平和主義者の喧嘩

 イドリスは平和主義者を自称している。


 同時に文明人との自負もある。


 イドリスの考える文明人の要件は、話し合いで物事の解決を図れるというものだ。

 それ故に、いきなり短絡的な行動を取ることはなかった。


 相手がいかに話の通じなさそうな半オークのような存在だとしても、人語を解する以上、説得できる可能性はゼロではないはずだ。


 そう思って口を開きかけた矢先、今までアイリンを賛美していたセルハンが突然話題を変えてきた。


「おまえにだって、悪い話じゃねえだろ? アイリンさんの面倒はおれか、おれの家でできるし、おまえはおれの右腕になれる」


 最後のは心底いらないと思いつつ、イドリスが話の腰を折らなかったのは口を挟む暇がなかったからだ。それが災いとなって返ってくる。


「いや、右腕っつーか、親子になるってわけか?」


 毒々しい極彩色の未来、セルハンが継父になる可能性を失念していたわけではなく、イドリスは無意識のうちにその考えを封印していたのだ。その封印が解かれ、名状しがたきものがあふれ出る。蟻走感に襲われたイドリスは悲鳴を上げた。


 その悲鳴があまりにも高音域だったので、モスキート音となって、包囲の手下たちの鼓膜を殴打する。イドリスの攻撃かと耳を塞ぐも、追撃がなく、ただこの世の終わりを見たかのような形相で叫んでいるだけだったので、彼らも戸惑い、次の行動に移せずにいた。


 やがて息が続かなくなったイドリスが叫ぶのを止め、荒々しく息をしながら、呼吸を整えることもせず、セルハンに怒声をぶつけた。


「ざけんな! てめっ! この……くぁwせdrftgyふじこlp!」


 激情のあまり、古のネットミームがイドリスの口から迸る。その後もどこの国の言語かわからない言葉で何やら怒鳴っていたが、イドリスの心情を理解できたものは皆無である。


 一通り吐き出した後で、イドリスも少し冷静さを取り戻した。その耳元で悪魔が囁いた。盤面をひっくり返す一手を。


「はあ……セルハンよお、お袋をくれって言うけどよお、おめえ、おれより弱えのに面倒見れんのかよ?」


 冷静に考えれば、介護に喧嘩の強弱は必要ないが、強さが序列を決める社会にあっては存在の全否定とも取られかねない。現にセルハンの顔から余裕が失われ、代わりに憤怒が頬の脂肪を波立たせた。


「てめえ……おれが弱いってのか?」


「そう言ってんだよ。だいたいおまえ、おれに何度負けたよ?」


「この野郎、言わせておけば……」


「んじゃ、話はこれで終わりだな? おれも失礼させてもらうぜ」


 イドリスは踵を返し、無防備な背中をセルハンに晒したまま、その場を後にしようとした。言うまでもなく、これは誘導だ。イドリスはセルハンのある一面を知悉している。腹の脂肪と同程度の自尊心を持ち、代々区長を務める家に誇りを有している。侮られて、黙っている性格ではない。


「お、おめえら! イドリスを止めろ! 少しくらい痛めつけてもかまわん! 親に逆らうガキには躾が必要だからなあ!」


「キッショ! 何勝手に親になった気でいやがる? それにこの流れだと、普通タイマンだろうが?」


「うるせえ! 人を使うのも強さのうちだ!」


 正論である。それだけに不愉快でもあった。特にセルハンがほざくと殊更に腹が立つ。


 無駄な会話をしている間にも包囲の輪は狭まろうとしていたが、わざわざ完成させてやる義理はない。前世での愛読書にも書いてあったように、完成されない包囲網は各個撃破の好機であると。イドリスはそれに倣うことにした。


 イドリスは跳んだ。泥濘でも確固たる床を行くがごとく疾駆できるのは「歩法水面渡り」というスキルがあるからだ。効果は地形による移動速度減少なし、および、水面を短距離駆け抜けることができるというものである。


