エピソード14 老人と戦争


 微かな話し声と人の気配にゆっくりと意識が覚醒する。浮上するに従い体の芯がすっかり冷え切っているのも、後頭部が鈍く痛むことにも気づく。鼻には鉄と木が燃える匂いが入り込み、舌にはざらつく砂の粒が纏わりついていた。

 睫毛を押し上げて目を開けば闇を照らすオレンジ色の光。

 近くにあればホタルの凍えそうな身体を温めてくれただろうが、その光源は確かな熱を帯びて少し離れた場所にあった。

 そしてその前に座る小柄な影と隣にしゃがんでいる若い男の背中。

「…………うっ」

 気付かれないように身を起こそうとしたが冷えて固まった四肢を動かすのが難しく、頭を動かそうとすると頬が硬い地面に擦れて痛み、首を擡げれば殴られた箇所が疼くように抗議する。

「気づいたか」

 大きな竈のような物の前から男が振り返り素っ気無い物言いで立ち上がった。

 横にいた小さな影もこちらを向き、その顔と姿が炎に照らされて顕になる。年老いた男で右目が潰れて白濁しており、無事な方の目はぎょろぎょろと黒い瞳をしてホタルを観察していた。皺だらけの顔とそれを支える細い首には酷い火傷の痕があり、剥き出しになった両肩から腕にかけては黒色化していたがみっちりとした筋肉がついている。小さな木の箱に腰かけ脚は地面を踏んでいるが、左膝から下の異常な細さがズボンの上からでも解った。

「なにを考えてる」

 男は近くに来ても老人を凝視しているホタルの注意を自分へと向ける。言葉だけでなく靴先で脇腹を小突かれて、仕方なく老人から視線を外して男を見上げた。

 肩まである赤茶色の髪を背中で結わえて、斜に構えた姿は自分とそう年齢が変わらない風に見える。統制地区よりも激しく太陽が照りつける首領自治区で育った男の肌は褐色と言っても差し支えない程焼けているのが薄暗い中でも解る程だった。

 ホタルを見下ろす感情の無い瞳は闇の中で赤っぽく見え、この男が昼間に襲ってきた人物なのかは確信が持てなかった。倒れる瞬間に視界に入ったはずの金色の瞳とはかけ離れているように思える。

「だから何を考えてる?人の顔をジロジロ見やがって」

「自分を襲った相手がどんな人物か、考え慎重になるのは当然だと思うけど」

「はっ。お偉い学者先生は言うことが違う」

 馬鹿にした口調でホタルを煽っているのは解っていたので「僕は学者じゃない、学生だ」と訂正しながら痛む頭を押さえ顔を顰めて起き上がる。

「学生ね。お前あそこでなにしてた?」

「なにって、研究の為に水を汲み上げて水質を調べてたよ」

 その前に襲われて目的は達成できなかったけれど、と軽く目に力を入れると男は形の良い唇を歪めてにやりと笑った。その様子にやはり自分を背後から引き倒して殴ったのは目の前の男なのだと納得したが、それではあの時見た気がした金の瞳はやはり見間違いだったのだろう。

