第三章 春・集う星々
出立の日、隔離区にて
アカデミア入学式の前日、イドリスは入寮のために家を出なければならなかった。
その前に五万オーロもした制服を着、アイリンに披露する。
「あら、いいじゃない。さすがイドリスね、格好いいわ」
「だろ? ハウラのファッションリーダとしてはこのくらい着こなせてみないとな」
白を基調とした制服はイドリスの浅黒い肌の色とも相まって、実に映えて見える。
しかし、日々の服を選べるほどの余裕がない隔離区民としてはファッションを楽しむなんて意識はなく、イドリスのファッションリーダなんてものは痛々しい自賛でしかない。
そこはわかっているが、イドリスとしてはやはりアイリンを置いていくことが気がかりだった。イドリスは真摯な表情で、アイリンの目を見つめて尋ねた。
「それよりさ、おれがいなくても、ちゃんとやっていけるか? ポーション、ちゃんと毎日忘れずに飲んでくれよ」
「心配性ねえ。これじゃ、どっちが親か、わからないじゃない」
「たまに飲み忘れて、発作を起こしてる人はどなたでしたか?」
イドリスに図星を指されて、アイリンは頬を膨らませる。少女のような仕草だが、三十を超えてなお似合うというのが我が母ながら、魔性を感じる部分である。
「とにかく、エルマスおばさんにも頼んでおいたから、調子が悪いときはちゃんと寝てろよ」
「はぁい」
不貞腐れたかのように返事をするアイリンに、イドリスは本当に大丈夫かと勘ぐったが、もう出立の時間だ。遅れたりしたら、何を言われるか。
「じゃあ、おれはもう行くよ。休みの日は必ず帰ってくるから」
「わかったってば。それよりもイドリス、いってらっしゃい」
「行ってくるよ、お袋」
近所に出かけてくるような気軽さで、イドリスはアイリンの許を辞した。
そのまま外に出ようとしたところで、誰かとぶつかりそうになる。誰何の声を上げる前に、向こうがイドリスに声をかけてきた。
「お、イドリスじゃねえか? 久しぶりだな。って、それがアカデミアの制服か? アルスランのやつが随分と自慢げに話してたな」
立て続けに言葉を紡ぎ出す目の前の男に見覚えがなかったイドリスは首を傾げ、脳裏の人名辞典を必死に検索したが、ついに見つからなかった。なので、素直に尋ねることにした。
「あの……どちら様で?」
「お、おまっ! おれのこと忘れたってのか? おれだよ! セルハンだ! セルハン・テミルジ!」
イドリスは目を瞬かせた。今の自称セルハンはむしろ痩身で、顔もイドリスが妬ましくなるほどのイケメンであり、どうにも記憶の中にいるセルハンとはあまりにも異なる。あれだけの脂肪が少し会わなかっただけでどうやったなくなってしまうのか。それが不思議でならない。
ただでさえ少ない現実許容量を大幅に超したため、もうイドリスは思ったことを口にすることしかできない。
「いや、待て待て。おれの知ってるセルハンはな、節制できずにぶくぶく肥え太った豚だったぞ。あいつ、多分他の仲間から食い物奪ってたんだろうな。そんなだから、あいつ人望なかったし、実際仲間からも見限られてたしな」
「……おれがそのぶくぶく醜く太って、人望のないセルハンだよ! だけどな、迷惑かけてきたやつらには頭下げてきたぞ。半分くらいは許してくれなかったけどな」
「何だよ、その奇麗なセルハンは? そういうのは劇場版だけにしとけよ」
「ゲキジョウバン」とやらが何なのか、わからなかったセルハンは片眉を上げ、怪訝そうな視線をイドリスに向けるも、答えは聞けなかった。代わりにイドリスは深く息をつき、「変わり果てた」セルハンをまじまじと見つめた。
「それにしても、変われば変わるもんなんだなあ」
「おまえが体重半分になるまで痩せろって言ったんだぞ。でないと、アイリンさんに会わせないって言ったから」
「ああ……言ったなあ、そんなこと。で、おまえは約束を果たして、めでたく痩せたから、お袋のところに来たと?」
「言っておくが、まだおれは何もしてないからな。アイリンさんのところに来たのは彼女の力を借りるためだ」
「お袋の? 一体何の力を借りたんだ?」
「あれだよ」
セルハンが親指で隔離区の奥を指し示す。すると、往来する隔離区の民の何人かが何故か妙に明るい。まるで自ら発光しているかのようだ。この現象に心当たりがあったイドリスはあっと声を上げた。
「『スポットライト』か?」
「そういうことだ」
セルハンはどことなく得意顔で鼻息を荒くした。
まさかスキルのこんな使い方があるとは、さすがのイドリスも素直に感歎した。人間を光源にしようなど、ちょっと思いつかない。
その甲斐あってか、常に仄暗かった隔離区は仄明るくなっている。正直なところ、効果は微妙だと言わざるを得ないが、それでも変化は確実に起こっている。
セルハンは誰かの知恵を借りることもなく、自らの力で変革を起こしたのだ。それは称賛に値するものだろう。
「やるじゃねえか、セルハン。おまえのこと、ほんの少しだけ見直したぜ」
「これだけやってほんの少しかよ? だけど、まあ、そうだな、ほんの少しだ。まだまだこれからだ」
セルハンは頭を掻いて、増長しようとする自分を自ら戒めた。以前を知るものは誰もが困惑するだろう変化だ。
「イドリス、おれはな、この隔離区を変えてみせるぜ。今まで誰にもできなかったことをやるんだ。そう言うとおまえは笑うんだろうけどな」
「笑わねえよ。実際におまえは誰にもできなかったことをやったんだしな」
改めて隔離区を見渡すと、心なしか、人々の顔も多少は前向きになったように思う。紛れもなくセルハンの成果だ。
今のセルハンならば、任せられるのではないだろう。隔離区も、母も。
よもやセルハンに頼み事をすることになるとは思いもよらなかったが、意外と円滑に言葉が出た。
「セルハン、おれたちの故郷のこと……お袋のこと、頼むぜ」
信じられぬことを聞いたと、セルハンの目が大きく開いたが、すぐに会心の笑みを浮かべ、胸を叩いてみせる。
「任せておけ! おれがまとめて面倒見てやらぁ!」
何とも頼もしいことだ。皮肉でも何でもなくイドリスはそう思う。
ただ、懸念がないことはない。セルハンはそれをわきまえているか、今一度確認しなければならない。
「ただよ、お袋ももう三十だ。仮に今の病気が治ったとしても、あと十年だぞ。おまえは本当にそれでいいのか?」
隔離区の住人は奇怪な現象に見舞われる。四十になると死を迎えるのだ。前日まで大病もなければ、大怪我も負っていない健康な人間が、四十の誕生日を迎えた瞬間、命を失う。
これもまたタルタロス人に向けられた呪いなのかもしれない。種族全体にかかる呪術というものが一体何なのか、想像もつかないが。
しかし、イドリスの不安を吹き飛ばすかのように、セルハンは大笑した。
「それをなんとかするためにおまえは『アカデミア』に行くんだろう? 後ろは気にすんな! おれがなんとかしてやる!」
「まさかおまえに激励されるとはな。ほんと思いもよらなかったぜ」
「おれもだ。いつかぶっ殺してやろうと思ってんだがな」
イドリスとセルハン、お互いに顔を見合わせ、歯を剥くような笑顔を浮かべ、拳を合わせた。
この日を境に二人は盟友となり、生涯違えることはなかった。
しかし、イドリスはセルハンを義父とは決して呼ばなかったし、呼ばせなかった。その一線だけはどうしても譲れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます