エピソード08 革命の花


 退屈な授業終了の鐘が鳴り響き、スイは急いで帰り支度を整えた。解放されたことから突然騒がしくなった教室の中でそれぞれ仲の良い者同士が寄り集まり他愛のない会話を交わす。

 どこそこのお菓子が美味しいだの、お父様に連れて行ってもらったレストランの料理が美味しかったとか、贈り物のネックレスや許嫁の自慢。貴女の着ているワンピースとても素敵ね、どこで買ったの?なんて空々しい会話。


 聞いていて虫唾が走る。


 鞄を背負いスイはむかつく胸を意識しながら扉へと向かった。

「見なさいよ。あの服」

「とてもじゃないけれど、外で着るような物とは思えないわね」

「ちゃんと洗濯してあるのかしら?」

「無理じゃないの?統制地区の子よ」

 くすくすと聞こえよがしに囁かれる言葉と嘲笑。金持ちとは金だけでなく、暇も持て余しているらしい。

 金はあっても人間性も品位の欠片も無いような人間と、仲良くしようなどとは思えなかった。嫌味を言われ、陰口を叩かれ、時には面と向かって嫌がらせをされる。見えない所で暴力を振るわれることもあった。

 それでも。

 悔しい気持ちや、怒りをキャンバスに向って吐き出せばそれは芸術へと昇華する。形にならない思いや痛みも全てぶつけて、色鮮やかな絵にするのだ。

 一枚の絵が完成した時に感じる達成感と、挑んでいる時のなににも束縛されない自由さにスイは魅了され何度でも絵筆を取る。

 色を重ねて、思いを込めて、魂すら練り込んで。

「君の描く絵はまるでこちらに迫ってくるような荒ぶる力を感じるよ」

 絵の講師がそう評価するのは原動力が負の感情だからかもしれない。もっと明るく楽しい気持ちで描ければ違う絵が描けるのではないかとは思うが、今のスイには乱暴な嵐のような絵しか生み出せないのだ。

 子供の頃、紙も鉛筆すら無かった孤児院での暮らしの中でスイは地面に枝を使って沢山の絵を描いた。殆どが兄と世話をしてくれたミヤマで、それ以外は目の前にある建物や畑の野菜とかばかりだったけれど楽しかったのを覚えている。

 今は苦しい。

 スイに画才が無ければ兄たちは学校へと通わせようとは思わなかっただろう。今頃何かの仕事をして働いて、同じ職場の人の中で気の合う人と友達になって――。


 虚しすぎる。


 もしもなんて想像するのは敗北感を味わうだけ。なんの意味も無いこと。

 この学校に通うことを望んだのは兄の意思だけでは無く、絵を描く仕事を将来したいとスイが無邪気に夢を抱いたからだ。

 だから今更辞めたいなどと言えないし、描くことを止めることもできない。

 教室を出れば耳障りな声も視線も無くなり、校門を潜って街へと出てしまえば姦しい有象無象も消えて肩から力が抜けて行く。鬱陶しいだけの人の気配も、汚れて重い空気も底意地の悪い学徒たちに比べれば感じが良い。

 真っ直ぐ地下鉄へと向かいながら歩いていると、数日前に治安維持隊に追われていた男に銃を突き付けられた辺りに人垣ができているのが見えた。軍が駐在しているゲートが近くにあるので、なんらかの事件や事故だけでなく今では無闇に人が集まっているだけでも取り締まりの対象になるのになにごとだろうか。

 好奇心が湧くがこの前のことがあるので遠巻きにしながら地下鉄の階段を下る。スイ同様危うきに近寄らずと早足でホームへと駆けこんで行く人もやはり多かった。

「なに?」

 ひらりと階段の上から一枚の紙がスイの丁度足元に狙い澄ましたかのように舞い降りる。一番目につく真ん中に綺麗な蓮の花の絵が描かれていて、思わず足を止めて右手を伸ばした。

 安っぽい手触りの紙はザラザラとしていて爪の先が引っ掛かる。拾い上げ眺めた所でスイは間違いを犯したことに気付いた。

 腰の辺りに硬い物が当てられ身体が硬直する。この感触はつい最近味わった物と同じ物。そして「そんなもの持ってると保安部に連行されるぞ」と低い笑い声と共に背後から聞こえる嫌な声。

「冗談じゃない。こんなもの」

「おいおい。捨てんなよ。折角おれたちが苦労して作ったビラだぜ」

 くしゃりと握り締めてスイが指から力を抜こうとしたのを見て男は強く銃口を押し付けて留める。一度ならず二度までも同じ男に背後を取られて、銃で脅される屈辱に唇の内側を噛んで己の軽率さを呪う。

 地上の人垣は国に反発する者が賛同者を集う為の物だったのだ。そしてそこで配られ、道にばらまかれているのはスイが今手にしている蓮の絵の描かれたビラ。

「あんたやっぱりテロリストだったのか」

「そんな安っぽい名前で呼ばれたくないけどな。さあ、もうすぐ電車が来る。こんな所で突っ立ってたら怪しまれるからな。行けよ」

 促されるまま歩を進めて行くが、誰もスイの後ろにぴったりとついて歩く男を気にも留めない。厄介事に巻き込まれるのは御免だとみんなが思っている。スイとて当事者でなければ黙って見て見ぬふりを決め込むだろう。

 助けてくれないからと言って責めることは出来ない。

 ホームでは二十人ほどが電車を待っていて、それぞれが何処でもない場所をぼんやりと見つめて立っている。男が先頭車両に乗り込めと指示するのでスイは黙ってホームの一番端へと向かった。