 まずは包囲の一角を崩す。狙うのはセルハン一派の古株だが、セルハンは名前すら覚えていないだろう。イドリスも忘れている。なので、勝手にウノと名づけることにした。


 ウノはイドリスが近づくと、ボロボロになった木の棒を突き込んだ。突き込んだはずだが、そこにイドリスはおらず、ウノが意識を失う最後に見たのは誰かの靴底だった。


 イドリスは前に跳んで、棒を躱すと、そのままウノの顎をめがけて、跳び蹴りを食らわせたのだ。カウンターのような形となり、ウノは自分がやられたことすら気づかずに汚泥に倒れ伏す。


 イドリスはウノが倒れたかどうか確認することもなく、次の狙いを定め、これもまた一撃で卒倒させる。


 多対一の状況を作り出さない。イドリスは徹底して、一対一の状況を保ちながら、一人、また一人と潰していく。


 イドリスは自分の力を試すかのように、それぞれ異なる技を使い、倒している。彼らはいずれも強力なスキルを持っていたが、やはり呪いのようなマイナススキルのせいで十全に力が発揮できず、長所も欠点もわきまえているイドリスの敵ではなかった。


 おまけにミュージックプレイヤーも雑魚戦、それも序盤に出てくるような弱敵との戦闘時に流れる「通常バトル1」という素っ気ないタイトルの曲で、それがまたイドリスに余裕を与えている。


 セルハンを除く十二人が地に伏すまでそれほどの時間はかからなかった。かつては二十人以上を数える大所帯だったが、今となっては昔日の影もない。病気などで倒れたものがいるが、イドリスも積極的にセルハン一派の切り崩しを行っているからだ。実のところ、今倒した連中の半分も、イドリスとの接触があったりもする。


 さほど息を切らすこともなく、イドリスは不敵な笑みを浮かべ、セルハンと向き合った。


「で、どうするよ、セルハン? つーかさ、なんでおまえが最初に出てこないの? おれらの喧嘩に巻き込まれたこいつらがかわいそうだと思わないの?」


「うるせえな。頭ってもんは後ろでどっしり構えているもんだろうが」


 これもまた正論と言えば、正論だろうが、セルハンだけの利益のために戦った手下たちは浮かばれない。


 反面、イドリスも言うほど同情はしてないのが度し難いところだが、そもそも彼らには選択肢があるのだ。セルハンの元を離れ、イドリスたちの庇護を求めるのもよし、あるいは中立的な第三者集団としてまとまってもいい。


 そうしないのは、彼らが好き好んでセルハンの下に居続けているということに他ならないのだから、多少の不利益は甘受するべきだろう。


「ふん! 役に立たねえやつばかりだ。おれの手を煩わせるとはな」


「うわぁ……」


 人を顧みない屑発言にイドリスもドン引きである。ここで雌雄を決せずとも、早晩、セルハン一派は空中分解することだろう。


 しかし、すでに引き返せないほど、両者の間で戦闘の気運が高まっていく。ミュージックプレイヤーは「ブレイク・ザ・ウォール」という曲を流し始める。序盤のボス戦時に流れる曲だ。アップテンポな曲調は、イドリスの闘志を沸き立たせた。


 緊張が限界に達するやいなや、イドリスが先に動いた。セルハンの体格からして、先制するのは難しかっただろうが、イドリスの行動には反応していた。真っ直ぐ向かってくるイドリスに手を伸ばすセルハンだが、その手は空を切り、イドリスの姿を見失う。


 捕まったら最後、膂力に関しては右に出るものがいないセルハンの手を避けたイドリスは巨体の左脇腹へと潜り込んだ。セルハンのベルトを握ると、大きく足を引いて、身体を開き、そのまま前方へと投げた。相撲で言うところの出し投げである。


 重心が前へと移っていたセルハンはたまらず前へとつんのめり、顔面から泥濘へと突っ込んだ。全身泥まみれになりながらも、すぐさま立ち上がり、顔についた泥を手で拭って落とす。その顔には屈辱を与えられたことへの怒りに満ちている。


 その程度では倒れないことを知っているイドリスは今さらセルハンの頑強さに感嘆することはない。


 セルハンが持つスキルは主に二つ。一つは「豪腕」。その名の通り、力にプラス補正されるが、もう一つ意味がある。強引に物事を推し進める力というものだ。人望も人徳もないセルハンが人を従わせられるのはこのスキルのおかげというわけだ。


