エピソード03 兄弟の絆
港での荷下ろしを終えタキは同僚に挨拶をして事務所を出た。カーキ色のモッズコートのポケットを探って煙草の入った箱を取り出す。
太陽が昇っている間は蒸し暑いのに、日が暮れれば分厚い上着が必要な気温になるこの国はとことん貧しい者に優しくない。
一本取り出して口に銜えるとオイルライターで火を点ける。
強く吸い込めば肺の奥の方までニコチンが染みわたるようだった。次いでゆっくりと吐き出せば紫煙がゆらゆらと揺れて散り散りに消える。
灯りの無い薄暗い道を歩くのは不用心ではあったが、辺りが明るくなる日の出まで待つほど暇では無い。無鉄砲な弟としっかり者の癖にお転婆な妹が心配で一刻も早く帰り、その顔を見て安心したいと思う。
この国の電力は水力発電と原子力発電の両方で賄われているが、国は十分な電力を発電できていないとして夜間の送電を規制している。深夜を回る頃と同時に送電がストップし、統制地区は暗闇の中へと沈む。
勿論電車も止まり、街灯の無い道を歩く者など誰もいなくなる。暗闇の中を忙しく動き回るのはタキたちのような肉体労働者か犯罪者ばかりだ。
港で働く男たちは重い荷を運ぶせいかがっしりとした体躯の者が多く、それなりに腕っ節が強い。昔は犯罪に手を染めていた男も数名働いているが、話せば意外と情が深く面白い者ばかりだった。
タキとて人に言えるような育ちでもない。
「まるで夜明けだな」
根元ギリギリまで煙草を吸い、左のポケットから携帯灰皿を取り出し丁寧に火を消して捨てる。
ふと見上げた北の空が昼白色に輝いているのを見て思わず笑う。
中央カルディア地区。
総統が牛耳り、軍に属する富める者の住む場所。
「全く以て無駄遣い」
軍と政を安全に滞りなく維持する為そこだけは常に電力供給が約束され、なに不自由無い生活を送っている。まるで汚染物質を阻もうとしているかのように高く築かれた統制地区との間にある壁も、空を染める人口の灯を隠すことは出来ない。
市民には我慢を。
為政者には権利を。
それ以外の者には無慈悲を。
国は己の利権のみで上部の者だけが動かし、民を護ろうとは思ってはいないのだ。不満はあるが現状を変える術を知らず、無学さが反乱への抑止力となっている。それでも心で燻る苛立ちと枯渇し飢えている人々はなにかのきっかけで爆発しそうな気配はあった。
それは勿論軍も承知していて、治安維持隊や保安部が前にもまして警戒しパトロールを強化していた。
酒を飲んでいた男たちが酔った勢いで国への不満を口にしていたのを見つかり、反乱の意思ありと判断され連行されたという話も聞く。
ただの愚痴を反感と取り、危険人物と称するのはいささか乱暴でそれ故に軍の焦りや危惧が露見される形となる。
電車に乗れば二十分程の距離をタキは一時間かけて歩き、漸くアパートへと辿り着いた。
十階建てのアパートはエレベーターがあるものの、しょっちゅう止まり人が閉じ込められる。ひとたび止まれば暫く使えなくなるという曰くつきなのであまり使用する者はいない。
タキはいつものように階段へと足を運び上り始める。
古いアパートの階段は急な上に建物内部に作られているため周りを壁に囲まれている。踊り場ごとに設置された換気扇の作動音が煩く、天井から下がった電球が送電の開始時間になりちかちかと着いたり消えたりを繰り返す。
管理が行き届いていないがその分家賃は安いので文句も言えない。
ふっと空気が動き、踊り場の向うで影が動いた。微かな足音と気配を漂わせて男が階段を下りてくる。黒い髪と薄い紫の瞳をした顔色の悪い風貌。頬と目の下の隈は疲れからくるものでは無く、恐らく病からくるものだ。
それも、かなり重い。
だが男の足取りはしっかりとしており、纏う雰囲気は清廉で溌剌としている。その落差は見ている者に違和感と強烈な印象を残す。
気にはなったがタキは歩調を緩めずにそのまま進む。丁度階段の真ん中ですれ違った。その瞬間男の口角が上がり、微笑みの形を取る。
「あんた、何者だ?」
一番上の階段に足をかけた状態で肩越しに振り返り
「何者かと、問うか」
目を細めて呟かれた声は意外にも若く、爽やかな
「誰に用があってこのアパートに来たんだ?」
「おかしなことを言う」
怪訝そうな顔で「解っているだろう?」と問い返す男にタキの身体中が粟立った。
「君は未だ反逆の意思無し、と報告して構わないか?」
「どういう意味だ」
「意味か。誰に、とは問わないということは理解していると判断するが?」
