がせん」

「オレの運転技術は一流だぜ。追っ手は気づいてもいないし、追いかけてもこれなかっただろ?」

 憮然としていたサンは眉間の皺を開いて大仰に嘆息すると「寄って行け」と誘って硝子の嵌った入り口を押し開ける。誘われなくても少し休んで仕事へ出勤しようと思っていたので後へ続き、一応変な人間がいないかを自転車を抱える仕草の中でさりげなく窺うが妙な気配も視線も音も無かった。

 二階へと上がる階段を上って部屋の前に立つと、いつもシオが訪ねてくる時には聞こえてくるラジオの音が聞こえない。

 違和感を覚えたが寝ているはずの時間にラジオが流れていたら逆に不自然だろうと思い至って苦笑いした。

 鍵を開けて入った部屋は冷え切った空気が満ちていて、汗をかいた身体がひやりとして思わずくしゃみが飛び出す。玄関の壁に自転車を立てかけるようにして置き、腕を擦りながらいつもの定位置であるソファーに移動した。

 サンはペットボトルの水を薬缶に入れてガスで温め、食品棚からカップ麺を二つ取り出して準備をしている。どうやらシオの分まで用意してくれているようなので、有難く待つことにした。

 ダウンタウンを抜け出しても常に空腹はシオを襲っている。朝食はホタルの所で食べるがそれでも満腹とはいかず、昼食は時間と金の節約の為に抜き、夕食は簡単に済ませるか食べないこともあった。

 腹いっぱい食べた記憶が無いのは幸せかもしれない。

 空腹に慣れている分、食べなくても我慢もできるし身体の動きもそれが原因で鈍るということも無かった。

 腹は減っているが食べなくても平気だという感覚はきっと普通の人間には理解できない物なのだろう。

 ホタルやアゲハは「夕食はちゃんと食べたか?」と心配して、まるで挨拶のように頻繁に口にするのだから。

 それだけ食事が大切な物なのだと彼らは思っているのだ。

 真の空腹など経験がないから。

 常に飢餓感に襲われることがどんなことか知らないから。

「ほら」

 化学調味料と添加物の良い匂いを漂わせて差し出されたカップを受け取って、薄っぺらな蓋を外すと湯気までも御馳走のような気分になる。

「んまい」

 久しぶりに食べたカップ麺の味に感激して、シオはフォークを使って次から次へと啜って食べた。

「凄い食べっぷりだな。普段何食べてるんだ?」

 ソファーの肘かけの部分に座ってサンが苦笑して自分の分をゆっくりと食べ始める。彼はいつも食べているからこの美味さを忘れているのだ。

 可哀相だなと同情しながらスープの一滴まで飲み干すと手を合わせて「ごちそうさま」と感謝の意を表せば、サンは微妙な顔でシオの顔をしげしげと眺めてきた。

「自分勝手で滅茶苦茶なのかと思えば、礼儀正しい所もある。お前は本当に変わってるな」

「礼儀正しく見えるのはお節介な隣人のせいだ。朝食も毎日手作りで、上品なもんばっかりだし。正直オレはこっちの方が好きだ」

 空のカップを振って見せて答えると呆れたようにサンが「お前隣の人間に食事をたかってるのか!?」と声を上げる。

「たかってるって、勝手に用意してるだけだろ。あいつが」

 頼んでも無いのに人数分作って、行くのが遅いと急かされるのはどうも納得がいかない。それでもタキがホタルの友人で、スイも喜んでいるからなにも言わないだけで、シオは別に朝食を他人と食べなくても構わないのだが。

「それは、女か?」

「はあ!?違う!男だよ、男。うん?片方は男だか女だか微妙か?」

 探るように問われてシオは慌てた。料理を作ってくれる人物がいるという言葉だけで、相手を女だと思われていることに妙な居心地の悪さを感じる。

 だがアゲハのことが頭に引っ掛かり、首を捻って男だと断言できずに唸るとサンが「別に構わんが」とうやむやにした。

「その有難い朝食を蹴って、こんな所で飯を食っているのには訳があるんじゃないのか?」

「そ、そういうお前だって!あんな所で何してたんだよ!」

 いつもの鋭い観察眼に見抜かれてギクリとするが、逆にサンの不審な行動を問い返すと思案気な顔で「それは、今はいい」と曖昧に誤魔化された。

 ここで食い下がればシオのことも穿られてしまうのでおとなしく引き下がる。

「まあ、家に戻りにくのならばここで好きなだけカップ麺を食べて行け」

 サンがポンッと肩を叩いて立ち上がると、食べかけの物を差し出してくるので躊躇いも無く手に取る。

 好きなだけいてもいいという言葉に少しだけ甘えることにして、シオはふっと思いついたことを口にした。

 きっとサンなら知っていると思って。

「なあ。蓮の花のビラを配ってるテロリスト、知ってるか?」

 カメラの後ろを開けてフィルムを取り出しながら歩いて行こうとしたサンの背中がぴくりと反応する。

 ゆっくりと肩越しに振り返り警戒を顕にした黒い瞳がこちらを射抜く。

 長い間見つめられていたが、シオはただその視線を受け止めて答えを待つ。

 サンが根負けしたかのようにため息を吐いて「クラルス」と呟いた。きっとそれがテロリストたちの活動名なのだろう。

「クラルス」

 確かめるように口の中で繰り返しているシオを憐れむように眺めて、サンはなにも言わずにフィルムを手に現像するための部屋へと入って行った。

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