エピソード02 馬鹿馬鹿しい事柄
風圧と轟音を撒き散らして地下のホームに電車が進入してくる。危険だと報せる線からかなり離れているはずなのにシオの茶色の髪を滅茶苦茶に乱し、しっかりとハンドルを押さえている自転車が風に圧されてふらついた。
電車はダウンタウンであり、首領自治区と接する最も汚染地域に近い第八区も満遍なく通る。
そのせいか熱され乾燥した空気だけでなく、淀みどこか腐臭に似た匂いも連れてくるようだった。
空気を循環させる設備が古く、地下の空気は常に悪い。
こんな所に長時間いれば確実に気管と肺を病み寿命を縮めるに違いないが、夜ともなれば住む家も食べる物も行く場所も無い者たちが何処からともなく現れて壁に背を当てて眠っている。
「糞みたいな国だ」
暴言を吐いてシオは唇を歪めた。幸い聞き咎める者はおらず、例え傍に他者がいたとしても風と車輪が軋む音に掻き消されて聞こえなかっただろう。
聞かれたところで別段問題も無いが。
入口が両サイドに別れて道を開け、自転車を押しながら乗り込んだ。車内には老いた女と小汚い子供が右奥の椅子に腰かけていた。左手前側の通路に中年の男がだらしない服装で足を投げ出して眠っている。
シオは真っ直ぐ進み、自転車を扉と身体の間に挟むようにして手摺に身体を凭れた。
発車を報せるベルが鳴り、車体を揺らして扉が閉まると再び目的地へと向かって動き出す。
電車は地下を走る。
真っ暗な世界を黄色い灯りを灯した電車だけが進んで行く。
ぼんやりと窓に映る自分の顔は仏頂面をしており、威圧的に見えるように力の入った瞳には失望と怒りが燻っている。
そして焦燥。
毎日のように頭上から強い陽光を降り注ぐ太陽を恨むより、乾いた大地に憤るよりも、死んだ海を嘆くよりも、その報いを受けねばならない者は他に居るはずだ。
「いや、者たちだな」
相手は単体では無い。
複数いる。
この国を支配している者たちは民を軽んじ、所詮なにもできぬ烏合の衆だと高を括っているのだ。
生きるも死ぬも興味など無く、ただ己の欲望と生活の安定が保証されていれば満足で下々のことなど歯牙にもかけない。
逆に面倒だから早く死んでくれと言わんばかりだ。
「今に見ていろ」
底辺の者たちは激情を糧に生きる力を得る。
背負っている鞄の位置を直してシオは手摺から身を起こす。次の駅が近づくと微妙に電車内の空気と音が変わるのだが、それに気付いている者は意外と少ないらしい。
シオが過敏すぎるのか、周りが鈍すぎるのか。
落ち着かない気分にさせるその変化に、いち早く扉の前へと移動する。闇ばかりの景色が突然光に切り取られたような駅の風景に切り替わるのを見るたびに、まるで作り物めいた物に感じられて吐き気がした。
自分の人生なのに、予め決められているかのような――。
「もしそうなら、おとなしく思い通りになどなってたまるかっ」
サドルを跨いでペダルに足を乗せると開いた扉の隙間を縫って走り抜けた。人気の少ないホームを立ち漕ぎして加速しながら、時折前からくる人を避けながら地上へと出る階段を目指す。
頬を撫でる乾いた風が正面斜め上から吹き下ろしてくる。人口の灯りでは無い自然な太陽の光は眩く目が痛い。
それでも全てが虚構のような日々の中で、唯一無二の存在であるものに対しての憧憬と切望はシオの心を掴んで離さなかった。
段差の前にある改札で飛び降り料金を支払うと、自転車を抱えて階段を駆け上がる。
第二の足である愛用の自転車の車体は丈夫で軽いアルミニウム、手荒い走行を想定したサスペンションは路面からの衝撃のみを吸収しペダルを踏み込む力で沈み込まないように工夫されていた。小回りが利くようにタイヤは少し小さ目を、ブレーキはかけた時に音鳴りがしにくく少し強めがシオの好みだ。
