エピソード05 悪魔の所業


 地面に穴を掘って窪ませ、その四隅に棒を差し込んで布をかけただけの場所が自分たちの住まいだった。どこかからか拾ってきた端が解れ汚れた絨毯を敷き、その上にごろりと寝転がって眠る。

 ちゃんとした壁など無い薄っぺらな布しかないそこには容赦なく、夜の冷気と男たちの怒鳴り声、諍いの音や銃声が入り込んでくる。

 怯えて泣きじゃくる弟をタキは必死で宥めながら、その泣き声が男たちの気を引き神経を逆撫でしないようにと必死で祈っていた。そして夜になっても戻ってこない母を案じる不安な夜を幾度も過ごしたのだ。

 自分たちを護るにはあまりにも頼りない布で囲われただけの住まいは、いつ他人が入ってくるか解らない恐怖と隣り合わせで神経を擦り減らすばかり。

 母親は時折思い出したように帰ってきて食べ物を与え、直ぐにまた去って行く。常に空腹に襲われているタキと弟は、その飢えを満たすことを優先して母親に甘えるということに頭が回らなかった。

 いつものように出て行く母親の背中に「行かないで」と訴えることも、縋りつくことも出来ないまま見送るということを何度も繰り返した。

 人づてにどうやら母は首領自治区へとバリケードを越えて行っているらしいと聞いた。ダウンタウンの人間を雇う者は統制地区にはいないから、きっとそこで仕事を貰って働いているのだろうとにやにやと嫌な笑みを浮かべて。

 仕方がないのでタキは腹を満たすために周囲の大人の顔色を窺い、注意深く行動することを覚え、仕事を手伝って食料を得た。自分と弟を護ることで精一杯だったが、それでも充足した日々だったと思う。

 タキが五歳の頃、母がガリガリに痩せているのに腹だけ膨らんだ状態で帰ってきた。異常に丸く突き出た腹部を見て病気なのだと青くなると楽しげに笑って「あんたにまた弟か妹ができるよ」と囁く。


 ――今度は女の子がいいかもね。


 こんな生活を息子たちにさせておいて無責任にもまた子供を産むのだという母に、流石のタキも呆れてむっつりと口を閉ざした。

 弟は母が出かけずにずっといることを喜び、大きな腹を撫でながら「早く出てきて」と歌うように語りかける。

 その日からタキは三人分の食事を得るために歩き回り、仕事をもらって必死に働いた。どんな仕事でも頼まれればやり、言われた通り全てやった。行動範囲が広がれば顔も自然と広がっていく。土地勘も備わり、年齢よりは気が利く方だったタキは重宝がられ可愛がってもらった。

 臨月を超えて戻ってきた母親が産気づいたのは二週間後。

 酷い出血と痛みに意識を朦朧とさせながら、産婆も医者もいないのにそれでも生物の本能でいきみながら女児を出産した。生臭い臭いと、汗の匂い。そして小さな体を真っ赤にして震わせながら声を上げて泣く妹を腕に抱えて、臍の緒を切れ味の悪いナイフで切った所で母が息をしていないことに気付く。


 ――嘘だろ?


 考えてみれば母の痩せ方は尋常では無く、腹の子に栄養を取られたことのみが原因とは思えなかった。きっと病気を患っていて、出産による出血と痛みに身体が持たずにそのまま逝ってしまったのだ。

 タキは呆然と妹が出てきたばかりの箇所が赤黒い出血を続け、絨毯に染みを広げているのを見つめてこれからどうすればいいのかと途方に暮れた。

 弟は三つになっていたが、まだ仕事の手伝いも出来ず、ぐずぐずと泣いてばかりいる。その上産まれたばかりの妹をタキが育てることは困難だった。母が死んだ今、誰が妹に乳を与えるのだ。


 ――もう、無理だ。


 母の上着に妹を包んで抱き、弟の手を引いて立ち上がると布を押し上げて外へと出た。不安そうに弟がタキを見上げてくる。安心させるために笑顔を浮かべて頷いて見せた。

 一度だけ振り返り母の躯を眺める。

 虚空を見つめる空洞の瞳、半開きの唇からは血の混じった涎が垂れていた。痩せている身体の腹部は未だに少し膨らんでいて、そこに妹がいたのだという証を残している。上向きに寝転び膝を立てた状態で大きく開かれた脚、痛みに抗おうと絨毯を握り締めたままの指。

