これが洗礼ってやつかあ
ごく短時間の空中遊泳を強制させられたのは、誰かに尻を蹴飛ばされたからだ。
そう気づいたものの、反撃できるはずもなく、イドリスは着地の瞬間に身体を丸め、そのまま転がっていき、体操選手のようにフィニッシュのポーズを決めた。真っ直ぐ伸びた腕と体は完璧だったが、いかんせん足は跪くように曲げられていたので、高得点は望めないだろう。
だが、周囲の冒険者からは喝采の声が響く。どうにも彼らの受けはよかったようだ。
その喧噪を貫くようにイドリスの尻を蹴ったとおぼしき冒険者がダミ声で突っかかってきた。
「おい、ガキぃ! このドナト様の行く手を阻むたぁ、いい度胸だな! それに、なぁにコソコソ嗅ぎ回ってやがる、ああ?」
イドリスは振り返り、声の主を見た途端、身体が強ばった。そのドナトとやらに思わず見とれてしまったのだ。
「うーわ」
イドリスの目に映ったのはどう贔屓目に見ても「ザ・テンプレ小物」だったからだ。序盤のイベントで真っ先に死ぬような、もう存在そのものが「死亡フラグ」みたいな男である。
「鑑定」のスキルを使わずとも、ドナトがたいしたことのないのはわかる。首からかけるタグは「四等星」が刻まれており、このギルド内では最強の一角を占める実力者ではあるが、いかんせん皇都東支部のギルドは程度が低いことで有名であることからも、ドナトを始めとした冒険者の質も知れよう。
ここでドナトをたたきのめして、力の差をわからせてもいいのだが、異世界転生した偉大なる先人たちの真似をするだけなのも面白みに欠ける。
先輩冒険者に絡まれるという状況が二番煎じどころか、散々使い回された茶殻で淹れた白湯のようなものではあったが、イドリスはあえて目を背けた。
せっかく「当事者」になったのだから、別の方策を考えてもいいだろう。まずはドナトに尻を蹴飛ばされた落とし前をつけてもらうとしよう。
そのドナトはイドリスからの凝視に居心地が悪くなったか、あるいは喧嘩を売られたと思ったのだろう、さらに絡もうと身体を前に出したときだ、イドリスが突然土下座したのだ。それは世にも美しい土下座であり、イドリスはこの瞬間のためだけに生を受けたかのごとく、所作は洗練され、見るものの目を奪った。
「ごめんなさい! なんか緊張しちゃって、入るに入れなかっただけなんです! だから命だけはお助けを!」
ドナトからの視点ではイドリスが急に消えたように見えた。そのためイドリスの胸ぐらを掴もうと思った手は宙を切り、前に傾いた重心はドナトの足に蹈鞴を踏ませる。
あわやドナトの爪先がイドリスの頭に引っかかろうとしたとき、周囲の冒険者が危険を知らせる警告の声を発した。イドリスはそれに応じたように半身を勢いよく起こすと、彼の頭は無防備なドナトの腹を衝いた。
「ごへぁ!」
汚らしい悲鳴を上げたドナトの不幸はまだ終わらない。周囲に悟られないようイドリスが頭をさらに上げると、ドナトの身体は奇麗な正規曲線のような軌道を描きながら空中を飛んで行き、受け身を取ることもなく顔面から着地した。
打ち所が悪かったのか、何本か歯を折ったらしいドナトは身体を痙攣させ、そのまま動かなくなってしまった。イドリスは何が起こったのか、わからないという体を装いながら、さすがにやり過ぎたかと小指の爪の先ほど後悔した。
さて、こいつはどうしようかと悩んでいると、周りの冒険者がイドリスの周囲に集まって、口々に称賛してきた。
「やるじゃねえか、坊主!」
「何かあったら、おれらに言えよ。全員が証言してやるからさ。あいつから突っかかってきたってよ」
「おれ、あいつ嫌いだったんだよな。スカッとしたぜ」
イドリスは冒険者たちに卑屈な笑みを浮かべて応じる一方、心の中で舌打ちした。ドナトの社会的信用を徐々に落としてやろうと画策していたのに、すでに二番底すら割っているようで、おもちゃとして遊ぶにはあまりにも壊れすぎているのが面白くない。
そんな邪悪な内心を押し隠し、ドナトの後始末をどうすべきかを改めて悩んでいると、その考えを見透かしたような声が奥からかけられた。