地上部は騒々しく人気も多い。自転車をおろしペダルに足をかけて乗るとその人塵に紛れるように漕ぎ出す。
走っている間は自由だ。
どこまでも。
誰もが轢き倒されたくない為に自転車を漕ぐシオを避けて歩いて行く。誰もが迷惑そうな顔をするが文句を言ってくる人間はいない。
それはシオが羽織っているジャケットに配送業を営む権利を国が与えたマークが入っているからだ。
業務を妨害する者には厳罰が与えられる――。
「馬鹿馬鹿しい」
皆が恐れるように道を開ける様を舌打ちで眺め、シオは国の中心であるカルディア地区のある北を睨む。乱立する古いビルの間に見える高い壁。それを乗り越えることは不可能とさえ思われた。
「いつまでも」
安全な場所で高みの見物をしていられると思っていたら大きな間違いだ。
いつか引きずりおろしてやる。
どうやってと方法を問われれば、それに答えられるほどの学も策も無い。それでもこの腐った世の中を、糞みたいな国を、責任と義務を怠る高官と軍に一矢報いてやりたいと思っているのはシオだけに非ず。
落ち着けと響く声が次いで逸るなと諫める。
常に先を急ごうとするシオをそう言って留めるのは兄であるタキの声。その度に気を引き締めて己の置かれた状況を鑑みる。
今は未だできない。
なにも。
「まずは今日最後の配達を無事に終わらせることが最優先」
ペダルを漕ぐ足に力が入る。
第三区は商業地域がメインであり、学校がある第二区と隣り合わせであることから学生たちが多く住んでいた。比較的治安が良く、物資も豊富な第三区には中流家庭でも上の者が集まり支えている。
貧しい者が他人に高い金と荷を奪われる危険を払ってまで物を送るなどということはしない。よってシオが荷を配達する場所は大手の企業を運営している者と技術者が集う第一区と小学部から高等部と大学などがある学業施設が中心の第二区、商業地域である第三区がメインとなる。
時には居住区である第四区にも配達するが数は少ない。
国が支援している研究所のある第五区はそこ専門の別の配送業があり、工場地帯である第七区は重量と数が多い為また別の業者が請け負っている。
第八区は掃き溜めのダウンタウン。
命が尊いなどそこに住む者も、外の人間も誰も思ってはいない場所。
闇を払うために臭い魚脂に火を灯し、空腹を満たすために苦い魚を食べる。そこかしこに垂れ流される糞尿の匂いと、転がった死体に群がる蠅や蛆と
欲しければ奪えばいい。
そんな不文律が普通に横行する場所で、兄はシオたち弟妹を護りここまで導いてくれた。
だからこそ逆らえない。
シオが心から従うのは兄であるタキだけだ。
「ここだな」
住所を確認して細長く小さな四階建てのビルを見上げる。灰色のコンクリートにクリーム色の塗装がされていたが、それも随分前のことのようで所々陽に焼けて乾き剥げ落ちていた。
入口の硝子扉は罅が入っており、それを補強するためにテープが貼られているが、それすら乾燥して浮いており意味があるのかどうかも怪しい。
自転車から降り、扉を引いて開けて中へと入ると黴臭いが、中はひんやりとしていて汗を掻いた身体に心地いい。
配達先はこのビルの二階。差出人は書かれておらず、届け先の住所と名前が記載されているだけだった。
「すみません、御届け物です」
二階分自転車を抱えて上りきり、二つしかない扉の奥の方を叩くが返事は無い。再度強く拳を打ち付けて呼びかけるが、扉の向こうから微かに聞こえるのはラジオから流れる音だけだった。
「寝てんのか?」