 誰も好き好んで人気が無い上に一番遠い場所から電車に乗ろうなどとは思わない。できれば改札に近い方を選んで乗り込む。

 今もスイと男だけがそこに立ち到着を待つ。


 何故こんなことに。


 現状を受け入れられずに浮かぶ感情は疑問と戸惑いだ。恐怖よりも憤慨や怒りが強いのは、背後の男が銃を撃つ気配が希薄だからかもしれない。

 殺すつもりならとっくにそうしているだろう。

 この前男を刺した仕返しに来たのか、それとも勧誘か。

 どちらにせよ大人しく従うつもりはない。

「肝が据わってんな」

 クッと喉の奥で笑い男は押し付けていた銃を下したがスイが逃げないように肘を掴む。細い腕は男の大きな掌にすっぽりと収まってしまう。たいした力を籠められていないのに、振り払えず悔し紛れに男の顔を拝んでやろうと身を捩って睨み上げた。

 そこには伸ばしっぱなしの黒い髪と一重の青い瞳をした意外にも若い男の顔があった。端を持ち上げて皮肉気に笑うその薄い唇の向こうから見える鋭い犬歯と、つり上がった目尻が相まって人相は悪い。

 黒いTシャツにアイボリー色のチノパンを穿いている姿はその辺をたむろするチンピラのようにしか見えなかった。

 真剣に国を糾弾しようとしている人間には思えない。

「この前の仕返しに来たのなら、随分人間ができてないね」

 スイのナイフがつけた傷などたいした怪我では無かっただろう。実際に地下鉄へと逃げた足取りに危なっかしさは微塵も感じられず、血の一滴も道には落ちていなかったのだから。

「仕返し?なんでだよ?」

 男が不思議そうな顔で首を傾げるのとそう変わらないタイミングで轟音と風を巻き上げて電車が到着した。

 耳を覆いたくなるようなブレーキの音を響かせて停車位置より手前で停まる。二人が立っている場所より随分改札寄りで、男が舌打ちしてスイを引きずるようにして入口へと向かった。

 乗り込んだ車両には誰もおらず、分厚い防弾ガラスの向こうの運転席に眠たそうな顔をした運転手の男が座っていた。

 空気の抜けるような音と共にドアが閉まる。

 ガタンっと揺れた後徐々に加速して行く電車の窓には黒に塗りつぶされた世界が広がる。

「お前、名前は」

 座席へと座らせながらスイに名前を問う。それに「答える必要ない」と返せば、男は眉を跳ね上げて不快感を顕にしたが無理に聞こうとはしなかった。

「おれが仕返しに来たと思ったのか?」

「逆にそれ以外になんかある?」

「あるだろ、色々」

「悪いけど思いつかない」

 不毛な会話に辟易してスイはそっぽを向いた。

 男が右隣に腰を下ろして「あーあ」と嘆息すると、通路に両足を投げ出して不貞腐れたような顔をする。

「なんで逃がしてくれたのか聞きたかっただけだ」

 首を竦めて肩に埋もれるようにして呟いた男の横顔をスイは驚いて眺めた。下唇を突き出し青い瞳を床に向けてスイの返答を待っている。

「別に、あんたが逃げるのに協力したつもりは無かったんだけど」

 頬を指で掻いて視線を正面の窓へと向けた。そこには並んで座るスイと男の姿が映っていて、まるで知らない他人のはずなのに昔からの知り合いのような自然さでそこに存在している。

 視線を合わせているわけでも無く、ただ隣り合わせで座っているだけなのに。

「あの時、治安維持隊の奴ら人質に弾が当たっても別に構わないって魂胆が見え見えだったから」

 腹が立って。

 スイはわざと治安維持隊が向けていた男への銃弾の軌道を遮るように動いた。そのことに男が気付いているとは思っていなかったが、その隙に逃げ出してくれればとは思っていた。目の前で複数の銃弾を浴びた死体を見るのは気分が悪かったという理由だけだ。深い意味も意図も無い。

 その後は男を追うだろう治安維持隊がスイの学校の鞄に気付くように見せつけて、ひとり位は追っ手を減らせればと思っていたが結局は三人とも残って送ってくれた。

 たったそれだけのことだ。

「あいつらがお前に向かって撃つかも知れないって思わなかったのか?」

「あの時は人通りの多い時間帯で、人質が逃げようとしているのに維持隊が撃てば少なからず見てる人たちは反感を覚える。今はテロ活動が盛んで、国に不満を持っている人たちも多いから。あそこで無暗に発砲して罪もない子供を殺したらどうなるか解らないほど軍の人間もバカじゃない」

「そうか」

 男は短い言葉で応じて、その顔に満足そうな表情を浮かべた。

 なんだか面白くなくて手の中のビラを見下ろす。

 泥水の中から綺麗な花を咲かせる蓮の花。この腐敗したスィール国の土壌から栄養を吸い取って開花するのは革命の花か。

 革命の象徴にするには美しすぎる気がする。

「ありきたりだ」

 それでもスイの目を奪った幾重も重なった花びらを持つ蓮の花は確かな力を秘めているのだ。

 駅が近づく。

 スイは立ち上がってドアの前へと移動するが、男は引き止めも立ち上がろうともしなかった。眩い光が右手側から迫って来て目の前に溢れる。

 甲高いブレーキの音。

 ドアが開いて喉を刺激する空気が動く。スイはホームへと下りて数歩進んで、背後で電車が発車したのを聞きながら何故か手の中の紙を捨てられずにポケットの中へと捻じ込んだ。

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