エピソード13 こちら側
ここ最近の忙しさも落ち着いて、来週辺りからは少しのんびりできるなと同僚たちが笑いながら温かいが薄いコーヒーを飲む。穏やかだった海から吹く風が強くなり、事務所の窓をがたがたと揺らした。
この風が吹き始めるとタキたちの仕事は減り始める。段々と海が荒れ始め、港に着く船が少なくなるからだ。
そうなると収入が減るので別の仕事を探して補わなければならないが、どうやら国民登録義務法なる厄介な法律ができたようで簡単に職を探すことができなくなりそうだ。職安に行って斡旋してもらおうにも、戸籍が無いと解れば直ぐに軍に報せが行き強制労働を課せられる。
タキやシオは軍の手を隠れ逃れながらも生活して行くことはできるが、スイは学校へ籍を置いている以上この法律を無視することはできない。
戸籍を持っていないことは学校に知られているからだ。
今は猶予期間中なので、すぐに拘束されるということは無いだろうがその短い間に登録の為の大金を稼ぎ出すことは難しい。
登録するための莫大な金と学費と生活費の捻出。
考えてもその方法を見出せずに、ここ数日タキは頭を痛めて悩んでいた。
「なんだ?あれ?第八区の方だ」
「どうした」
窓の方を向いていた男が怪訝そうな顔で声を上げる。隣に居た男も不思議そうな表情を浮かべて窓辺によると一瞬固まり、その異変がなんであるかを確認して青くなり「火だ」と呆然と呟いた。
「火、第八区」
タキはその言葉が表す恐ろしい響きに目の前が暗くなる。火を、銃弾を、容赦なくダウンタウンに住む人に向けて放つ軍の兵士たち。第八区の住民が一人残らず死んでいなくなるまで続けられる暴挙。
――あたしが死ぬ前に会いに来てくれてありがとうね。
そう言って透明な笑顔のミヤマは全てを悟り、死を覚悟していた。
「すまん。帰る」
タキは言い置いて親方の許しも、同僚たちの返事も待たずにドアから外へと飛び出す。工場地帯の第七区の奥にある南東の空がまるで夕焼けのように赤く染まっていた。それも広範囲で燃えているようで、海側から吹く風に煽られるように黒い煙と赤い火の粉が舞っているのが遠い場所に居るタキの目にもはっきりと見える。
空腹の中弟と身を寄せ合うようにして寒さを凌いで夜を明かした布に仕切られただけの場所。食べる為に走り回って仕事の手伝いをした路地や店。どうしようもなく堕落した人間と、最低な生活の中でも希望を失わない人間がいた。暴力や強奪、憎しみや憐れみ。ミヤマと過ごした貧しいが温もりのある生活をした孤児院。
辛いことが多かった幼少時代の記憶や思い出をホタルに言えないのは、どこか引け目があるからなのに。
恥ずかしいと思っているから口に出来ないのだと。
堂々と
ただ、ミヤマが。
孤児院が失われることが我慢ならない。
知らず走り出していた身体にタキは色々な難しいことを考えるのを止めて素直に従う。闇に沈む道を工場の大きな建物を縫って駆けながら、最短距離を真っ直ぐに第八区へと無心で進む。
頭の中は真っ白なのに神経は研ぎ澄まされ、疲れているはずの肉体には異常なほどの力が漲っていく。脚は軽く、何処までも走れそうな気がした。
昔は優しかった軍の兵士たちの中で変わった物は意識か、それとも性質か。彼ら下級兵士はカルディア地区の人間では無く、統制地区に住む一般市民のはずだ。その普通の人間が、愉しんでダウンタウンの人間を殺している。
戸籍を持たぬ者は国民では無い。
人に非ず。
「そういうことかっ」
優劣を決め、自分より劣る者がいることで安堵する。上からの圧力が強く苦しくなればなるほど、その不満や憤りを吐き出すはけ口が必要になる。その対象を国は彼らに与えたのだ。
戸籍を持たぬ者。
「人が人を差別し、生死すら軽んじることを赦す。そんなことを」
国が認める。
殺すことを推奨するかのように。
「腐ってる」
間違っていると大声で叫ぶ段階ではすでにないのだ。一握りの人間を多数の人間が寄ってたかって捻り潰そうとしている。
まるで虫けらを殺すかのように。
心に燃え上がったのは怒りや憤りでは無く、虚無感だった。それは静かに、そして激しく揺さぶりタキの中の闘志を呼び覚ます。
