C.C.P

いちご

エピソード0  海底で生まれし者


 支配するのはどこまでも純粋な闇。

 規則正しく脈打つ音はどこか遠くから聞こえるようで、己の内から聞こえるようでもある。

 表皮に接する液体の冷たさに身震いしながら短い四肢を伸ばそうと悶えるが、その動きを阻む柔らかな膜のような物に触れただけだった。

 纏わりつく様なそれは気色が悪く、仕方なく元の通り丸くなり再び眠りにつく。

 揺れる寝床は心地良いいが、時折流れ込む冷たい液体が微睡しか許さない。


 ――く参れ。


 その声はまるで呪詛のように繰り返し響いた。

 まるで子守唄のように、寝物語のように。


 ――穢れし地を我が手に取り戻せ。


 魂を揺さぶるかのように何度も、何度も覚醒を促す声に痺れを切らして手を伸ばした。その指先にあの不快な膜が絡まりつく感触は無く、それが嬉しくて折り曲げていた脚を使って飛び出した。

 途端に冷たいばかりの液体が押し潰さんばかりの勢いで襲ってくる。

 恐怖し手足を狂ったように動かして、なんとか逃れようともがいていると周りがほんの少しだけ明るくなってきているのに気付いた。

 そして液体の温度もまた少しだけ温かくなっている。

 押し潰そうとしていた勢いも和らいで、どこかへ導こうとしているかのように優しげな流れが身体を誘う。


 キラリ。


 光りが目を惹いて首を上へと巡らすと闇色だけだった世界が青く輝き、揺らめく液体に白い色が揺蕩っていた。

 こぽりと湧き上がっていく透明の泡が己の口から出たのだと知り、驚いて口を開ければさらに大きな泡が次から次へと浮かんでは昇って行く。


 ――美しい。


 そう初めて自分の声で呟いた世界の感想は、その言葉と景色と共に永遠に胸に残るだろう。

 両手で液体を引っ掻くように上を目指して進むと、簡単に身体は浮き上がり白い光へと近づいた。

 両脚で蹴れば更に速くなる。


 ――疾く参れ。


 これは誰の声なのだろうか。

 自分が何者なのか解らぬまま光を求めて手を伸ばす。

 その声はこの光の先から放たれているようでもあり、また自分が捨ててきた居心地の良い場所から聞こえているかのようでもある。


 ――欲しい。


 貪欲なまでの無垢な想いが原動力となる。

 例え穢れていようとも、この先にある物が。


 ――欲しい。


 目の眩むような強い光が射し込んで思わず目蓋を閉じた。硬く閉じていても尚薄い皮膚を赤く染め、濡れている頬を風が撫でた。鼻孔を通じて耐え難い臭いが入り込み、胸の奥へと辿り着くと苦しくて堪らず咳き込んだ。同時に喉元をなにかがせり上がってくる違和感に怯え、必死で吐き出そうと口を開くと白濁した液体と血の塊のような物が一緒になって飛び出してきた。

 鼻を使って肺で息をするということがこれほどまでに苦しく辛い物だとは思わなかった。

 自然と流れてくる涙を拭いながら押し寄せてくる波に逆らって泳いだ。

 喘鳴のような音を立てながら気管が唸る。

 それもやがて消え失せて、いつの間にか普通に呼吸している自分がいた。


 ――疾く。


 逸る気持ちが腕と足へ伝わると遠くに見えていたはずの陸地がどんどんと近づいて来る。自分が海と呼ばれている底で生まれ、育ったのだと誰にも教わっていないのに理解していることに疑問も抱かなかった。

 やがて足先に砂が触れ、水量が減る。両手が砂地に埋もれ、膝を突き四つん這いになった所で顔を上げて辺りを見渡す。

 白い砂浜。

 よく見ると灰色の砂と白い粒子でそれができていることを知る。


 ――生き物の骨。


 海の生物だけでなく、その中には陸の生物の物も含まれている。

 屍の滓でできている砂浜。

 その中に佇む己という存在はまるで異質な物のように感じられた。


 ――欲しい。


 この世界が穢れ、死しかなくとも。

 他の誰のためでも無く自分のために。

 指先に力を入れれば白い砂地に穿たれる禍々しい爪痕。


 サクサクサク。


 軽い音を立てて砂を踏みなにかが近づいて来る。ゆっくりと首を巡らすと視界の先に小さな生き物があった。それは二足歩行で体毛の無い身体をなにかで覆っている。上下に分かれたそれは色が違っていて、初めて見る者が見ても上等そうには見えなかった。

 小さな頭部には茶色の毛が生えていて、二つの金色の丸い眼の下に小振りの鼻と口がある。じっと眺めているとやがてこちらに気付いて驚きに瞳が見開かれた。

 その目にじわりと広がる怯えを、直ぐに湧き上がってきた好奇心が押し流す。

 死の浜を小さき生き物は歩き切り目の前までやってきた。


 その勇気に免じて。


「……疾く、参れ」

 喉を通り空気を震わせて耳に届いた自分の声は力を持たずに甲高い音を響かせた。思っていたような声では無かったことに失望しながらも、砂にまみれた手を伸べた。

「お姉さん、そんな格好で寒くない?」

 自分のそれより柔らかで高い声が“お姉さん”と呼んだことに目を瞬かせていると、小さな生き物は少し照れ臭そうな顔をして「服着てないし、ずぶ濡れだ」と手の届かない数歩先まで下がる。

「……着ていないと、おかしいのか?」

「そうだよ。特に女の人が着てないのは、ちょっとまずい」

「服とは……お前が身に着けているような物のことか?」

 問えば頷いて「俺の着ているのは襤褸だけど、ないよりはましだから」と答えた。

「そうか、ならば」

 足首に軽く触れ、そのまま膝、腿、腹、胸、首まで撫で上げながら身体を起こして立ち上がる。両手を空へと突き上げて光の帯を引き寄せて、具現化した光の衣を身に纏う。隠し損ねた部分が無いかを確認するために身体を捻ると、それにあわせて衣はふわりと色を滲ませながら軽やかに舞った。

「なにそれ……すごい。今のなに?」

 鼻の穴を膨らませて駆け寄った生き物の頭部に触れると、髪という体毛が見た目よりも柔らかく心地良いことを学ぶ。

 キラキラと輝く金の瞳と前髪の下の凛々しい眉を持つ存在が堪らなく愛おしく思えてきてそっと腕に抱き締めた。


 ――太陽の匂いがする。


 初めて嗅いだはずの匂いが狂おしいほど懐かしく感じた。

「贈り物だ」

「え?」

 怪訝そうな声を聞きながらこの世界での初仕事を終える。

 これが未来にどう影響するのか解らないが、例え立ち塞がる存在へと変わろうともたいした問題でもない。


 ――この世界を我が物とする。


 それは揺るがしようのない未来であり、絶対的な意思。

 死で作られた砂浜から始まる第一歩。

 これから全てが始まるのだ。


言祝ことほげ」


 海が歌う。

 砂浜が尊び、風が跪く。

 光が歓喜し、時がその瞬間を待ちわびる。


 これは世界の意思であり、覚醒を促したあの声の悲願でもあるのだから。

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