新生活はいきなり波乱
後顧の憂いはなくなった。
イドリスは足取り軽く、往来を行く。
途中親子がイドリスを見て、あれは何かと娘が問うと、母は見るなと諭す実に様式美の展開を見せてくれていた。
イドリスが不審者という以上に、見慣れぬ肌の色や髪色に戸惑っているのかもしれない。
現にアカデミアの門前で警備員に止められ、何度も身分確認させられもしたのだ。差別が常態化している中ではまだ序の口でしかなかった。
皇都中央行政区「ソール・ナシエンテ」の北側に広大な敷地面積を誇るアカデミアの一角にイドリスが目指すべき寮があった。
すでに「アストレイ・アストラル」で知っているから、特段驚きもしないだろうと思っていたら、やはり実際に実物を目にすると、馬鹿みたいに目も口も開いてしまう。
「すげ……皇都の高級ホテル並みじゃねえかよ」
意気揚々と入寮の手続きをしようと建物の中に入ったイドリスだが、何とコンシェルジュに襟首掴まれて、追い出されてしまった。
「ここはお貴族様の寮だ。おまえみたいなのが行くのは向こうだ」
コンシェルジュが指さす方向にはうっそうとした森が茂っている。もしかしたら、あそこで野宿生活をしろということなのか。抗議しようとしたが、コンシェルジュは言うだけ言うと、さっさと建物内に引っ込んでしまった。
イドリスはやむなく指示された方へと足を向ける。あんな森あっただろうか。イドリスは前世の記憶を確かめてみたが、あまり覚えていなかった。行ける場所はすべて踏破したと思ったのだが。
森を抜けるとそこには実に怪しげな建物が建っている。建物全体から怨念みたいな黒い靄が立ち上っているのは気のせいだろうか。さすがにこのまま入る気にはなれなかったので、まずは生贄を用意した。
「おい、リッチ、出番だぞ」
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! 元リッチのセラフィナちゃん、参上です!」
セラフィナを呼び出す度に煙が噴き上がり、さらに謎のポーズを決めてくる。しかもそのポーズがなかなかにダサいところが、イドリスの癇に障る。
「いい加減わたしの名前を覚えてくださいよぉ。セ・ラ・フィ・ナ。はい、リピートアフタミー」
「成仏したいときは言ってね。ちゃんと介錯してあげるから」
こめかみに青筋を浮かべたイドリスの手にはセラフィナのドロップアイテムだった刀「国穿」が握られている。わざとらしく鞘走る音を立てながら、刀を抜いていく様は、セラフィナには実に効果的だった。
「はっ! 申し訳ありませんでした。わたくしめのことは犬とでもお呼びください」
こう見えて、実はこのセラフィナ、生前は聖女だったそうな。あくまでも自己申告なので、どこまでが事実か、疑わしいところではあるが。
「それでマエストロ、わたしは何をすれば?」
「とりあえずあの建物に突撃してくれない? 怨念同士、なんか通じるものがあると思うからさ」
「おおう……あれはなかなか。わかりました。わたくしもかつては聖女だった身。彼らのお悩み、ババーンと解決してきます!」
勢いよく吶喊していくセラフィナだったが、すぐにボロボロになって戻ってきた。
「だめでした」
「へなちょこ」
労をねぎらうどころか、追い撃ちをかける主人の容赦なさに号泣するセラフィナを尻目に、イドリスは自ら怨念に近づいていく。鼻先に触れるほどまで近づいて、ようやく得心する。
「ああ、あんたらは貴族に将来を奪われたクチか。わかるよ、さぞかし無念だっただろうな」
イドリスが同情の言葉を口にすると、怨念の勢いは衰えた。
「とにかくさ、おれも今日からここに住むんだ。よろしく頼むぜ、先輩方」
イドリスの言葉に感応したのか、半ばモンスター化した怨念は少なくとも敵意を向けるべき相手ではないと判断したのだろう。イドリスは怨念に受け入れられた。
セラフィナを呼び戻し、寮の中に入ると、大きな張り紙があった。
「新入生は寮母室まで来るように」
随分と横柄な感じだが、こんなところで寮母をやっているのだとすれば、それは心もすさむだろう。人の心がわかると自賛するイドリスではあるが、寮母室に入って、自分が何もわかっていなかったことを思い知らされる。
「はあ……また来たの? 今年は平民がたくさん来るのね。しかも、あなた、『賤民』ってやつでしょ? その肌の色、ああ汚らわしい」
寮母は三十代後半から四十代半ばと言ったところ。最初からか、あるいは精神を病んで差別主義者に成り下がったのかは知らないが、寮母の瞳はどす黒く濁り、心の安定を欠いているのがわかる。
