呼んでもないのに、客と敵はやってくるわけで

 すぐ背後まで近づいても、誰一人として気づいてくれなかったので、自分自身の存在感のなさを思い知らされたイドリスは自己憐憫の海に溺れかけた。


 どうにか現実の岸辺へと上がり、我に返ると、まだ自分に気づいてない「ぼんくらども」に腹が立って、つい不愉快そうな声を彼らの背中にぶつけてしまった。


「おい、てめえら、何で中に入らねえんだよ? そこに突っ立ってられると、邪魔」


 イドリスの声を耳にした彼らの反応はちょっとした見物であった。全員、その場で直立したまま、飛び上がったからだ。重量級のベルクでさえ、五センチほどは浮き上がっただろうか。


 わずかに溜飲を下げたイドリスだったが、その後がよくなかった。イドリスが来たと知るや、全員が詰め寄って、口々に好き勝手に唾を飛ばしながら言うものだから、イドリスも辟易して、それぞれの額に手刀を叩き込んだ。


 アルスランにはひときわ強く叩いたが、集団を率いる立場でありながら、腰が軽いのをとがめるためにあえてそうしたのだ。含むところがあるわけではない、決して。


「おれは聖徳太子じゃねえんだよ!」


 聖徳太子は同時に発せられた十人の声を聞き分けられたという逸話を知るよしもないこちらの住民たちの頭の上に「?」の文字が踊る。当然の反応だったので、イドリスは聖徳太子についてこれ以上言葉にすることなく、代わりにアルスランへと向き直り、事の子細を尋ねた。


「はい、アルスランのアニキに質問です。何があった?」


「え? いや、その……」


 アルスランが言い淀んだのは、急に話を向けられたからだけではないだろう。事情を話したら、イドリスから責められると、アルスランは思っているのだ。


 しかし、この状況で言い逃れさせるほど、イドリスは優しくない。イドリスの冷酷な一面を知悉しているアルスランは数秒ほど沈黙した。その内部で激しい葛藤が起こった後、意を決して、話し始めた。


「それが……セルハンが教会にいるんだ。それでおれたち、中には入れなくて……」


 アルスランの言い訳にもならぬ弁明を聞いて、イドリスは盛大にため息をついた。


「アニキさあ、おれたちの頭なんだから、少しはしっかりしてくれよ」


 先ほどからイドリスがアルスランのことを「兄」と呼ぶのは乳兄弟だからだ。イドリスを産んだ後、乳の出が悪かったアイリンに代わり、乳母を買って出てくれたのがアルスランの母エルマスだった。


 乳児のイドリスと幼いアルスランを抱え、隔離区に一件しかない酒場兼食堂を一人で切り盛りし、客とも言えない破落戸どもの相手をする。そんなエルマスにイドリスは頭が上がらず、店の手伝いを率先的に行ったり、外で採ってきた食材を無料で呈したりしている。


 エルマスの実子であるアルスランだから、イドリスは彼を兄として、この一団のリーダーとして立てているというわけではない。他に事情があった。


「何度も言ってるけど、おまえがその気になりゃ、おれやセルハンなんて瞬殺できるんだからな。もっと自信持て」


「そうは言うけどさあ……」


 アルスランが吹っ切れないのは、偏にイドリスへの劣等感があるためだ。つい最近十歳になったばかりだというのに、妙に大人びて、斜に構える一方、知識量はそこらの大人を凌ぎ、喧嘩巧者の上に魔法も使えるとあってはもう嫉妬するほかない。


 イドリスも少しやり過ぎたとは思っている。アルスランが自身へと鬱屈した感情を向けていることも。イドリスも前世では同じような思いを抱えていたこともあったからだ。


 だからこそ、常日頃からアルスランを宥め賺し、鼓舞したりしているのだが、今のところ、うまくいってはいない。アルスランのような手合いは危機的状況にあってこそ、開花するもので、いずれは舞台を用意する必要があるだろう。


 イドリスがここまで手間をかけるのは、いずれ袂を分かつことになるからだが、その時、アルスランたちが自分自身の生き方を選べる力を得るようになってもらわないと、安心して我が道をいけないではないか。


 だが、今はアルスランの奮起を促せる状況ではないようだ。イドリスはやむなく教会に居座るセルハンへと事情を聞く役を請け負うことにした。


 一人屋内に入ると、足早にセルハンの許へと向かう。イドリスに気づいたセルハンが口を開く前に、口火を切った。


「よお、セルハン。こんな朝早くからお参りなんて、ずいぶんとご立派になったじゃねえか? どういう風の吹き回しだ、あ?」


 すでに喧嘩腰のイドリスの挑発に、セルハンは乗ってこなかった。むしろ、憑き物が落ちたかのようにその瞳は静謐さを湛え、真摯にイドリスに向き合っているかのように見える。奇麗なセルハンというのもなかなかに気色悪いものではあったが。


「今日、ここでおまえらが集会を開くって耳にしてな、ちょっと話を聞きたいと思っただけだ。邪魔はしねえから、ここにいさせてくれ」


 イドリスは己の迂闊さを呪った。イドリスたちがこれから行おうとしている「隔離区環境改善」には多くの人手が必要となるため、派閥を越えて、声がけしたのだ。無論、セルハンとその一味には声をかけていないが、セルハンに近しいものから、耳に入ったようだ。


