エピソード18 いつも通りの朝
朝一番の電車に乗ってアパートへと戻ったのは空も白み始めた頃だった。道中互いに言葉を交わさずに黙って歩いたが、その空気が重いわけでも気まずいわけでもない。
なにか作業しているわけでもないのに喋らずに傍に居るということは普通ならばとても気詰まりなのに、不思議なことにタキは気を遣わせない男だった。
背が高くがっしりとしているので圧迫感を感じさせ、表情もあまり変わらず饒舌な方でもないから恐そうに見えるのに。タキが他者に与える印象は穏やかとか、頼りがいがあると言った方がしっくりくる。
階段を上りながら男っぽく端正な顔立ちの横顔を斜めから眺めていると「どうした?」と怪訝そうに見下ろしてきた。
「いや。また、助けて貰ったなと思って」
タキの職場近くの港で海に転落した時のことは思い出すたびに羞恥に震えるが、それでもそのことがあったからこそ彼と知り合えたのだと思えばそれすら我慢ができる。
なんの隔たりも、語弊も無く素直に友達だと言えるのは彼だけだ。
カルディアで過ごした幼少期から高校課程までの間に周りにいたのは上辺だけの級友ばかりだった。悩みも弱音も吐けない関係の中で、重要なのは家柄と頭脳、それから進路を巡る駆け引きだ。
誰もが国防大学に進み軍の士官候補生を目指すか、高等文官試験合格を目標に専門技術を学ぶ。
父ナノリも息子であるホタルに国防大学へと進んで欲しいと思っていたが、無理を通して普通の大学へと進学したことでかつての級友はホタルの愚かさを笑い離れて行った。たいして仲が良かったわけではないが、それでも胸に冷たい風が吹いたのを覚えている。
それだけの付き合いだっただけだ。
タキとの身分も出身も明かさない付き合いは気が楽で、その分素直な気持ちで接することができた。
きっとこれが友達という感覚なのだ。
最初に危ない所を助けて貰ったという感謝の気持ちと、純粋な憧憬はどんなことが起きても変わることは無いだろう。
「研究が大事だというホタルの覚悟は解っているが、命を失っては水を浄化するという夢は叶えられない」
遠まわしに苦言を呈するタキの思いやりにホタルは小さく微笑む。他の人のように正義感を振り回してくどくどと説教をしない所がいかにも彼らしい。
「解ってる。これからはもう少し気を付けるから」
「そうしてくれ」
最後の階段を上りきり、互いの部屋の前に鍵を出して立つ。遅くなると告げずに出てきたのでアゲハがきっと心配している。まさか帰りが次の日になるとは昨日の朝の時点で解るはずも無い。
いつも通りに夕方過ぎに帰るつもりだったのだから。
「ホタル」
不意に名を呼ばれて驚き、左側へと顔を向ける。金色の瞳が一瞬翳り何かを言おうと微かに動いたが、きゅっと引き結ばれた後で「具合は大丈夫か?」と気遣わしげな言葉が出された。
きっと言いたいこととは違う言葉を口にしたのだろう。
それが解っていてもホタルはにこりと微笑んで「もう平気だ。今日は大学も研究も休んでゆっくりするつもりだし」追及はせずに返答した。
タキは目を細めて「そうか」と呟き、じゃあと続けて鍵を開けて中へと入って行く。
「朝食いつも通り、食べに来てよ」
扉が閉まる前にそう呼びかけるとノブを握った手が止まり、隙間から窺う様な視線が覗く。それに笑って頷き「待ってるからさ」と言い置いてさっさと鍵を回し、扉を潜って部屋へと入った。
廊下の先のリビングからは朝日が差し込み、床に白い光を反射させている。ラジオをつけているのかノイズ混じりのニュースが途切れ途切れに聞こえてきた。いつもはコーヒーや、トーストを焼く匂いがする部屋に漂っているのは夜の間に冷えた空気だけ。
この時間に朝食を作る匂いがしていないのは初めてかもしれない。
「アゲハ?」
大体朝の食事を作るのはホタルだが、先に起きたアゲハが朝食を作ることもある。食事は手が空いている方が作ると決めており、時間に追われた手抜き料理ばかりのホタルと違ってアゲハの作る物はあり合わせの材料なのに手の込んだ珍しい料理が多かった。
味付けも多彩で毎回驚かされるのだから、これも才能なのだろう。
ホタルがいない朝ならば代わりにアゲハが朝食を作っているのだと思っていたが、どうやら食事を作る気分ではないらしい。
それもそうか。
心配かけておきながら朝食が無いと文句を言える立場では無い。すぐにスイとタキが来るだろうから簡単に作れるものを用意しなくては。
