エピソード07 詮索


 シオは寝転んでいたソファーの上で身を起こして大きな欠伸をひとつする。静かなのはリビングだけでなく、どの部屋にも他に気配も音も無かった。

 ベランダにかけられた薄いカーテンは陽射しを遮るためでなく、人目を避けるためだけにかけられている。居住区である第四区は十階建てのアパートが無数に建ち並んでおり、ベランダで世間を眺めていれば余所の部屋の中が見えることもしばしばあった。

「何時だ?」

 今日の配達は午後からなので時間的余裕はあるが、ホタルの方にはそんな暇は無いはずだ。のっそりとソファーから降り、髪を掻きまわしてもう一度欠伸をする。

 鍵を手に玄関へと向かうと丁度向こうから鍵を差し入れて回す音がした。

「おはよう、タキ」

 ノブが回される前にこちらから開けて挨拶すると兄は呆れたような表情を浮かべる。朝方帰って来たはずのタキはこれからベッドで眠るのだろうが、疲れなど微塵も感じさせない。港に運ばれる荷は大きく、また重い。それを降ろしたり、乗せたりする仕事は体力的には一番辛いとされる。ただでさえ外仕事は汚染された空気に晒され、夜は寒く昼は熱い。

 今でも十分過酷な労働をしているはずなのに、兄はスイやシオが止めなければもうひとつ仕事を増やしても良いとまで思っているらしい。

 いつまで身体を張って弟妹を護り、生活を支えようとするのか。

 あんまり無理すんな――そんな言葉を何度も口にし、そして言えずに飲み込んだか。

「ホタルが困ってたぞ。早く行って食べてこい」

「言われなくても、今行くとこだよ」

 そのままタキの横を擦り抜けて出て行こうとしたが、腕を掴まれて止められた。なんだと振り返れば「顔を洗ってから行け」と注意される。

「別に構わないだろ?顔ぐらい洗わなくても死にはしないし」

「最低限のマナーだ」

「マナーね。随分ホタルに感化されたな」

 行儀や礼儀を学ぶ機会などこれまで無く、そんなことを気にしなくても済む毎日を過ごしてきた。ダウンタウンで必要なのはその日を生き抜く強かさと、不屈の闘志のみ。

 優しさや思いやりで生きて行けるほど生温い世界では無い。

「悪いか?」

 タキが金の瞳を翳らせてシオの意思を問う。

 強引に自分の想いを押し付けることをしない兄はこうしてちゃんと是非を問うてくれる。だから安心してついて行けるのだ。

 兄の後を。

「いいや。でも時間が無いのに顔を洗う必要性を感じないから、このまま行く。飯食べるだけだし」

 掴まれていない方の腕を伸ばしてタキの堅い肩に拳をこつんと当てた。そうすると兄の手はやんわりと離れて行く。そして薄い笑みを浮かべてタキが左の拳をシオの肩にぶつけ返す。


 いつもの挨拶。


 タキが寝ている内にシオが仕事へと出ることが多く、シオが起きる頃に帰ってくるタキとは朝食時にしか顔を会わせることができなかった。

 最近交わす言葉も少なく共に居られる時間も限られているが、同じ場所を見て同じものを望んでいるという感覚は少しも揺るがない。

 確かな自信。

「おやすみ、タキ」

 最初に口にした言葉とは真逆の言葉で擦れ違いシオは通路に出る。追ってくる柔らかな視線を背中で受けながら隣家の扉を叩けば「開いてるぞ」とタキが残して自宅の扉が閉められた。鍵がかけられる音を聞きながら、鍵のかかっていない扉を開けて中に入るとしっかりと施錠する。

「遅い、シオ」

 出かける支度を整えたホタルがリビングの入り口から顔を覗かせ、罰として食べた食器は自分で洗って片づけることと言いながら廊下を足早にやって来た。

 いつも涼しげな顔をしているホタルの顔を横目で見ながら首肯して、そのままリビングへと向かう。擦れ違った時に香った清潔な匂いに知らず内に口元が歪んだ。

 自分たちと変わらない部屋に住み、同じような生活をしているのにホタルからは暑苦しさや汗臭さのような物が一切感じられない。いつも凛と佇み、清浄な中で生きている印象を与える。

 それは育った環境が違うからなのか、元々持って生まれた特性なのか解らないが、人種が違うのだと言葉より雄弁に伝えてくる空気感が自然とシオに嘲りの笑みを浮かべさせるのだ。

「そうだ、タキが心配してたよ」

 リビングを前に届けられた声に歩を止めて振り返る。タキが心配することとは一体何かと目で問えば「最近珍しく熱心に本見てるって」と告げられ、無意識で首をシオは振っていた。

「心配するようなことはなにもない」

「本当に?」

 視線に少しの険を含んで確認してくるホタルに深く頷いて見せる。

「どこにでも転がってるような、雑誌の類いだって。誰でも読んでるだろ?そんなの」

「それなら、構わないけど。あんまりタキを心配させないようにね」

「おれの心配より自分の弟の心配をしてろよ」

 目を軽く瞠ってから眉を下げて微笑むとアゲハのことはアゲハに任せてるから大丈夫だと顎を振って鍵を開ける。

 それは放任でも無関心からくる発言でもないことを、ホタルとの二年間の付き合いの中から学んでいた。信頼しているから心配していないと同義語だ。

 シオたち兄弟とはまた違う形で彼らは深く繋がった兄弟なのだと見ていて解る。

「いってきます」

 軽やかな足取りで扉を出て行くホタルに「ああ」とだけ応えて見送らずにリビングへと入った。

 すっかり陽が昇ったリビングには燦々と光が溢れて、カーテンの開けられた部屋は眩しいほどだ。目の奥が痛いほどの白色にシオは急いでベランダを背にして座る席に座った。

 用意されていたトーストにはなにも塗られてはおらず、テーブルの上にはチョコレート味とイチゴ味のジャムが並んで置かれていた。迷わずチョコ味を掴んでスプーンで掬いパンに塗りたくっていると忍び笑いが聞こえて来たので軽く睨んだ。