 アスリに伝令を任せたのもまずかった。アスリの交友関係はイドリスの予想を超えて広いらしく、隔離区内の同世代とはほぼ知己であるらしい。これで人心掌握系のスキルを持っていないというのだから、アスリは天性の人誑しなのだろう。


 今回、アスリには何の責任もない。イドリスがセルハン一派以外なるべく多くの人にと指示を出したことが原因なのだから。


 回り回って、自分に責任が返ってきたイドリスは一つ頷いて、忘れることにした。責任を追及することに一体何の意味があるというのか。もっとも、別の誰かが失態を犯したら、鬼の首を取ったかのように責め立てるが。


 ひどい二重基準ではあるが、イドリスは気にしない。矛盾だらけの世界に小さな矛盾がさらに一つ加わったところで、どうと言うこともないはずだ。要はセルハンをおとなしくさせていればいい。


「わかった。静かにしてるんだったら、いてもいい。だが、昨日の言葉を忘れてねえよな? 邪魔したら、次はねえってのは、おまえにもわかるように言ってやると、次は殺すって意味だ。おれとしちゃ、おまえが暴れてくれるほうがいいな。今度こそ、後腐れなくやれるからな。ああ、安心しろ、おまえが寂しくないようにおまえの家族も仲間も根絶やしにしてやるよ」


 イドリスの脅迫の九割ほどブラフではあるが、一割は本気でもあった。もうセルハンに煩わされるのは正直面倒になってきていたのだ。これ以上負担になる前に、原因には疾く退場してもらおうとの心情もある。すでにイドリスは自身の手が血に塗れることを覚悟していた。


 セルハンもこう露骨に脅されれば、心穏やかではいられない。歓迎されるとは思ってなくても、こう拒絶されては立つ瀬がないのだ。手下を連れず、単身で乗り込んできたのは、戦う意思のないことの表明であり、イドリスたちへの誠意でもあったのだから。


 両者の間に緊張の火花が飛び散った。一秒ごとに火花は大きさと数を増していき、より破滅への空気が高まっていく。


 あわや破局になろうかとする寸前、温和で声の通る第三者の声が緊張の空気を掻き消した。


「おいおい、殺すだの、根絶やしだの、物騒だな。ここはこんなのでも、一応教会なんだから、静かにお祈りする人の邪魔はしてはいけないよ」


「いやだな、先生。ここの連中が静かにお祈りしてるとこ、見たことないんですけど?」


「そういうこと言ってるんじゃないんだよなあ……」


 イドリスに先生と呼ばれた中年男は疲れたようにため息をつく。彼の名はペドロ・デ・ラ・ベルトランといい、かつてはベルトラン伯爵家の嫡子だったらしいが、貴族社会に嫌気が差して、家督を弟に譲り、自らは出家したという経歴がある。


 神の庭にて、安寧な日々を送れると思ったのもつかの間、聖所も世俗と同じく「政治的喧噪」に満ちていた。ペドロは「神々は絶対ではない」との立場を取るラファエル派に属していたが、神を絶対視するガブリエラ派から神々を否定するものと異端視扱いされ、ことごとく要職から逐われ、僻地へと追いやられてしまった。


 ペドロは何も神を否定しているのではない。疑惑と疑念の先に真の信仰があると信じているだけだ。疑い尽くして、最後に疑え得ぬもの、それこそが信仰であるとのだと。


 御説もっともなれど、神の威光が薄まれば、教会の権威もまた落ちるわけで、天の代行者を気取る上層部からすれば、甚だ不都合であるというわけだ。


 かくして、政争に負けたペドロはハウラ隔離区へと「飛ばされた」というわけだ。さらに教区長でありながら、祭司長ではなく、祭司のままであり、赴任した先は信心などとはほど遠い人面獣心の徒が住まう場所だった。これでもまだましなほうで、ベルトラン伯爵家からの多大な寄進がなければ、ペドロもまた他と運命をともにしただろう。


 ペドロにとって、唯一の慰めはイドリスに出会ったことだろう。鑑定スキルを持つペドロはイドリスが転生者であることを知り、神の御業でしかなしえない奇跡に打ち震え、信仰をより確固なものとしたのだ。


 イドリスもまた「鑑定」や「隠蔽」などのスキルを惜しみもなく教えてくれたペドロに師事し、心底から師を尊敬している。


 スキルは誰かから教えてもらうほか、「技能取引所」、通称「スキル屋」から買うしかないわけだが、商人に必須の「鑑定」は金があっても、希少性故に滅多に買えるようなスキルではない。その意味ではイドリスは二重に幸運であった。


 その上、スキルはスキルレベルという概念があり、「鑑定」も「隠蔽」も使い続ければ、上位スキルへと派生していく。


「鑑定」は「鵜目」、「鷹目」、最終的には「天眼」となり、「隠蔽」は「改竄」というスキルに枝分かれもするが、それぞれ姿をくらませる、他人になりすますなど、さらに有益なスキルとなっていくのだ。


 Win-Winな関係と呼ぶにはあまりにもイドリスが得をしている。イドリスもそれを自覚しているからか、ペドロから洗礼を受け、足繁く教会に通ったあげくに会合場所にしたが、今のところ、洗礼者はイドリス一人という有様だ。


 ただ、今回は他の勢力にも声をかけた。彼らの中から物好きが帰依してもいいと考えるものが一人二人いるはずだ。


「というわけで、今日も教会使わせてもらいますよ、先生」


「何が『というわけで』なんだか……」


 イドリスの事後承諾にはいつまで経っても慣れそうにないペドロだった。

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