タキはギリッと奥歯を噛み締める。
報告する相手については心当たりがあるとも、無いともいえる。ただ特定するには不十分で情報も核心も得ていないタキの方の分が悪い。
「俺は、ただ弟と妹と静かに暮らせれば他にはなにもいらない」
「了解した。時が経ち、力が満ちた。君が望む平穏がどれほど続くかは未知だが、我々の前に立ち塞がらない限りその命は護られる」
「蜂起すると?」
「蜂起では無い。ましてや挙兵でも無い。ただ粛々と進めるのみ」
青白いまるで死人のような顔に陶酔した表情を浮かべて男は祈る様に天を仰ぐ。
「おれの運命は風と共にあり、そして海へと還る」
気付けば男の手がタキへと差し出されており、その指先と強い瞳が誘うように、促すように呼んでいる。
「無論共に行く道もある」
反射的に後退りタキは首を振る。自分が望むのはさっき口にした通り、弟妹と一緒に静かに暮らすことだけだ。
他にはなにもいらない。
「今はそれもいいだろう。だがいずれ道が交わることもある。その時にはおれの手を、名を呼んでくれ。喜んでその運命、引き受けよう」
「冗談じゃ」
そんな不吉な予言めいた言葉など口にされては迷惑だ。タキの拒絶を男は笑って流しそっと己の名を告げて去って行く。
――アキラ。
それが男の名前。
心を乱すその名をタキは頭を振って追い出して、残りの階段を全て駆け足で上りきると部屋の鍵を開けて中へと入った。
「運命なんか知ったことかっ」
暗く呟いてタキは拳を腿に打ち付ける。鈍い痛みがじわりと広がり、その痛みが消えぬうちにもう一度叩きつけた。
運命など洒落た言葉で片付けられては困る。
タキは必死で生きてきた。ダウンタウンの片隅で弟と幼い妹を抱えて、その最低最悪な場所から這い出すためになんでもしたのだ。
自分で選択し、掴み取ったタキだけの成果――それを運命などという陳腐な物で片付けられたくは無い。
断じて許してはいけない。
共に行くなどそれこそ論外だ。
「タキ?帰ったの?」
玄関先から一向に入ってこないタキを心配したのか廊下に小さな足音が響く。そして茶色のショートブーツの先が見えた所で顔を上げ、妹であるスイを視界に入れる。
きょとんとした表情でスイは金の瞳を瞬かせ「お帰り、お疲れさま」とタキを見上げた。
ショートボブの髪に包まれた後頭部は形が良く、横髪がかかる丸い頬につんっと上を向いた小さな鼻。栄養状態が良くない環境で育った割に歯並びの良い白い歯と、それとは逆に細い手足と身長の低さが目立つがくるくると動く大きな瞳は可愛らしい。
「なんかあった?」
「いや。少し、疲れただけだ」
「働き過ぎじゃない?最近休みも無く働いてるし、一日ぐらい休み貰ってゆっくりしたら?」
手を伸ばしてスイの小さな頭を撫でる。
「大丈夫だ。寝れば回復する」
「そんなこと言ってたら病気になっちゃうんだぞ?」
拗ねたような顔には兄を思う優しさに溢れていた。小さく握られた拳の指に青と黄の絵の具が微かに付着しているのを眺めながら「解ってる」と頷く。
「解ってないよ。絶対!」
「今度は何の絵を描いてるんだ?」
「ちょっ、話し反らそうたってそうはいかないんだから」
「そんなつもりはない。純粋な興味だよ」
「教えてあげない。見せてもあげない。どうしても知りたかったら、仕事休み取ってきてよ」
できるのかと挑発的な視線を向けられてタキは苦笑いした。海流が穏やかな今の時期は港に船が頻繁に入ってくるので、休みを申請しようものなら白い目で見られる。稼ぎ時に親方が認める訳も無い。
「あと一カ月も経てば海が荒れて船が少なくなる。それまでは無理だ」
「じゃあ、それまで内緒だよ」
タキを押し退けるようにしてノブを掴み、スイはするりと通路へと出る。チカチカと不快に瞬く電球を鼻に皺を寄せて一瞥してから隣の扉をノックして、向こうから開けられる短い間にズボンのポケットから小さな鏡を取り出してサッと身だしなみをチェックした。
そんなことしなくても目やにも、涎の後もない。寝癖もないし、いつも通りに可愛い顔をしているのに――。
「なに?」
「……まだなにも言ってない」
妹の剣呑な響きの籠った声と視線にタキは首を振る。「まだってことは、なにか言うつもりだったんじゃないか!」と荒げた拍子に扉が開いた。中途半端に長く整えられた銀の髪にコバルトブルーの涼しげな目をした隣人がエプロン姿で今日も爽やかな笑顔で出迎えてくれる。
「おはよう。なに?朝から兄妹喧嘩?相変わらず仲良いね」
「おかしい!喧嘩してどうして仲良いねって話になるの?」