首を捻りながらぼんやりと廊下に立ち尽くす。流石に荷物を玄関先に放置して帰るわけにもいかず、時間をどこかで潰して再度配達し直すにも面倒でシオは顔を顰める。
これが済めば家に帰れるのに、中に居るのが解っていながら途方に暮れているこの事実が非常に腹立たしい。
「おい!いるんだろっ!サンさん!サンさん!御届け物ですよ!」
扉が軋むほど腕を振り下ろし、最後には足で蹴りつける。それでも応えは無くシオの苛立ちは留まることを知らずに加速して行った。
「ふざけんなっ!さっさと出やがれ!サンって名前にさんをつけるこの馬鹿馬鹿しい呼び方をいつまで続けりゃいいんだよっ!お前なんかサンで十分だ。サンで!」
「確かに馬鹿馬鹿しいな」
「っな!?」
意識が部屋の中へと向いていたせいで背後から声をかけられて初めて傍に人が立っていることに気付く。
眼鏡の向こうから真っ直ぐに注がれる黒い双眸に冷淡さを顕にし、首から上等のレンズのついた年代物のカメラをさげている男はズボンのポケットから鍵を取り出して扉の前へと進んだ。
シオを押し退けて――。
「あんたがサンさん?」
「馬鹿馬鹿しいんじゃなかったのか。その呼び方」
ちらりと一瞥をくれて男サンは薄い唇を歪めた。
どうやら笑ったらしい。
「てっきり中に居るもんだと思ってたから油断した」
背中の鞄を胸の前に移動させて口を開けて中から届け物の茶色い封筒を取り出す。サンは「隙だらけだったぞ」と揶揄して陽に焼けた手で封筒を受け取ると受取り証にサインしてシオに突き返してきた。
「だから中かと思って」
「オレが荷や金を狙う襲撃者ならお前は確実に死んでいたが。治安が悪く無いとはいっても良くも無いこの第三区で、そんなに隙だらけならいくら命があっても足りん」
忠告か警告か。
厳しい目で睨みつけているサンの部屋からは相変わらずノイズ混じりの音が漏れ聞こえてくる。
「あんた、ラジオつけたまま出かけるのか?勿体無いことすんのな」
「留守だと思われれば空き巣に狙われるだろう。そんなことよりお前はいつも配達先の人間を捕まえて無駄話に興じるのか?」
明らかに迷惑そうな表情の男にシオはにやりと笑みを返す。
「いつもはさっさと仕事を終わらせて帰るに決まってんだろ。糞面白くも無い話なんかするだけ時間の無駄だしな」
「ならば何故」
「油断してた分を差し引いても、おれがあんたの気配を微塵も感じなかったってのは考えられない。つまりあんたはわざわざ息を殺し足音を消して近づいてきた」
音や気配には敏感なシオに気付かせない程、気配を殺す技術に長けているこのサンという男只者では無い。
「しかもご丁寧にラジオをかけて外出していないと思わせる異常な用心深さ。あんたんちの電気料金は恐ろしく高いだろうな」
「確かに」
払っているが文句があるのかと言いたげな口調は更にシオの興味を惹きつける。首から下げた一眼レフカメラも、眼鏡の奥の妙に背筋をひやりとさせる瞳も全て。
「あんたが盗まれるのを恐がっている物ってなんなんだ?」
「お前に関係ない」
「ははっ、確かに」
簡単に答えが得られるとは思っていない。尋ねて答えられるような物ならば高い電気料金を払ってまで守ろうとはしないだろう。
そして玄関先で喚いて騒いでいた配達員を脅かして追い払おうとすることも。
「また来るわ。サン」
「ふざけるな。迷惑だ」
眉根を寄せて不快な顔を相手は見せるが、手を振ってシオは自転車を押し廊下を進む。その背を追いかけるように投げられた「オレはお前より年上だ。呼び捨てられる謂れは無い」という声に訪問の了承を得たと勝手に解釈して再度手を閃かせて応じ帰路へ着いた。
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