「あ、そいつ、そのままでいいよ」
イドリスは首を巡らせて、声の主を探せども、姿が見えない。すると、またイドリスの心情を察したかのように声がかかる。
「こっちこっち」
声のしたほうを見れど、そこは一面の壁。何とも異様な違和感を覚えて、首を傾げたとき、不意に天啓が訪れた。
「あれ? 確かあの辺りって、受付のカウンターがあるところじゃね?」
そう、入ったときから違和感があったのだ。前世の記憶では冒険者ギルドの建物はほぼ同一であった。違うのは調度くらいなものか。
よく見ると、壁には半月形の穴があり、声はそこから漏れ出ているかのようだ。近づいてみると、より声は鮮明に聞こえた。
「やあやあ、少年、不特定職業座こと冒険者ギルドへようこそ! キミとは初対面だから、自己紹介しようじゃないか! ボクこそが空前絶後! 天上天下唯我独尊! 超絶ナイスバデーの美少女受付嬢、パウラちゃんだ!」
「……見えないんですけど」
「ツッコミが遅い! いいかい、少年? ボケたらツッコむ! これが人間関係の基本だよ! ボクのボケを生かすも殺すもキミ次第だというのに、何という
パウラの声が震えているが、実際に身体も震えているのだろう。怒りによるものか、興奮したのか、どちらにせよ知りたくもないが。
面倒くせえなあ、もう。何もかも嫌になって、帰ろうかと思って踵を返しかけたときだ、穴から手が伸びてきて、イドリスの襟首を掴んだ。
「おいおい、少年、今、ボクのこと面倒だと思っただろう? 面倒な女って理由でフラれたボクの気持ちがわかるかい? わからんよなぁ! あの野郎、てめえの浮気を隠すためにボクのこと面倒だと言いやがったんだぞ! これが許せるか、いや、許せん!」
「最後の、おれ関係ないですよね?」
「いいや、関係あるさ。なんたって、ボクのこと、面倒な女って思ったんだから。ボクの周囲百メートルに思想の自由があると思うなよ!」
過去にサンタ・エストレア皇国にも暴君は出現したが、思想の自由を侵害したことはない。そう考えれば、確かにパウラは空前絶後と言えるのかもしれなかった。
「ディエゴさん! この子捕まえて! ふふふっ! 逃がさへん、逃がさへんでぇ!」
救いを求める視線を周囲に投げかけるも、イドリスを助けるどころか、面倒に巻き込まれるまいとあからさまに背を向けている。先ほどまでの友好的な感じはどこへ行ったというのか。
イドリスは即座に彼らが頼むに足りないと判断すると、自力で逃れようと藻掻いたが、襟首を掴むパウラの指はまるで服と一体化しているかのようにびくともしない。無理をすれば、外出用にと奮発した一張羅が破れてしまうだろう。
イドリスが無駄な努力を続けていると、奥の扉から二メートルを優に超えるであろう巨漢が現れる。
長身もさることながら、目を引くのは大きく開かれた胸元だろう。彼はわざとシャツのボタンを外しているのではない。ボタンが留められないほどの分厚い大胸筋を見て、イドリスの口からつい欲情の声が漏れた。
「うほっ」
そう言ってしまってから、慌てて首を振った。自分はいたってノーマルなはずだ。多様性を謳いながら、画一の価値観を押しつけ、意に沿わぬものは差別主義者とのレッテルを貼り、言論弾圧をしてくるポリコレテロリズムに断固抵抗する一般人である。
なのに、迫り来るディエゴの大胸筋から目が離せない。
さらに「ミュージックプレイヤー」が否応なしに雰囲気を盛り上げる。奏でられるのは「漢囃子~オレとおまえと入道雲~」だ。和太鼓とエレキギターの合奏と男衆による「はっ!」、「ほっ!」、「そいやっ!」のかけ声がなんとも勇ましい。
目と耳から入ってくる情報量が多すぎて、処理能力が破綻したイドリスにはもはや逃げるという判断すら麻痺してしまった。
「や、やめっ……やめろぉ! あ! 待って、お願い! 何でもしますから! あっー……」
鼻に触れるくらいまで近づいたディエゴの「雄っぱい」が、イドリスが失神する直前に見た最後の光景だった。
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