「ごめん、ごめん。つい可愛くて」

 キッチンで鍋の中身を温めていたアゲハが顔を背けて笑いを噛み殺そうと無駄な努力していた。真っ直ぐで長い髪を後ろで束ねて、ゆったりとしたスウェットの上着を身に着けた姿は美しい顔立ちのせいでどこか女性的に見える。

 喋り方も女言葉でシオには気味悪く感じた。

 何を考えているのかいまいちよく解らない掴み所の無さと、こうしてシオを可愛いと言って笑う所が苛々する。

 視線を逸らしてさっさと食事を済ませてしまおうと口と手を動かしていると、ガスを止めてアゲハが更に野菜たっぷりのスープを持ってきてくれた。黙って受け取り甘いパンを食べ終え、チョコレートのついたスプーンを舐めて綺麗にしてからそれで野菜を口に運ぶ。

「シオちゃんは本当に野生児みたいね」

 無視して食べながら心の中では野生児ならばスプーンなど使わずに手づかみで食べるだろうと毒づく。温められたスープを流石に手づかみで食べる野生児もいないとは思うが、スプーンを使うだけまだましだろう。

「野生児というよりはなかなか懐かない野良猫の方が近いかな」

 なんの反応も見せずにいても屈託ない笑顔で話しかけてくるその神経が理解できない。全身で放っておいてくれと言っているにもかかわらず、全く意に介せず構ってくる相手にシオはどう対応すればいいのか困ってしまう。

「今日は外出を控えた方が良いレベルの濃度らしいから、気を付けてって言ってもどうしようもないんだけどさ」

「防護マスクなんか着けてたら息苦しくて逆に死んじまう」

 この兄弟はどうして他人であるシオの心配などするのか。ホタルの呆れるぐらいの人の良さも、突き放しても近づいて来るアゲハのお節介も、ダウンタウンはおろかこの統制地区でも珍しいほどの希少な人種だ。

 ましてや強欲に塗れたカルディア地区の人間の中でも珍しい部類だろう。

「着けたら死んじゃうんだったら、着けなさいなんて言えないわね」

 苦笑いしたアゲハに解ったのなら黙っておけと鼻で笑うと、何故かその綺麗なコバルトブルーの瞳に真剣な色を滲ませて「ねえ」と呼びかけてきた。

 視線を皿に戻して最後の人参を掬い上げて口へと放り入れる。

「なにを読んでるの?」

 固い声に懸念の響きが込められていた。質問に答えぬまま皿を両手で支えて持ち上げると残りの汁を一気に胃の中へと流し込む。

 答える必要はない。

 両家の間には答えたくなければ答えなくてもいいという決まりがあるのだから。

「シオちゃん」

 何故かアゲハはしつこく答えろとテーブルの上に両手を着いて身を乗り出してくる。

「ホタルに言ったのを聞いてただろ?」

 玄関に立つホタルとリビングの入り口で喋っていた声が、リビングにいたアゲハに聞こえないわけがない。それなのにこうして問い詰めてくるということは、シオが答えた内容を信じていないということだ。

「雑誌の種類も色々あるから、それを聞いてるの」

「関係ないだろ」

「あるわよっ。友達が道を踏み外しそうになってるのに、それを黙って見ているなんて私にはできない」

「勝手に決めんな!」

 友達とか、踏み外しそうだとかアゲハがひとりで勝手に思い込んでいるだけだ。勝手に心配して、勝手に期待して、勝手に近づいてきて。

 そういうのは迷惑でしかない。

「信じるか信じないかはあんたの勝手だが、心配するならおれじゃなく自分と兄貴の心配をしろよ」

 アゲハがシオのなにを解っているというのだ。

 この明日があるかも解らない不確かな世界で、寄り添い信じられるのは自分と兄妹だけ。

 ホタルやアゲハのような善人は裏切られ、傷つくだけなのに。

「いつか後悔する」

 優しさなど生きて行くうえで邪魔で、思いやりは利用される。奪われて、踏み躙られて苦しむ姿を見て誰も同情して手を差し伸ばしてはくれないのだから。

 そんな国にしたのはカルディア地区に住む為政者と軍を率いる者たちと、そしてその頂点に君臨する総統だ。そこに連なる者としてホタルやアゲハがその報いを受けたとしても文句は言えないだろう。

「個人的にあんたたちに恨みは無いが」

「シオちゃん!」

 震える声がそれ以上は聞きたくないと拒絶する。

「ま、おれには関係ないけど」

 タキは気にするだろう。

 ホタルやアゲハが傷つくこと、後悔することになることを。

 がたりと音を鳴らして椅子から立ち上がりシオは食器を片づけてキッチンへと移動する。ホタルから頼まれた通り桶の中に張られた貴重な水を使って手早く洗い、白い布巾で吹き上げるとカウンターの上に置く。

 アゲハのなにかを堪えるように強張った背中をちらりと一瞥して、シオはさっさと立ち去った。

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