「荷物を確認して調べたが、毒物の類いや怪しいもんは入ってなかったからな。一応信用してやるよ」

「当たり前だよ。毒物なんて持ってない。僕がやってるのはその真逆で、水を元の状態に少しでも戻すことが目的だからね」

「水を、戻す?」

 乾いた笑い声を上げて男はおかしそうに首を仰け反らせた。防寒の為にその首に巻かれた白地に真っ青なラインを染色したストールが妙に目に焼き付く。

「お綺麗な顔して言うこともお綺麗とは、本当に笑える」

「いい加減、無理だと笑われるのには慣れてるよ」

 誰もが研究を笑い、不可能だと馬鹿にする。できもしないことに夢中になるホタルを憐れみ、蔑み、時には尊い研究だと誉めて。

 人がどう思おうとも関係ない。

 これは贖罪なのだから。

「本物の莫迦だな」

「何事も突き詰めれば価値ある物だというから、本物の莫迦というのも誉れ高い称号のような物だと受け止めるよ」

「称号ね。まあ、いいだろう」

 挑発も嫌味も全て当たり障りのない言葉で受け流して小さくため息を漏らす。逆に男にはホタルの反応が予想外だったのか喜んでいるように見える。

 目の高さまでしゃがみ込んでコバルトブルーの瞳を覗き込んできた。

「あんな所を一人でうろうろしてりゃ、襲ってくださいって言ってるのも同然だ。これに懲りたら大人しく統制地区に引っ込んでろ」

「それは約束できない。この地が一番汚染されているんだ。そこで調べることに意味があるし、変化が如実に表れるのもここが一番先だから」

「ちっ。人が親切に忠告してやってんのに」

「初めて会った人から止めろと言われて研究を止めるのならとっくの昔に止めてるよ」

 本当に多くの人たちが諦めて違う研究をしろと諭してきた。自然界にある水を浄化するのではなく飲める水を作り出す研究の方が主流で、今の所水の代用品となる液体を人工的に生み出すことに成功していた。

 でもそれでは意味が無い。

 これが駄目だからと簡単に捨てて、次はこっちにと新しい物に飛びついていては足元から崩れ落ちる。

 人がこの地上で生きて行くのならば、自然界を無視してはならない。

 汚れ朽ち果てるのが見えている土地を見限って別の場所へと移り住もうとも、汚染という病は止まらないのだ。限りある陸地の上を逃げ回ってもいつかは追いつかれる。

 根本的な治療をしなくてはならないのだ。

 それなのに研究者は困難な現実から目を反らして、安易な方法を取ろうとしている。

「意外と頑固だな。あんたも」

「与えられた猶予が残り少ないから焦ってるだけだよ」

 遊んで過ごす為に大学まで進んだわけじゃない。

 父は大学へと進みたいと頼んだホタルに難色を示した。それでも熱心に頼み込み、四年後には必ず父の望むような道を進むと約束して了承を得たのだ。

「今はここも全てが手の内じゃない。オレたちの街にもあいつらが入り込んで来てやがるからな」

 苦々しい顔で男は“あいつら”と吐き捨てる。ここは首領自治区で軍は滅多なことでは手を出さない場所だ。国も下手に刺激すれば彼らが簡単に武器を手に攻め入って来ることを知っている。

 つまり男の言う“あいつら”は国でも軍でもない。

「“あいつら”って?」

「――異能の民を率いる、マザー・メディア」

 聞き馴染の無い言葉にホタルは間抜けにもぽかんと口を開いて男を見つめた。片頬を歪めて「気色悪い宗教集団だ」と端的に個人の感想をつけて返され、口の中で「宗教」の文字を呟けばやんわりと実感を伴って脳に到達する。

「聞いたことが無い」

「そりゃそうだろうよ。あいつらはここ首領自治区プリムスから離れた西に突き出した岬の尖端で活動してるからな。まあ、聞いたことが無いだけで確実にあんたらの地区にも手を伸ばしてるだろう」

「統制地区まで!?」

「更にその奥まで行ってる可能性もあるぜ。あいつらは奇妙な力を使う。見たことの無い、怪しげな技だ。だからオレたちはあいつらを異能の民と呼ぶ。信者全てがその力を扱う訳じゃないからまだ助かってるが」

 岬からこっちへと侵略してくる勢力を押し止めるのが精一杯なのだと悔しげに語った所で外から呼びかける声に応じて男は立ち上がる。粗末なドアを開けてなにやら話し込んでいたが早々に切り上げて戻ってきた。