高い壁に阻まれて抗議の声が届かないのならばその壁を叩くしか方法は無く、兵士が武器を持ち高圧的に従わせようとするのならば抗う為の力が必要だ。国も法も護ってくれないのなら己の身を護るのは己のみ。
風が正面から渦を巻いて襲い掛かって来て、顔の産毛が熱で燃え煙が目を曇らせる。工場地帯の切れ目に立ち、タキはその向こうにある第八区の姿を目にした。
粗末な家屋は殆ど木造だったのであっという間に火は広がっただろう。赤々と炎が照らす通りの中を住民が右往左往して逃げ惑っていた。泣き叫びながら親を呼ぶ子供の姿や、火傷を負い道に倒れている者の姿。呆然と焼けている街を見ている人々の煤で汚れた顔。
諦めの表情の人々の中に一人だけ感情を顕にした男がいた。
「あいつは」
黒い髪に黒いTシャツの男。今は首に赤いバンダナを巻いてはいないが、間違いなく軍の車を奪い子供たちを使って銃と弾を盗み出していたあの男だった。
タキは人垣を分け入って近づこうとしたが、大きな音を立てて傍の住宅が崩れ落ちる衝撃に人々が慄いて蠢き行く手を阻む。
「ちょっと、すみません」
謝りながら強引に押し退けて進んだが、さっきまでいた所に男の姿は無かった。慌てて首を巡らすと人の波を超えて海側にある軍の基地の方へと歩いて行くのが見える。
火はどうやら第八区の中央辺りから出火したらしく、西から吹く風により火は東側へと広がっているようだった。奇しくも東側の端にタキたちの育った孤児院はあったが、軍の施設の近くにあるので火がそこまで及ぶ前に消し止められるだろうと願って今は男の後を追うことを優先する。
何故あの男が気になるのか解らない。
追いかけてまで子供を巻き込む方法を咎めるつもりなど毛頭なかったが、ここで男を見かけたのは単なる偶然とも思えなかった。
苦労して抜け出しタキは男が消えた道へと足を向ける。そこは細い路地で幾つもの小道が交差している場所だった。どの道がどこへと繋がっているのか、子供の頃に沢山の道や路地を駆け抜けたタキでさえ解らないほど無数の道がここにはある。
ゆっくりと歩きながら路地から小さな道を覗き込み男の姿を探す。追っ手を撒くには好都合なこの道を男が選んだのはタキを惑わすためでもあり、きっとこの先のどこかに彼らの集まる
路地の後ろから風が足元を通り抜けてタキは歩を止めた。
拳を握り、いつでも反撃できるだけの緊張感を身体に纏わせると背後でくすりと笑う気配が空気を動かす。
「お前は」
「どうだ?我々の前に立ち塞がる気になったか?」
「アキラ」
振り返った先にいたのは今にも倒れそうな程顔色が悪い癖に生気に満ちた奇妙な男アキラだった。艶やかな黒髪が微風に揺れて闇の中で美しく煌めく。やつれた頬と隈の浮く目元は相変わらずだが、その紫の瞳はタキが名を呼ぶと嬉しそうに輝いた。
「覚えてくれていたか」
「忘れたくとも、あんたは印象深すぎる」
そうかと微笑んでアキラは赤いバンダナを目の前でポケットから取り出すと首に巻いた。青白い顔に真っ赤な色が映って少しだけ血色がよく見えるが、その分病やつれが色濃く浮き彫りにされて直視に堪えない。
「あんたはこちら側じゃないはずだ」
眉間に力を入れて睨みつけるとアキラが口元を歪めて「こちら側ね」と意味深な笑みを浮かべた。
彼が言う我々とは反乱を叫ぶ者たちのことではないはずだ。
「言ったはずだ。粛々と進めると」
「これも、ひとつの手段ということか」
「ここへ来たということは、こちら側に用があるのだろう?」
楽しげに“こちら側”と強調してついて来いと合図する。アキラがあの男の元へどうして導こうとするのか解らぬまま行っていいのかと迷うが、ここまで来たら引き返す事等出来ない。
「頭首殿の元へ案内しよう」
誘われるままタキは左の小道へと曲がる。この先になにが待ち受けているのかと不安に思うよりも、ようやく始まるのだという安堵のような気持の方が強くて驚き、またそのことを喜んでいる自分がいるのが恐くて背中が震えた。
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