 苦悶の内に息を引き取った余韻が残るのに、母の顔は何故か安らかな表情に見えた。


 ――自分だけ。


 この酷い世界から逃げ出すことに成功したのだ。

 頬の内側を噛んでタキは母の姿から視線を動かし外へと向けた。真っ暗な世界にも月と星が健気に輝き、陰影を刻みながら豊かに広がっている。

 その中に歩を進めると弟が「恐い」と泣き始め、腕の中で妹も声を張り上げた。


 ――大丈夫。お前たちのことは俺が護るから。


 だから心配しないで一緒に行こうと手を引いて、タキは夜の道を歩き続ける。

 暗くても、目印が無くても自分が今どこを歩いているのか解る程にタキはダウンタウンを知っていた。そして自分たちのような親を無くし、行き場を無くした子供が助けを求めるべき場所があることも。

 粗末な二階建ての家の扉をタキは躊躇いなく叩いた。

 何度も、出て来るまで。

 そして開いた扉の向こうで老いた女がなにも言わずに中へと招き入れてくれた時には草臥れ果てていて、詳しい説明などしないまま床に座り込んで初めて人前で泣いたのだった。




 タキは久しぶりに訪れたダウンタウンを歩きながら昔のことを思い出していた。あの日シオの手を引き、産まれたばかりのスイを抱いて孤児院の扉を叩いたことを後悔はしていない。

 孤児院を営んでいたミヤマという名の老女は、母親の死に動じず直ぐに助けを求める決断をしたタキを褒めてくれた。

 身を寄せ合っていても寒い中で産まれたばかりのスイを放っていたら朝まで持たなかっただろうと。

 偉かったねと初めて聞く労いの言葉にタキは救われ、そして弟と妹を命に代えてでも護り抜こうと新たに決意した。

 それは今でも変わらない。

 ずっと。

「ミヤマ」

 タキたちが育った孤児院は駅から歩いて十五分の距離にあり、治安の悪い第八区と第四区の居住区の間にある軍の施設との境に接している。そのお陰でダウンタウンの中では比較的静かで、諍いも少ない場所だった。

 孤児院を出てから三年経つが相変わらずボロボロで、嵐が来れば倒れてしまいそうな二階家の裏には小さな畑がある。いつもミヤマはそこに屈んで雑草を抜いたり、虫を駆除していた。

 柵で囲まれたそこへ行くとやはりミヤマが曲がった背中を更に曲げて、罅割れた土から芽を出している植物を愛でていた。

「ミヤマ」

 聞こえなかったのかもう一度名を呼ぶと、漸く顔を上げてこちらを向く。

「タキ?」

「久しぶり、元気そうで安心した」

「本当に、タキなのかい?」

 ぽかんと口を開け、垂れた目蓋の中に埋もれた瞳をしょぼしょぼと瞬かせるとミヤマは震える声で問い返す。

 驚かれるのも無理は無い。タキは一度もここを出てから彼女を訪ねて来ていないのだから。

「ああ。近くに来て、よく顔を見せておくれよ。本当に、久しぶりで」

 手を伸ばしてミヤマはよろよろと立ち上がると懇願する。二人の間の数歩の距離を大股で埋めて近づけば、節くれだった指と乾燥した掌がぎゅうっと儚いほどの強さでタキの袖を握った。

「あんなに世話になったのに、顔出せずに申し訳ない」

「いいんだよ、いいんだ。こうして訪ねて来てくれる子なんて殆どいないんだから。シオはどうしてる?ちゃんと真面目に働いているかい?スイは学校に行って絵を続けているのかい?苛められたりしていないか心配だよ」

 久しぶりに会ったミヤマは覇気の無い枯れた年寄りのように見えたが、こうしてシオやスイの心配をしている間に見違えるように当時の母親代わりとして世話してくれていた頃の顔へと変貌した。

 変わらないな――。

 目を細めてタキは笑うとミヤマの細い肩を撫でて頷く。

「あの泣き虫なくせに喧嘩っ早いシオは、すぐに上司とぶつかって仕事を首になるかと思ってたのに」

 解らないもんだねと泣き笑いの顔で続け、タキの袖を強く引くので上半身を屈めて顔を近づけると開いている方の手で頬にそっと触れてきた。

「あんたは頑張り過ぎてないかい?気遣いだからね、タキは。優しすぎるのも問題だよ。ちゃんと支えてくれるような人を見つけて、幸せになるんだよ?」

 真摯に覗き込んでくる栗色の瞳は随分濁っていて、あまり視界は良くないのだろう。それでも見えにくい目を凝らしてタキを見つめてくる今までと変わらない優しい思いに打たれた。

 彼女がいなければ間違いなくスイは死んでいただろう。

 そして他者の優しさと温もりを知らぬまま育ったタキとシオは相手の気持ちを悟る良識を持たずに犯罪者へと身を落としていたはずだ。  

 劣悪な環境の中で、中身まで醜悪にならずに済んだのはミヤマがいてくれたから。

「ありがとう、ミヤマ」

 タキに幸せになれと諭せるのはきっと彼女だけだ。

「全く、礼を言うのはこっちだ。あんたたち兄弟がいた頃は本当に楽しかったからね。あたしでさえ産まれて直ぐの赤ん坊なんて育てたことが無かったから、全部が手探りだったし。自分で子供を産んだことも無いのに孤児院をやってたんだから笑っちまう」

 楽しげな笑い声を上げて触れていた頬から手を離し、次にその掌に赤ん坊を抱えるような形にして昔を思い出すように遠い目をする。

 小さな命。

 懸命に生きようとする命。

「育ててやってるつもりが育てられ、いつしか教えてる方が教えられてるんだ。毎日成長していく姿に、あたしがどれだけ満たされていたか」

 子供をあやして、高い高いと抱え上げるように空に手を伸ばして。

 ミヤマはくしゃりと破顔し幸せそうに呟いた。

「本当に楽しかったよ。一日一日が輝いて、どれもがかけがえのない日々で」


 毎日夢を見るのだと一筋涙を流す。


 こんなにも愛されていたとは知らなかった。なにか言わなければならないのに、意味ある言葉にならずただ闇雲に湧き上がる感情を整理するしかない。それでも形にならないもどかしさにタキはぐっと喉を詰まらせた。

「でもね。こんなにもやりがいのある仕事も国から取り上げられちまったら、流石のあたしも抜け殻になっちまう」

 ミヤマの声が沈み、先ほどまでの輝きに満ちた表情がたちまち消える。艶の無いばさばさの白髪頭に皺の刻まれた顔。やる気無く肩の落ちた彼女は生きた屍のようだ。

「国は援助を打ち切った?」

 ダウンタウンの行き場を失った子供たちを孤児院に集めて保護した所で、彼らが将来国の為になるような仕事をするわけでもない。そればかりか結局は掃き溜めの中で犯罪を起こし、国の荷物となるのなら予算を割く必要は無いと決定したらしいとタキの耳にも入っていた。

 だからこそ昔を思い出し、育ててくれたミヤマとその孤児院がどうしているか気になってここまで来たのだ。

「そんな生易しいもんじゃない」

 吐き出された言葉は大きく、まるで近くにある軍の施設にいる兵士に聞こえろと言わんばかりだった。

 今までミヤマは国の支援金で孤児院を賄っており、傍にある軍隊に感謝こそすれこんな風に声高に批判するような言い方をしたことは無かったのだ。それをこんな悪しざまにいうのだから援助を打ち切っただけでは飽き足らず、無慈悲なことをしたに違いない。

「あいつらは悪魔だ。鬼だよ。人間じゃない」

「ミヤマ、それ以上は少し声を」

「構うもんか!どうせ統制地区にまで噂は流れてないんだろう?それならあたしが教えてやる。あいつらがなにをしたかを」


 火を――。

 銃弾を――。


 無抵抗な子供とそれを護ろうとした大人たちを容赦なく撃ち殺し、生きたまま焼き殺したのだ。逃げ惑う者を追いかけて背後から斬り殺し、助けを求める者にはじっくりと時間をかけて苦しめて殺した。

 笑いながら、愉しみながら。

「最近国に反旗を翻してテロ活動している奴らが増えてるだろう?国は第八区ダウンタウンの住民が反抗していると思ってる。だから」


 見せしめさ。


「軍は毎日、生きるのがやっとのあたしらみたいなのを捕まえて、ありもしない罪を被せて殺してるよ。きっとそのうち第八区には人っ子一人いなくなる。それまで国は悪魔の所業を続けるつもりさ。だからね」

 また母性に満ちた顔でタキを見上げる。

「こうしてあたしが死ぬ前に会いに来てくれてありがとうね」

 死を覚悟した者だけが持ち得る透明な笑顔に、タキはぞっとした。

「ミヤマ、ここから」

「一体何処に行くって言うんだい?」


 行く所なんか他にないんだから。


 死ぬ所はここだと決めているんだよ。


 首を振りミヤマは小さな歩幅で歩き出す。タキの一歩分を随分時間をかけて進んで背を向けたまま「早くお帰り。あんたはもう、統制地区の住人なんだから」と拒絶して。ゆっくり、ゆっくりと去って行った。

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