「そもそも喧嘩にすらなってないからね。スイちゃんが一方的に怒って、タキは黙って聞いてるだけだし」
部屋の中からベーコンの焼けた良い匂いがしてきて、自宅の扉に鍵をかけてからタキは腹を押えて近づき「ホタル腹減った」と催促する。
「ああ、ごめん。どうぞ」
ホタルは大きく開いて扉側に身を寄せ、タキとスイを招き入れる。二人が中へと入ったのを確認してから閉めて鍵とチェーンをかけた。
自分たちの間取と変わらない部屋は廊下を挟んで部屋が向い合せにあり、突き当りにリビングとキッチンがある。タキとスイは匂いに誘われるように廊下を進みテーブルの置いてあるリビングへと出た。
その上には既に用意されていた朝食が五人分。
「おはよう。スイちゃん、タキちゃん」
ラズベリージャムを手に挨拶をしながらアゲハはベランダ側右端の椅子へと腰を下ろす。腰に届くほどの見事な銀髪は真っ直ぐで、美しい額の下に輝く宝石のようなコバルトブルーの瞳。通った鼻梁。ふっくらとした唇。白皙の面に秀麗な顔立ちはホタルとよく似ており、彼らが兄弟であることは説明されなくても解る。
「おはよう。アゲハ」
スイが挨拶を返してその前に座る。タキはその隣に腰かけてフォークを掴むと白い皿に盛られた葉物の野菜をドレッシングで和えた物を無言で口に運ぶ。軽く焼いた丸パンとスクランブルエッグ、ベーコンと次々に胃の中におさめていく。
「タキちゃんいつもながらすごい食べっぷり」
驚くアゲハに視線だけ向けると苦笑された。
「はい、コーヒー」
差し出されたマグカップにはたっぷりのブラックコーヒーが満たされている。ホタルはエプロンを外して椅子の背もたれに引っかけると自分も座った。
「いただきます」
律儀に手を合わせてから食べ始めるホタルの作る料理は手が込んでいるわけでもないのに何故か美味い。
一緒に朝食を取るようになった理由は忘れたが、ホタルがこの部屋に住むようになった二年前から続いている。その頃は独り暮らしだったが、途中でアゲハが転がり込んできてホタルは少し明るくなった。
最初会った時なにかに憑りつかれたかのように海の水を汲み上げては捨て、汲み上げては捨てを繰り返していて流石に恐ろしく思ったのを覚えている。血走った目には寝不足と、汲み上げる腕には疲労が現れており「危ないな」と思っている内に海へと転落したのだ。
タキは慌てて飛び込み陸へ上げたが、汚染濃度の高い海水を飲んだホタルは病院へと運ばれた。そこでこの縁は終わりだと思っていたら、数日後礼を言いにわざわざ自宅へと訪ねて来た上に良い部屋だと羨ましそうにいうので隣が空いていると冗談で返すと、本当にその日のうちに契約して来て次の日には引っ越してきたのだから恐るべき行動力である。
ホタルが大学の学生で自然科学を専門としており、主に水質について研究しているのだと後日聞いた。
大学に通えるだけの教養と金銭的余裕のある者はこの
それでもいい。
タキも過去については何ひとつ言わないのだからお互い様だ。
研究に没頭すると寝食を忘れるホタルは、まるで海を死せる海へと変えた責任を取ろうとするかのようで。
真面目な性格が仇となって塞ぎ込むことも多々あり、タキたちはそういう時は近づかないようにそっとしておくしかなかった。
「アゲハ今日の予定は?」
「んー、ちょっと遅くなる」
「それじゃ鍵忘れず持って行って。僕も今日は研究室で論文書かなくちゃいけないから」
予定の確認をする穏やかな表情のホタルを見ていると、アゲハが来てくれて本当に良かったと思わずにはおられない。
兄弟が心の支えになることは実感済みである。
「やばい、もうこんな時間だ」
時計を確認してスイが立ち上がると隣に座っているタキの肩に左拳をこつんとぶつけて笑う。
それは行ってきますの挨拶。
「タグは持ってるな?」
「勿論。どんな時でも肌身離さず」
薄い胸をポンと叩いてスイはその下にあるドッグタグを示す。それは兄弟三人の御守りであり絆だった。タキの首にも、弟の首にも同様にかかっている。
出自がダウンタウンである自分たちには戸籍がない。
だからこれは大切な身分証明書。
なにも持てなかったタキたちの、ようやく持てた証だ。
「ごちそうさまでした。ホタル」
「いってらっしゃい。スイちゃん」
「気を付けてね」
手を振り明るい笑顔を残してスイは学校へと出かけて行った。
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