材料はなにがあったかと頭の中で考えながらリビングに入ると、テーブルに肘をついて頭を抱えているアゲハの姿が目に入る。美しい銀色の髪が心なしか彩度を失い、セーターの袖から覗く白く細い手が必死で何かを掴もうとしているように映る。
「アゲハ」
聞こえていないのか再度声をかけると、はっと顔を上げてこちらを見た。瞳孔の開いたコバルトブルーの瞳に浮かぶ隠しようのない憔悴が、ホタルを認識した途端に深い安堵へと変わる。青白い顔に隈がくっきりと影をつけ、アゲハが一睡もせずにホタルの帰りを待っていたのだと如実に語った。
「ご、め」
「ホタル、よかったぁ」
謝るより先にアゲハがくしゃりと笑って張り詰めていた肩から力を抜いた。大きく息を吐き出して顔を俯かせると洟を啜りあげるようにしてもう一度よかったと呟く。
「本当に、もう。心配したんだから」
頭を抱えていた右手で今度は額を押え、心の底からホタルの無事を喜んで涙の滲んだ声を出す。
こんなにも心配をかけていたのだとは思っていなかった己の短慮に後悔する。帰宅が朝方になろうとも研究室に泊まっていると軽く思ってくれていると考えていた。
仮にも成人した男の行動に弟がこれほど動揺するとは。
「ごめん。そんなに心配してくれてるなんて、思ってなかった」
「するわよ、心配。それとも家を出た弟が兄を心配するのはおこがましい?」
「まさか!」
「それなら言わせてもらうけど、ここは統制地区なのよ?安全なカルディアとは違う。連絡も無く帰りが遅ければ命に関わる事件が起きたと思わないと取り返しがつかなくなるんだから」
ちゃんと自覚してよと愚痴ってアゲハはゆらりと立ち上がる。長い髪を後ろで一つに結わえながらキッチンへと入り鍋に火を入れた。そして食品棚から食パンを取り出すとオーブンへと突っ込んで焼き始める。コーヒーメーカーにフィルターをセットして粉を入れ、水を注ぐとスイッチを押した。
次に冷蔵庫から卵とひき肉を取り出し、玉葱の皮を剥いて手早くみじん切りする。フライパンをコンロに出して中火で油を熱して玉葱を炒め始めた。その片手間にボウルに卵を割り入れてほぐし塩こしょうで味付ける。
玉葱が透明になり良い匂いがしてきた所でひき肉を入れて更に炒める。
その頃になると熱い湯がフィルターの中へと落ちてきて何とも言えない芳しい匂いが漂い始めた。
ようやくいつも通りの朝が部屋に訪れる。
流れるようなアゲハの動きをうっとりと眺めていたホタルに「着替えて顔を洗ってきたら」と弟が苦笑いして次の行動を促す。
改めて自分の姿を確認すると服は煤と砂まみれで、髪もボサボサだった。どこで引っ掻いたのか腕には赤い蚯蚓腫れまでできている。鏡を見なくても自分が酷い格好をしていることは解ったので、慌てて自室へと駆け込んだ。
先ずは着ている服を全て脱いで引き出しからボディシートを取り出し丁寧に拭き上げる。このスィール国では水は貴重品でカルディアではどの家庭にも風呂とシャワーは完備されているが、統制地区では一般家庭に設置されていないのが普通だ。
その為清潔を保つためにウェットタイプのシートで身体を拭く。これ自体もそこそこ値の張る物なので、毎日使える家庭は少ないだろう。
ホタルは経済的に恵まれているので、日に何度でも使おうと思えば使える立場にあった。
「父と国に反感を持っていても、結局それを享受しているんだから」
同罪だ。
風呂を使えないことを不快に思う自分も、その潔癖な性分を育んだのは今までの暮らしであり常識だから。
不潔さを厭う自分に、アゲハのように家を捨てることなどできない。
それなのに父や国のあり方に不満を持っている矛盾。
ただの偽善だ。
確かに身の危険を感じたはずの昨日から夜中の出来事もどこか危機感が薄く、タキに救われたはずなのに自分自身に起こったことでは無かったような気さえする。
ホタルになにかあれば父が護ってくれるとどこかで思っているのか、どんな状況でも命を落とすことは無いだろうという変な自信があった。
「傲慢だな、僕は」
タキのように力も強さも持ち得ていないのに、死なないと信じているなんて。
自分の身さえも護れない癖に。
「おはよう、アゲハ」
スイの元気な挨拶の声が玄関から聞こえてはっと我に返る。急いで箪笥から着替えを取り出し身に着けて、強張った両頬に軽く手を叩きつけて気合を入れると部屋から出て顔を洗い急いでリビングへと向かった。
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