エピソード06 完全な逃避


 ホタルは最上階までの道程である長く険しい階段を上りながら眼鏡を外して眉間を強く押し揉んだ。論文は今週までの締め切りで後三日ほどしか猶予は無いが、送電が終わる前には帰宅しなければならないので早々に切り上げて帰宅した。

 慌てて帰ろうとしているホタルをミヅキが「実家の方に帰れば幾らでも論文を仕上げられるだろうに」とからかい、彼は迎えの待つゲートの方へと手を振って去って行く。

 彼もまたホタル同様カルディア地区に実家があり、毎日そこから通ってきている学生だ。時間との勝負である統制地区とは違い、送電が切られることが無いカルディアならばパソコンを使っての論文作成は容易である。

 それでもホタルの帰るべき場所はそちらではなく、今は弟アゲハのいる第四区にある十階建てのアパートの方だった。


 完全なる逃避。


 そんなことは解りきっている。

 解ってはいても心の中に生まれた疑問や矛盾を押し殺して飲みこみ、黙って父の言いなりになることは我慢できなかった。

 アゲハの方がずっとホタルより沢山の物が見え、持って生まれた聡明さと感受性の高さのせいで、小さい頃から苦しんでいたのだと知ったのは弟が家を出てから二年程経った頃。

 いつもと変わらず朝学校へと登校したのを最後に、姿を消したのはアゲハが十五の時だった。ホタルはその時十七歳。登校してきたはずのアゲハがいないと教師が困惑気味にホタルへと声をかけ、弟が行きそうな場所を問われたが心当たりがなく正直にそう答えた。

 軍の中央参謀部に所属する父の身分は高く、その息子が行方知れずとなれば大事件になる。学校の役員、校長、教師を含めて授業を放棄しその捜索へと当たったが、アゲハは見つからなかった。

 教育施設の集う第二区も、その隣に位置する商業施設の建ち並ぶ賑やかな第三区にも手を広げたが、手がかりひとつ掴むことが出来なかったのだ。

 アゲハの自室から家出を仄めかす手紙が見つかり、学校に落ち度はなかったことを知るとあからさまにほっとし、通常業務へと戻った。


 ――何故家出なんかを?


 綺麗に片づけられたアゲハの部屋をぼんやりと眺めて、理解できない弟の行動を受け入れられずにいた。何度も読み返した手紙にはこの国への疑問と批判、父への不満と憤り、見捨てられた人々への思いが綴られて、最後はアゲハが抱える悲しみと苦しみで締めくくられていて。

 ホタルは現状への不満も疑問も抱かず、これまで生きてきた。

 なに不自由ない暮らしの中で、父が望むまま、導くままに進むことをよしとしていた。


 全てを捨てて家を出るなど愚かだと思っていたのだ。


 知らずにいたから。

 なにも。


 愚かだったのはアゲハでは無くホタル自身。


 真実を知った時、漸く出て行ったアゲハの気持ちが解った。

 謝りたいと心から願ったが父の中で完全に斬り捨てられた弟の所在を探して欲しいと蒸し返すことは出来ず、ホタルは研究が忙しくなってきたのを理由に統制地区でアパートを借りることを赦して貰った。

 ただひたすら贖罪の為に水質浄化の研究に没頭する日々の中で、アゲハと再会できたのは奇跡に等しい。

 その奇跡をホタルは感謝し、弟に謝罪し、一緒に暮らそうと泣きついたのだ。

 勿論このことは父には内緒である。

 知られればアパートは解約され、アゲハと二度と会えぬように手を回されてしまう。

「ただいま」

 鍵を開けて部屋へと滑り込み、再び鍵をかけてチェーンをかける。リビングの灯りが点いているのでアゲハはそこに居るようだ。微かに聞こえるラジオの音。流れてくるのは心地良い音楽では無く、テロ行為が頻発しており保安部の取り締まりが強化されるという内容だった。

「お帰り、ホタル」

 浮かない顔で聞いていたアゲハは座っていた椅子から立ち上がり、ラジオが置いてあるカウンターへ手を伸ばして電源を切った。余韻も無くぶつりと途絶えた音を惜しむように小さな赤いラジオを見下ろし嘆息する。

「ご飯は食べた?まだなら、なにか作るけど」

 鞄を床に置き上着を脱いでキッチンへ立つと小さな冷蔵庫を開ける。夜中は送電が止まるのでたいしたものは入っていないが、独り暮らしが二年も経てばあり合わせの物で手早く調理できるようにはなるものだ。

「今日はスイちゃんとシオちゃんと一緒に夕飯食べた」

「そっか」

 時間も遅いので胃に負担のかからない物を作ろう。そう決めてホタルは人参とキャベツ、玉葱、じゃがいもを取り出して火の通りやすいように小さめに切る。片手鍋にペットボトルの水とキャベツ以外の野菜一緒にいれて火にかけた。

「それでねー。ちょっとこれ見てよ。ひどくない?」

 肩を叩いてホタルの注意を引き、目の前に差し出したノートの切れ端の真ん中を指差す。そこには三角形を逆にした形の中に点が二つ、その下に小さな四角形が書かれていた。更に逆三角形の端からそれぞれ二本細長い線が伸び、下向きの尖った部分に横長の円が重なりそこから線が四本出ている。

「………………これは?」

「シオ画伯の描いた兎だって。有り得無いでしょう?とてもスイちゃんと同じ血が流れているとは思えないんだけど!」

 ぷぷっと吹き出してアゲハは楽しげに同意を求めてくる。だがホタルはこれと似た絵を見たことがあるので苦笑しながら鍋に固形スープを投げ入れてお玉で混ぜた。

「スイちゃんの描く絵とは似ても似つかないけど、タキの落書きとは同レベルだよ」

「そうなの!?」

「残念なぐらいに画才が無いね。タキもシオも」

 タキの絵も見てみたいなぁと言いながらアゲハは大切な物のようにその紙を折り畳み、いつも持ち歩いている手帳にそれを挟む。

 どうやら廃棄せずに保管するようだ。

「それ、シオが知ったら烈火の如く怒ると思うけど?」

 一応は忠告するが「いいじゃない」と革でできている手帳の表紙を撫でて眉を下げる。

「これを見たらどんなに悲しくても、気分が塞がってても元気になれるんだから。スイちゃんのとは違った意味で凄い絵なのよ」

「そういう意図で描いてないと思うけど」

「いいの。芸術っていうのは受け取る側の気持ちの方が重要なんだから」

「そういわれたら返す言葉も無いけどさ」

 だから黙っててねと念を押して、アゲハは取り上げられては大変だと手帳を抱えて自分の部屋へと入って行く。その背中に「おやすみ、アゲハ」と声をかければ「おやすみ、ホタル」と当たり前に返ってくることが嬉しくて。

 閉じられたドアの音を聞いてからホタルはさっきまでアゲハが聞いていたラジオのスイッチを入れた。

 トーンの暗かったさっきまでとは全く違う軽快な音楽が、前向きなメッセージを乗せて運んでくる。その落差に取り残されたような気分がして、沸騰している鍋を前に唖然としてしまう。


 保安部の取り締まりが強化される。


 それは今まで以上に行動や言葉に注意しなくてはならないことを意味している。迂闊なことを口走れば逮捕され、怪しげな行動をすれば連行された上に拷問を課せられるのだ。

 また生き辛くなる。

 そうまでして押さえつけることになんの意味がある?