「あんたの捜索をしたいと軍が言ってきた。引き渡してやるからオレに襲われたと告げ口するのは無しだ」

「黙っておくことにこっちはなんのメリットも無いけど?」

「黙っておいてくれりゃ、ここに研究だかなんだか知らんが今度来る時にはオレたちが護衛してやる」

「信用してもいいのかな」

「お前次第だな」

 誰何も理由も問わずにいきなり襲ってきた男を信用しろという方が難しいと思うが、今は黙って頷くことの方が賢い気がした。

「解った」

「よし。じゃあ話をしてくるから少し待ってろ」

 底の厚い編み上げブーツが硬い地面を踏みしめる音を響かせて、男はドアの外へと出て行った。どうやらさっき呼びに来た人物が待っていたようでなにやら話し声がしたが内容までは聞き取れない。

 ホタルは痛みの残る頭部を撫でて押えながら立ち上がった。目を走らせて近くに検査キットの入った鞄があるのに気付くとそれを掴んで斜めに掛ける。それから部屋の中にいたもう一人の人物である老人を思い出した。

「あの」

 声をかけるのが躊躇われるほどの強張った背中にそれでもホタルは恐る恐る呼びかける。老人は背を向けたまま「なんだ」と硬い声で返答した。

「その足は」

 不自然な左脚について問う不躾さを恥じて続く言葉を飲み込むと、老人がそっと肩越しに振り返る。その白濁した右目と、黒々とした目の対比があまりにもくっきりとしすぎていてホタルは怯む。

「酷い戦争だった」

 南にある国が水の豊かなこの国を攻め込んできたのは、その頃から深刻だった砂漠化と水不足が原因だった。南にある多くの国の国土は次々と砂に代わり、水源にも翳りが見え始め助力を求めてきた彼らの手をスィール国総統は無慈悲に跳ね除けたのだ。

 軍事力も国力も上だったこの国は、彼らが攻め込んできても排除できると踏んで。

 だが生命の危機を感じている者の勢いと力は根気強く強固で、長引く戦況はじわりじわりとスィール国の後退へと変わる。

 国境の街が攻め込まれ戦場になった。逃げ遅れた人々は銃弾に倒れ、爆風で家を失い、怪我を負い、全て奪われて。

 老人はその街で徴兵されただけの住民に過ぎない。

 極度の緊張状態で過ごす毎日は理性を削ぎ落とし、恐怖は麻痺して痛みは緩慢になる。人は簡単に死に、殺され、また生きる為に殺した。

 護るためでも、国のためでも、家族のためでも無くただ自分の命のために戦った。

「それが今でも苦しめる」

 老人がそっと左腿を擦る。ズボンの裾から覗く金属で作られた義足は不格好だが、これが彼を支える足となっていた。

 何度も死にかけて、その度に命を拾う。

 目を失い、片足まで失っても生にしがみ付く浅ましき根性が許せないと。

「醜い戦いで得る教訓は上の奴らには届かん。戦場で戦うのは奴らじゃなく、おれたちのような底辺の使い捨ての雑兵だからな。生き恥を晒し、一生あの時のことを夢に見ながら怯える人生など下らん」

 それでも生きているのからどこまでも穢れた人間だと続け嘲る。

「まあ、今はこうして首領の手助けをして請われるままに武器を作っとるんだからおれも同罪だ」

 顔を竈へと戻して肩を揺らして笑った。

 老人の向き合うその竈で沢山の武器が作られるのだろうが、それは本当に不要な物なのか。彼らは彼らの権利を護るために戦う理由があり、そのためには武器が必要なのだ。

 戦争を経験して、戦うことがどれだけ不毛で負の遺産しか残さないのを知っていても老人は戦うための道具を作る。

「ま、あんたらが使う化学兵器の方が数倍も愚かで脅威だがな」

「それは」

 もう二度と使用してはならない物だ。

 ホタルが唇を噛んで俯くと老人がちらりと横目で窺って「再び使うことを選ぶ程奴らが馬鹿でないことを願うがね」鼻を鳴らしてそれっきり黙った。

 ドアが開いて先ほどの男が顔を出し「来い」と促すので、老人に一礼して辞した。

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