エピソード12 兄妹喧嘩


 簡単な夕食を作り、片付けまで終えたアゲハは時計へと目を向けた。時刻は十九時を回っており窓の外はすっかり暗くなっている。あちらこちらの部屋にも灯りが控えめに灯り、その下で食事をしたり、共に暮らす者が会話をしたりしているのだろう。

「ホタル遅いな」

 帰りが遅くなる日は必ず朝の内に言づけて出て行くホタルは、今朝なにも言わずにいつも通り笑顔で大学へと出て行った。

 先週末に論文の提出が終わったので、大学のある第二区から第五区にある研究所に移動し熱心に研究しているのだろう。

 そう納得させようとしていても胸の中には次々と悪い想像ばかりが湧いてきてアゲハの心を苛む。家を継ぐのは長男であるホタルで、兄にもしものことがあればどうなるのかと狼狽えている自分がいた。

 アゲハ自身が嫌って捨ててきたはずの家を心配することに矛盾を覚えるが、残される姉と妹を思えばその未来を危ぶむことはそう可笑しいことではないと思う。


 嫌っているのは家であって、兄弟ではないのだから。


 それでも立ち向かわず逃げ出したアゲハには実家を案じることも、兄弟の将来を心配する権利もないだろう。

 今こうしてホタルと何事も無かったように暮らしている浅ましさと、兄の優しさに付け込んで安寧を得ていることへの後ろめたさが常に頭の中に存在することも、自分の弱さの表れのようで嫌気がさす。

 テーブルの上で湯気を立てている食事が冷めて行くのを黙って見ながらアゲハは深く長く嘆息する。

 静かな部屋に気分が更に落ち込むのを感じて、ラジオを着けようかとぼんやりと考えていたら突然隣室から「ふざけんなっ!」という怒鳴り声が聞こえてきた。酷く興奮した声で、それに対してスイの声が反論したが壁を背にしているのか内容までは聞き取れない。

 隣人の兄妹は仲が良く、喧嘩や言い合う姿を今まで見たことが無かった。弟妹を見守り支える長兄タキと、しっかり者で賢い妹スイ、そして兄と妹に頭の上がらない仏頂面の次兄シオ。

 アゲハから見れば理想的とさえ見える絆の深い兄妹に綻びが入り始めているのだとしたら。

「どうしよう」

 声を荒げているシオの様子から只事では無い気がする。放っておいた方が良いのかもしれないが、聞こえてしまった以上知らないふりは出来ない。

 タキはなにかあった時の為にと、合い鍵を渡しておいてくれている。夕方から朝方まで家を空ける自分の代わりに弟妹を見守っていて欲しいと。

 迷ったがアゲハは合い鍵を手にリビングを出て玄関へと走った。扉を開けて急いで部屋に鍵をかけると隣室の扉を叩く。出て来てくれと願ったが、どうやら無視することに決めたらしい。

 応答は無く、重い静けさが扉の向こうから届けられた。

「どうしよう」

 二度目の逡巡の言葉を口にして掌の鍵を見下ろす。銀色の素っ気無い金属の塊はアゲハの体温をじんわりと奪って生温くなっていく。

 これを使用して中へと入れば、シオとスイの間に土足で踏み込むことになる。同意の無い行為は信頼の失脚へと繋がる可能性が高い。


 リスクがありすぎる。


 それでもアゲハの脳裏には最悪の場面が何度も繰り返し映し出され、彼らの尊い絆が些細なことで切れてしまうのではないかと焦りが襲う。

 迷い惑う耳に涙に濡れた悲鳴が聞こえた。

「やめてよっ!なにすんだよ!」

 鉄の扉の向こうから確かに。

 決心して鍵穴に合い鍵を差し込めば、それは簡単に手応え無く回りアゲハに道を作る。あっさりと扉は開かれ、真っ直ぐに伸びた廊下の先のリビングへと飛び込んだ。

 丁度シオがスイの持つ紙を取り上げようと揉み合っている所。

「なに、してるの!?」

 小さなスイと細いながらしっかりと筋肉のついたシオでは勝負は見えている。妹の手首を捻り上げてその手の中から皺くちゃの紙きれを一枚奪うと燃えるような金の瞳で「こんなもん大事に持って帰ってくんじゃねえよ!」と恫喝した。

「ちょっとシオちゃん。女の子にそんな怖い顔して大声出しちゃだめでしょっ」

「シオ!それ、返せ!」

 間に割って入ってシオに注意している横から奪われた紙を追ってスイが手を伸ばしてくる。涙を浮かべた顔は悔しそうに歪み、その瞳も兄に劣らず怒りを猛らせていた。

「スイちゃん、ちょっと落ち着きなさい。ちゃんと話せば」

「部外者は黙ってろ!」

「そうだよ!」

 なんとか宥めようとすれば今度は息の合った調子でアゲハに顔を向けて睨み返してくるのだから困ってしまう。

 考えてみれば兄も姉や妹も性質が優しく譲り合うことばかりでぶつかるといった経験は一度も無く、喧嘩の仲裁もしたことが無い。こんな時どうしたらいいのか全く解らないまま飛び込んできてしまったことにちょっとだけ後悔した。