 今でも十分市民は我慢し、鬱屈を抱えているのに。


 まるで爆発するのを待っているかのようだ――。


 民の暴動を抑えようとしているのか、それとも煽っているのか。

 ホタルには解らないがアゲハには解るのかもしれない。


 だからこそあんなに辛そうな表情でラジオから流れるニュースを聞いていたのだ。


「悲しくても、気が塞いでいても」

 どこにいてもきっとアゲハはこの国を憂い、疑問視し、批判し、憤って苦しむ。


 聡すぎて。

 繊細過ぎて。

 傷つきやすい。


「どうしたら」

 答えなどとうに出ている。

 でもそれを選択するのは許されない。

 ホタルにもその勇気はないから。

「ごめん、アゲハ」

 もう何度目になるのか解らない謝罪を呟いて、ホタルは少しも共感できない浮ついた歌を断ち切る様にラジオを消した。





「シオはまだ寝てるのかな?」

 行ってきますと元気な声でスイが学校へと出かけてから三十分ほど経過したが、タキの弟のシオはまだ壁向こうの隣室で惰眠を貪っているらしい。

 アゲハとスイ、タキに朝食を提供してから食べ始めるホタルでさえも食べ終わり皿を片付け始めていた。いつもなら妹が鞄を掴んで家を出たのを見計らったかのように起きてくるが、今日は随分とのんびりしている。

「そろそろ起きて片付けて貰わないと困るんだけど」

「最近珍しくどこかからか貰って来たのか、拾ってきたのか解らない冊子を読んでて、頭使ってるみたいだから知恵熱かもな」

 銜えていた煙草を指で掴んで煙を吐き出し、その後でタキが眉間に皺を寄せて思案気な顔をする。

「どうしたの?シオがなにかを学ぼうとするのが恐い?それとも競争心?」

 安い茶葉で淹れた紅茶はそれなりの味しかしないが、人工的につけられた匂いは甘くフルーティーな香りがした。カップの底に沈んでいる茶葉の滓を見ながらタキがなにを心配しているのかと苦笑する。

 タキは再度煙草を銜えてゆっくりと吸い込んでから頭を振った。その拍子に燃え尽きた灰がテーブルの上へと落ちる。

「タキちゃん、テーブルマナーに煩い人から睨まれるから火消しなよ」

 すかさずアゲハがカウンターのラジオの横に置いてあった灰皿を掴んで差し出す。ホタルを横目で見てクスリと笑うので、確かに小言を言おうかと思っていたからそのまま口に紅茶を流し込んだ。

 素直に煙草を揉み消してタキはベランダの方へと視線を投げる。

 そこにはいつもどおり汚れた空気と白々とした空が広がっていた。今日は南からの風が強く砂漠の砂を巻き上げて統制地区まで運んでいる。

「長時間の外出は避けた方が良いみたいだね」

「そうだな」

 朝一番のラジオの気象情報でも外出は控えるようにと言っていた。だがそんなことを言っていては生活ができない。特に外で身体を使って働くような職種のタキやシオのような者たちには、汚染濃度の高い空気だろうが、身体に害のある化学物質を含んだ雨が降ろうが関係は無い。

 金を稼ぐために、食べるために、身を粉にして働く。

「そういえば、昨日シオの描いた絵をアゲハから見せて貰ったんだけど。タキといい勝負だったよ」

 重くなった雰囲気を変えようとホタルは昨夜の絵の話題を振る。嫌な記憶を思い出したのか、途端にタキは渋面になった。

「スイちゃんの絵の才能はどこから来たんだろうね?タキとシオの絵を見れば二人の遺伝子が同じだって証明は簡単にできるけど」

「さあな。もしかしたら父親の方から受け継いだのかもしれない」

「あら?お父さんは絵描きさんだったの?」

 アゲハも興味津々で会話に参加してくる。タキの口から兄弟以外の話が出されるのは初めてかもしれない。

 一応表情を慎重に窺い見ながら、この話題についての着地点を見極める。

 お互いに話したがらないことを無理に聞かない、という暗黙のルールがタキたち兄弟とホタルたちの間にはあった。

「父親の顔は見たことも無い。話も聞いたことないが、絵描きのはずはないだろう。そんな高尚な趣味を持っているような男が父親であるわけもないしな」

 整った男らしい顔立ちをしているタキは、年齢よりも上に見られるがホタルと一歳しか変わらない。ひとつ上のタキの持つ落ち着いた雰囲気や、筋肉のしっかりとついた身体、力強い金の瞳、弟妹を導く姿勢――そのどれもが憧れを抱くにふさわしい物だ。