 もう一つが「鉄壁」。防御力、体力にプラス補正がつく。素の防御力、体力も秀でているセルハンにプラス補正がつくとなると、生半可な力では傷一つつけることすらできない。造反が起きないのも、セルハンに対抗できるだけの力を持つものがほぼいないからだ。


 他方、セルハンには「鈍重」、「逆上」の二つのマイナススキルも持っている。


「鈍重」は素速さ、器用さに大幅なマイナス補正がかかり、「逆上」は攻撃力を上げる反面、冷静な判断を失うというものだ。


 特に「鈍重」は致命的でもある。その肥満体も相まって、ほとんど動けないのだから。捕まれば最後だが、セルハンに捕まるものは皆無であると言っても過言ではない。それ故、距離を取って、遠距離攻撃を仕掛ければ、いつかはセルハンも倒れるだろう。


 それじゃ面白くないし、セルハンも納得しないだろう。イドリスはセルハンの長所も短所も知悉していた。だからこそ、完封を狙うのだ。


 イドリスは再度先制する。イドリスのステータスは概して低い。攻撃力と防御力に到ってはセルハンの一割にも満たない。イドリスの物理攻撃は何一つ効かないだろう。


 ならば、やるべきことは一つ、魔法をもって攻撃するしかない。イドリスの掌と指先に風が集まっていく。始めはそよ風程度しかなかったそれは一瞬で極小の竜巻へと変じた。


 イドリスはセルハンの懐に飛び込むや、大きく膨れ上がった腹に両手突きを叩き込んだ。次の瞬間、セルハンの背中から衝撃波が飛び出した。内臓を散々掻き回されたセルハンは大量の血を吐き、白目を剥いて、膝から崩れ落ちる。そのままうつ伏せに倒れ、盛大な泥飛沫を上げた。


 どのくらい経っただろうか、セルハンが息苦しさを覚えて、意識を取り戻したとき、顔の半分が泥に埋もれていることに気づいた。忌々しげに口の中に入った泥を吐き出すと、起きようとするが、身体は微動だにしない。背中にかかる重みを感じて、顔だけを動かすと、視界の端にイドリスがセルハンの身体を椅子にしているのが映った。


「て……てめえ、何をしてやがる?」


「うわ、もう起きた。どんだけ丈夫なんだよ」


 イドリスは驚く体をしながらも、セルハンから降りる気配はない。重心を巧みに押さえているので、セルハンがいかに強かろうと藻掻くことすらできずにいた。


「なあ、セルハン?」


 イドリスの口調が変わり、その声には真剣なものが含まれていた。何故か重要なことだと察したセルハンは軛から逃れようとするのを止め、イドリスが放つであろう次の言葉に耳を傾ける。


「おまえさ、このままでいいのか?」


「どういうことだ?」


「見てみろよ、この様を」


 イドリスが顎で指し示した先には、荒廃した隔離区があった。いつも見ている風景なのに、このときだけは何か寒々しいものを感じたのか、セルハンの身体はぶるっと震えた。


「おまえ、次の区長様になるんだろ? こんな未来のない状態を続けていくつもりか?」


 セルハンは反論できなかった。ただ目を見開き、眼前の惨状に息を呑むだけだ。


「おれはもうおまえとは喧嘩しない。そんな暇ないからな。おれらはこの環境をどうにかするために動く。おまえらがここで時間を潰しているだけだってんなら、邪魔はしない。だから、おまえらもおれらの邪魔をするな。次はねえ。覚えておけ」


 突然、セルハンの背中から重さが消えた。緩慢な動作で立ち上がったセルハンの視界には立ち去るイドリスが見える。追いかける気にはなれなかった。


 完膚なきまでに負けた。遅効性の毒のように心の中に敗北感が広がる。口の中になおも残る泥の味がひどく苦く感じる。


「くそっ!」


 苛立ち混じりの声を上げるも、セルハン自身それがむなしいものに感じていた。


 一体何に苛立っているのか、自分でもわからなかった。

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愛じゃ世界を救えないので、「主人公」のフラグを全力で折りにいきます! 秋嶋二六 @FURO26

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