「ねえ、喧嘩の原因はなんなの?」

「関係ないだろっ!」

「関係なくないでしょう?シオちゃんの怒鳴る声が聞こえたらびっくりするし、もしタキちゃんのいない間になにかあったらって心配するわよ。一応留守の時は二人を頼むって言われてるし」

 鼻息荒く吐き捨てるシオとは逆にアゲハはつとめて柔らかな喋りでゆっくりと語りかけた。

 タキから頼むと言われているのだと伝えれば、それ以上シオが反抗できないのは解っている。

 案の定嫌がるように顔を顰めて横を向き、口を尖らせてスイから取り上げた紙を床に叩きつけた。

 息を飲むような気配と共にさっと飛びついて紙を拾うとスイは鼻を啜って俯く。

「スイちゃん、それ見せてくれる?」

「やだ」

「スイちゃん」

 頭を振って拒絶するスイの姿を兄であるシオがちらりと一瞥して頬を歪めた。そしてそれがテロリストの撒いたビラだと暴露して、忌々しげに己の茶色の髪を掻き乱す。

「本当なの?スイちゃん。本当ならどうしてそんなものを持って帰ってきたの?」

 ビラを拾って持ち帰るなど正気の沙汰では無い。知らずに持っていても治安維持隊に見つかればいらぬ詮索をされ、保安部に知られれば反乱の意思ありと即捕縛される。

 興味本位で手にして知らなかったのだ、ではすまされないことが解らぬほどスイは愚かでは無い。

 何か理由があるのかと問うてみれば「蓮の花が綺麗だったから」とか細い声で呟いた。

「蓮の花」

 汚れた水の中から美しい花を咲かせる姿を、自らの姿に重ねて革命を成そうとする象徴に掲げているのだろう。

 白や、淡紅色の花弁が幾重にも重なる大きな蓮の花は夏の日に咲き力強く在る。

 そうありたいと願うテロリストの気持ちを、スイは綺麗だと惹かれたのか。

「スイちゃん。これを持っていたらどうなるか解るわね?どう思われるかも」

 小さく首肯したスイは手の中の紙をゆっくりと広げて、目を奪われたのだという蓮の花のイラストを見下ろす。

 一番目を引く中央にイラストを載せ、カルディア地区に住む富裕層の無尽蔵な欲の深さを批判し、己の利益ばかりを求める財閥を責め、情報統制をして国民を無気力にした保安部を糾弾し、正義を失った治安維持隊と軍への失望と、豊かな者ばかりが得をする法を作り国民を苦しめる為政者に怒りを、死せる海と砂漠を生み出した諸悪の根源である総統の罪をあげつらう文章がつらつらと書かれている。

「解ってるくせに、こんなもん持って帰ってきやがって」

「シオだって!最近如何わしい本見てるだろ!」

 舌打ちで吐き出された言葉にスイが弾かれたように反論した。「それは!」言い返そうと口を開いたシオにアゲハはゆっくりと視線を向ける。

「シオちゃん、この前その話したと思うけど」

「関係な、」

「あるから。出して」

 最後まで言わせずに掌を突き出して催促すると、苛々と視線を彷徨わせていたがアゲハが引かないと察したのか、壁側に置かれたソファーに乱暴な足取りで近づきそこに置かれていた仕事用の鞄の中から薄い冊子を取り出す。

 表紙を暫し眺めてからアゲハの足元に向けて放り出すと、鞄を背負ってリビングを足早に出る。そのまま玄関から出て行く音がして、スイが青い顔で入口まで進むがそこで足を止めて再び俯いた。

 その小さな背中が心細そうでアゲハの胸が苦しくなる。

「ホタルがいればよかった」

 基本的に他人には無関心のシオにはアゲハがなにを言っても届かない。タキから信頼されているホタルの言葉ならば少しは聞く耳を持ったかもしれなかったのに。

 引き止めることも、話しを聞くことも出来なかった。

「春風」

 拾い上げた冊子のタイトルは字面だけで見れば爽やかだが、表紙に書かれた煽り文句は“括目して真実を求めよ!”だったので内容を読まずとも過激な冊子であることは間違いない。

 この冊子もスイが持っていたビラも持っているだけで身を危うくする物だ。

 必死にここまで生きてきた用心深いはずの兄妹の所にまで反乱や革命を仄めかし、唆す思想が入り込んでくるほどまでにこの国の病魔は末期状態へと至っているのか。

「ごめんなさい」

 項垂れたスイの細い項が頼りなく、微かに震える肩が彼女の悲しみを伝えてくる。謝罪は兄に対しての物なのに、それを受け取る相手はここにはいない。

「スイちゃん」

 呼びかければ小さく首を横に振って「ごめんなさい」とまた繰り返す。泣き顔を見られたくないのだと拒まれたアゲハはそれでも放っておくことができずに「ご飯は食べたの?」となんとなく尋ねてみれば再び首は左右に振れる。

「私もまだなんだけど、良かったら一緒に食べない?」

 誘えば迷うように固まり、それでも空腹には勝てないのか小さく頷いて。

「顔を洗って直ぐに来て。温めて待ってるから」

「ありがと、アゲハ」

 横を通り過ぎる時に聞こえるかどうかの声がスイから届けられ、それだけで報われた気がした。

「どういたしまして」

 礼を言われるほどのことは何もしていないが、これから彼らにどう接し向き合って行くかが問題なのだと、アゲハは道を間違えないように心して進もうと気を引き締めることにした。

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