統制地区 ~Control.City~
エピソード01 勇気無き者 偽善者たれ
カルディアと
ホタルは額の汗を袖口で拭い、痺れたように痛みを訴える腰を宥めながら立ち上がる。
海に面して建てられた研究所は水不足に苦しむこの国の現状を打破するべく、日夜研究に励んでいるがその成果は芳しくは無い。国家予算の約二割が当てられていることから非常に期待され、迅速に結果を求められているのだが相手が自然相手ではやはり難しかった。
コバルトブルーの瞳を凪いだ海へと向けて嘆息し、研究用に汲んだ海水の入った瓶を手に黒くごつごつした岩場を慎重に歩いた。
水質検査などしなくても汚染濃度は変わらず、そこにどんな手段を用いても海水が元の状態に戻る確率は限りなくゼロに近い。
それが解っていてもホタルは毎日違う場所で海水や水を汲み、時には厚い壁の向こうにあるカルディアにまで足を延ばしてあらゆる水を検査する。
かつては水の国として謳われたこの国の国土の南半分は砂漠化し、戦争の名残により汚染地域として出入りを制限されている。豊かだった海水は汚れ、魚は辛うじて獲れるがそれを食べるのは貧しい暮らしをしている者だけ。それを食べている彼らの寿命は恐ろしく短かった。
人口が減って助かる――そう言ってカルディアに住む富裕層たちは、敢えて死した海に生きる魚を食べる危険性を公表しない。
貧しく学の無い彼らは長く生きられない理由を、単純に病気になっても治療が受けられず薬も手に入れられないからだと思い込んでいる。そして貧しさゆえに魚の脂を使って調理をし、時には火を灯すための油として使用し、乾燥した皮膚を潤すための保湿剤としてまで利用するのだ。
生活に必要不可欠になってしまった魚を彼らは有難がり、そのせいで命を縮めていく。
悪循環だというのに、そのことをホタルは彼らに伝えることができない。
例え教えた所で信じて貰えないばかりか、貧しい自分達から食料と燃料まで奪うのかと逆上されるだけだ。
それでも。
ダウンタウンの路肩に毎日転がっている幾つもの屍が、統制区域の清掃車に積まれて汚染地域である砂漠へと運ばれていく現実を思えば声を張り上げ続けることに意味はあるのかもしれない。
ホタルはその勇気を持ち合わせておらず、少しでも水質が改善されるようにと動き回ることぐらいしか薄汚れた自己満足を満たす術が無かった。
この国は軍国主義を押し通す、貧しい者や刃向う物に厳しい国だ。
たった一度の過ちや発言で立場が危うくなる。
一部の軍関係者や高官たちのみが権利を独占し、安全で豊かな生活をしているのだ。
「本当に、この国は」
どこへ向かおうとしているのか。
ホタルの言葉は誰一人聞いてなどいないが、滅多なことは口にしてはいけないという風潮の中で自然と国に都合の悪いように聞こえる物は心の中で吐き出すのが習慣になっていた。
そのせいで息苦しく、胃の腑が痛むようになっているのだから貧しい者だけが短命ではないのかもしれない。
「ホタル!」
名を呼ばれ顔を上げると堤防の向こうから手を振っている、同じ研究室で学ぶミヅキの金茶の髪が太陽の光に照らされて赤くなっているのが見えた。整った顔立ちは少々派手で、くっきりとした線を描く睫毛に縁どられた青の瞳に見つめられれば胸を切なくときめかせる女性も多いだろう。
形の良い唇から零れる劇中の台詞のような言葉すら甘いと評判で、立ち居振る舞いの優雅さと紳士的な態度は生来の物なのか嫌味には見えないのだから不思議だ。
「今日も無駄足ご苦労さま。いつか君の苦労が報われることを心底期待しているけれど、その日が来る前に病や過労で倒れやしないかと心配だな」
柔らかな微笑みを湛えて差し出されたミヅキの手に掴まって堤防を乗り越えると、白く焼けた道路に降り立つ。靴底から容赦なく伝わってくる温度は、素手や素足で触れると火傷しそうなほどに熱い。
「最近は汚染区域まで行っているという噂は本当なのかな?」
「それは――」
「感心しないね」
反論する暇も与えず、肩を竦めてミヅキはゆっくりと歩き出す。車など滅多なことでは通らないのに道路は三車線分の広さがある。それは水の国と呼ばれ、豊かだった頃の名残だ。立派な道も白々と焼け、手入れが行き届いていないのは酷く虚しい。
軍の手の中で動かされる政の中央カルディア地区では未だに車は当たり前のように走っているが、統制地区であるこの区域に住む者にはガソリンはおろか高価な車自体を手に入れることも難しいのだ。