こういう手合いは誰かを見下し、自分を上に持ち上げることでしか、精神の安定を得られない。哀れだとは思うが、同情はできない。
「まあ、いいわ。ついてきなさい。部屋に案内してあげる」
とりあえず寮母としての責務はやるということだろうか。
しかし、それもまたイドリスの善意の解釈にすぎなかった。案内されたのは長年放置された用具室だったからだ。中の用具は劣化しすぎて、もう使い物にならず、ただのガラクタでしかなかった。
「あんたにはここがお似合いよ。それじゃ、わたしはもう行くわね」
立ち去ろうとする寮母の首に左手をかけると、そのまま壁へと押し当て、力を込める。
「あんたさ、理解してないようだから、わざわざ言ってやるけど、おれ、ギルドからの特待生って立場だよ。それわかってる?」
「だ、だから……何なのよ? それよりこの汚らわしい手を放しなさい。こんなことをして、ただですむと思ってるの?」
イドリスはさらに力を込め、寮母の首はさらに圧力がかけられる。
イドリスは何も怒っているわけではないのだ。寮母のような人間はとかく上下関係を気にする性質で、最初にどちらが上かを教えてやらねばならない。地位も権力もないイドリスにとって、唯一の武器は暴力だったからこそ、用いただけだ。
「ただですむと思ってるかって? そりゃ思ってないさ。おれもあんたも揃って破滅だよ。だって、ギルドとアカデミアで戦争になるんだしな」
何故そんなにも大事になるのか、寮母はわかっていないようで、形相をすごませながらも、頭の上には疑問符が飛び交っていた。
イドリスはため息をついて、今がいかに危機的状況にあるのかを懇切丁寧に教えてやった。
「まだわかってねえのか? あんたがやったことはな、ギルドの面子を潰すことなんだよ。あんたはアカデミアの指示でこうしてるんだろ? だったら、責任はアカデミアにあるってことだ。アカデミアが非を認めて、謝罪したら、あんたの立場はなくなるし、そうでなかったら、全面戦争になるってわけだ。ギルドは国家によらない組織だからな、何よりも面子にこだわる。徹底的にやるだろうよ」
ここに到ってようやく事の重大さを理解した寮母の顔が見る間に青ざめ、ついには紙のように白くなった。
しかし、イドリスの話はまだ終わっていない。
「でだ、ここからがさらにひどい話でよ、もし、もし仮にだ、アカデミアの指示じゃなくて、あんたの独断だったら、さて、どうなるかな? まあ、蜥蜴の尻尾切りってやつになるよな。こんな廃墟の寮母なんて、簡単に首を切られて終わりさ。上の連中がどんだけ血も涙もねえか、あんたは知ってるはずだよな?」
心的衝撃と酸欠で失神しかけている寮母はもはやほとんど聞いていないようだった。なので、イドリスは寮母を解放した。自由を取り戻した寮母は激しく咳き込んだ。
「で、もう一度聞くけどさ、おれの部屋、ここでいいんだよな?」
寮母は咳で答えることができず、その代わりに首を振ったが、イドリスはそれを無視して、意地悪く答えてやった。
「わかった。ここがおれの部屋だな。じゃあ、中のゴミを外に出すから、片付けておいてくれよな。それともあんたの部屋に持っていこうか?」
やはり寮母は首を振るが、今度もイドリスは見てない振りをした。
イドリスは用具室の中に入ると、片端からガラクタを外へと投棄した。寮母の前に次々とゴミが積み上げられ、山となる。
騒ぎが大きくなりすぎたのか、他の寮生が外に出てくるも、寮母の姿を認めるや、災難に関わりたくないと言わんばかりに部屋に閉じこもっていく。
用具室の中があらかた片付くと、今度は長年たまっていた埃を払うべく、イドリスは風魔法を使い、埃を外へと追いやった。その際、寮母にも大量の埃がかかったが、そこは甘受してもらうほかないだろう。いつまでもその場所に留まっているのが悪いのだから。
どうにか人が住めるだけの環境を整えたイドリスは未だ蹲る寮母の前にしゃがみ込み、満面の笑顔で入寮の挨拶をする。
「それじゃあ、これからよろしくお願いしますね」
わざわざ目を合わせるあたり、イドリスの性根は悪魔的ではある。寮母は震え上がったが、イドリスはさらにとどめを刺す。寮母も耳元でそっと脅す。
「別に上にチクってもいいぜ。この世界からあんたが消えるだけだ。そうなりたくなかったら、せいぜい仕事に励みな」
脅しとしては程度が低いが、今の寮母には効果がありすぎたと言える。泡を吹いて失神してしまったのだ。
イドリスは介抱もせずに用具室に入ると、そのまま寝てしまった。
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