 羨ましいと思うホタルの脆弱な肉体と精神が恨めしい。

「むしろ全員同じ父親かどうかも疑わしいだろう」

 伏せられた睫毛の下で珍しく金の眼が揺れている。

 ちらりとアゲハに視線をやれば同様に驚いている顔に出会う。

 デリケートな話題なだけに詮索するのも気が咎めるが、どうやら顔も所在も知らない父親について少なからず悩みがあるらしいことは確かだ。

 悩みというよりも些細な気がかり、といった方が良いのかもしれないが。

「タキのお母さんは金の目をしてた?」

 父のことでは無く母のことを聞かれたので不思議そうに首を傾げながら「いや、母親は薄い茶色だった」と返す。

「それがどうした?」

「どうしたって、タキちゃん」

 話を聞いていたアゲハがくしゃりと破顔する。そしてテーブル越しに手を伸ばしてタキの眉間を優しく突いた。

「タキちゃんもスイちゃんもシオちゃんも、みんな同じ金色の瞳でしょ?」

「だからそれのどこに関係が」

「あるんだよ。タキ」

 学校へと通っていないタキには遺伝についての知識は無い。金の瞳が珍しい色だという認識も薄いだろう。

「お母さんが金色だったなら父親が違っても、金の瞳の子供が生まれる可能性はある。でもお母さんが茶色なら父親が違った場合、兄弟が全員同じ色の瞳である可能性はまず無いといってもいい」

 タキは大人しくホタルの言葉を聞いている。彼には人の話を真剣に聞き、与えられた情報の中から要点を即座に捕えることに対して天性の才があった。

 それはスイの中にもあり、途中から通い始めたという学業も遅れること無くついて行けるのだ。もしかしたらシオにもその才があるのかもしれないが、残念なことに飽きっぽく座っているよりも身体を動かしている方が性に合っているらしい。

「隔世遺伝ってこともあるかもしれないけど、それが兄弟全員出ることはちょっと考えられないし。戦争後の汚染の影響で目の色が金になるって話も聞かないしね」

「隔世遺伝?」

 怪訝そうな顔で聞き返したタキにアゲハが「親の世代では出ていない遺伝情報が、祖父母やその前の世代を超えて子供に現れる遺伝現象のことよ」と簡単に説明するが予備知識の無い者に理解するのは難しいだろう。

 だがタキは驚くべきことに少し逡巡した後で小さく首肯した。

「つまり、その隔世遺伝でないならば俺たち兄弟は全員同じ父親から金の目を受け継いだってことだな」

 どこかほっとした様子で呟いてタキが温かな瞳をホタルへと向けくる。

「ありがとう。ホタルに俺たちは同じ両親を持つ兄弟だと言ってもらえて安心した。やっぱり学のある奴は違うな」

「そんなこと」

 本当に安心や確信が欲しいならば遺伝子検査を行えばいい。高額だがホタルの専門外である知識より正確で間違いがないのだから。

 ただの気休め程度にしかならないのに、礼を言われても困る。

「ちょっとー、私には?ホタルにだけ感謝して、私にはなにもないなんてひどすぎない?」

「ああ、悪い」

「タキちゃん頼むわよ~」

 もうっと膨れてアゲハが拗ねた。その姿にタキが微笑んで「勿論感謝してるさ」と応じれば、まるで朝を待っていた花が開くようにふわりとアゲハの顔も綻んだ。

「タキ、君たちの瞳の色は珍しいんだ。だから探そうと思えばお父さんを――」

「必要ない」

 最後まで言わせずに隣人は裁ち斬った。その頑なな態度はこれ以上の会話を求めていないのだと知らしめるに十分なもの。

 ホタルは唇を噛んで俯き、不用意な自分の言葉を恥じた。

「俺たちがこれまで通りなにひとつ変わらない兄弟でいられればそれで、いいんだ」

 まるで自分に言い聞かせているかのようなタキの声に、ホタルの心は無性に掻き乱されたが「そうだね」と弱々しい笑顔を向けて頷くに留めた。

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