ほんの少しの間停めているだけでも人相の悪い男達に取り囲まれ、激しい暴行を受けた挙句に車を盗まれては割に合わない。
車などに頼らなくても八つに分けられた統制地区全てが地下鉄道で繋がっており、海水を使って発電しガソリンを動力にしない地下鉄道は安価で市民の足となっていた。その代わり時間帯によっては車内でぎゅうぎゅう詰になる覚悟が要り、些細なことで諍いになったりと事件や厄介事は頻発する。
「どうせ君のことだから防護マスクなどしてはいないのだろうしね」
煌めく青い瞳にちらりと一瞥されたが、図星なのでホタルは黙って歩を進める。見え始めてきた研究所は白い陽光を浴びて、広大な敷地の中に存在していた。門にはロックがかかっていて、指紋認証と顔認証、音声認証が必要だ。その上に身分を示す学生証や研究員の社員証を首からかけていないと入ることは出来ない。
そうまでして厳重に護られ管理されるような成果を出すことも、今の所目星もないがこの施設は長い間ずっと国に保護され続けていた。
「悪いことは言わない。汚染区域に行くのならせめて防護マスクと銃は持って行くべきだ。いくら君が中央参謀本部に所属するナノリ殿の御子息だとしても、命の保証など誰もしてはくれないのだしね」
「そんなことは――」
「確かにそんなことを理解できない低能な人間でないことは誰もが知っているよ。それでも君の行動は愚かだと思う。カルディア地区からひとたび外へと出れば、治安維持隊と保安部が目を光らせているこの統制地区とて安全とは限らない。それを飛び出して更に首領自治区の向こうの汚染地域にまで行っているのだから……推して知るべきだ」
これは友人としての忠告だよと念押ししてミヅキは柔らかく笑む。
純粋にホタルを心配してくれている彼の言葉を真摯に受け止めて反論を飲み込み「防護マスクは着けるよ」と首肯した。
銃を携帯することについてわざと言及しなかったホタルに苦笑を浮かべて曖昧に頷くと、目の前に迫った高い門扉の柱の横にある認識モニターへと向かい首から下げていた学生証を翳し顔認証と指紋認証と済ませ、「虹に流れ星がかかる」というミヅキの声で設定されているという音声キーを発する。
何度聞いても不思議な
虹は太陽の出ている間にしか存在できない。その上に流れ星がかかるなど有り得ないのに。夜空に虹をかけることができれば可能なのだろうが、そういった現象が存在するなどホタルは聞いたことが無い。
「夢があって素敵じゃないか」
やはり微妙な顔をしていたのだろう。ミヅキはこちらを振り返るとにこりと微笑んでそう言った。
「夢、か」
この国に生きて行く者達に夢など見る余裕などない。
その言葉が持つ、あまりにも儚い印象にホタルは倦怠感に似た気鬱に苛まれる。
「君の『勇気無き者、偽善者たれ。真の善たる者、清くあれ』も願いと祈りに満ちていて美しいと思うよ」
門が開いて先に入って行くミヅキが残した声はまるで励ましているかのように聞こえたが、ホタルの思いとは別の解釈をされていることへの違和感が拭えずどこか空々しかった。
「祈りでも、願いでもない。ただの」
戒めだ。
勇気無き者である自分への。
「勇気無き者、偽善者たれ。真の善たる者、清くあれ――」
口にするたびにホタルの臆病で卑怯な部分に黒い染みを広げていくその言葉は、次第に体の自由を奪い心の平穏さえも奪っていく。
たった一度の間違いを犯さぬように、慎重に歩んで行く生き方は息苦しく不自由だ。
戦争という愚かな行為により水と土壌を汚染し、死せる海と砂漠化を作り出した国の総統はその過ちを悔いずに未だに軍国主義を貫こうとしている矛盾。
不満は市民の中に確実に積もり、見えぬ水面下でじわりじわりとなにかが動き出そうとしている。
閉塞感ばかりのこの国で、出口を見つけようと足掻く者たちは果たして善か悪か。
それを判断し、裁くのはホタルでは無い。
視線が知らず、知らずカルディアと統制地区を隔てる高く分厚い壁を捕えていた。
その向こう側が本来自分のいるべき場所なのだという認識はある。だがこの統制地区で人々の営みを見て共に生活をしていれば、新たな思想が心に芽生えるのも仕方がないことだった。
「なにもできない」
なにも成すことなど出来ない。
大義も、正義も持たない自分には。
門を潜って施設内へと入り頭を切り替える。今はなにも考えずに研究のことだけに集中するのだと自分に言い聞かせながら。
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