最悪の斜め上、捻れを添えて
もし、事情を知る第三者がいたら、イドリスの行動に疑問を抱いただろう。
イドリスの目的はあくまでもアルスランとベルクの救出だったのだから、目的を果たした今、さっさと逃げ出せばいいのではないかと。
そう問われたとき、イドリスは憮然としながら、こう答えるだろう。
「それができりゃ、苦労しねえよ」
ハウラ区には特殊な不文律が存在する。「引き合い」である。取引と言い換えてもいい。誰かに何かをしてもらったら、等価の行動で応じなければならないというものだ。
この等価の解釈で揉めることもあり、システムとしては破綻しかけているが、それでもこの底辺の場所では、一定の秩序をもたらしてはいる。
イドリスはセルハンにアルスランとベルクの解放を要求し、それは果たされた。故にイドリスはセルハンの要求を聞かねばならない。あくまでも聞いてやるだけだ。妥当な要求ならばまだ考えもするが、過大なもの、例えばイドリス自身と仲間、もしくはその家族の命を欲するものだったら、もう容赦しなくていいだろう。
一秒もこんな場所に留まりたくないイドリスは本題に切り込んだ。
「で、おれに何の用なんだよ? アルスランとベルクを連れ去ってまでこんな回りくどいことをしたんだ、さぞかし大層なことなんだろうな?」
イドリスの腹心と目されているアルスランとベルクを拉致すれば、必ず助けに来るとの算段があったのだろう。小悪党が知恵をつけるとろくなことがない。これ以上、セルハン一味をのさばらせないためにも、ここで一度徹底的に叩き潰す必要がある。
すでに臨戦態勢に入っているイドリスの声にはかなりの棘を含んでいた。
反面、セルハンは二百キロをなんなんとする巨体を丸め、赤面しながら、指を突き合わせて、もじもじしていた。その気色の悪い光景に、イドリスの戦意を削がれ、怖気が背筋を上下する。
やがて、セルハンはか細い声で何かを呟いた。
「アイ……結……させて……」
「あらあら、どうしちゃったの、セルハンくん? お声がちっちゃいですよお?」
イドリスがわざとらしく耳に手を当て、身を乗り出してくる。その扇動が気に入らなかったのか、セルハンは顔を羞恥ではなく、怒りで再度赤くし、大きく息を吸った。一拍間を置いてから、巨大な腹にたまった思いの丈を声に乗せて、イドリスにぶつけてきた。
「おれは! アイリンさんを嫁にしたい! だから、彼女の気持ちを聞いてこいって言ってんだ!」
セルハンの咆哮がイドリスの身体を貫いた。あまりにも泡を食う告白だったので、脳が理解を受容しなかったが、身体のほうが拒絶反応を示し始めた。総毛立った肌は熱病にかかったかのように震え、冷たい汗が泉のごとく湧き出てくる。
さらに過呼吸に苦しめられつつ、イドリスはどうしても問い返さざるを得ない。できることなら、ここから遁走して、そのままベッドに潜り込んで、夢の世界へと逃避したいのだ。なのに、足の裏に強力な接着剤でもついているかのように地面から離れられない。逃げられないのならば、立ち向かうほかないではないか。
「わ、悪いんだけどさ、今何て? お袋がどうとか言ってたけど、気のせいだよな?」
「お、おまっ! オレ様の一世一代の告白を聞いてなかったってのか?」
「ごめんて。ほ、ほら、大事な告白に聞き間違いがあったらいけないからさ、もう一度確認しておきたいなあと」
「そういうことなら、しょうがねえな。もう一回言うから、今度は聞いておけよ」
二度目ではあるが、それでも緊張するのだろう、セルハンは顔を赤くして、しばらく沈黙を保った。セルハンが赤面しているのが気色悪かったので、イドリスは松明の炎が反射して、そう見せているのだと思い込むことにした。
自分自身を騙すのも最近難しくなったと嘆いたとき、セルハンは重い口を開く。
「おれはアイリンさんと結婚したい。そう言ったんだ」
聞かなければよかった。聞き返そうと思った数分前の自分を心底呪い、憎悪した。同時にひどく混乱して、イドリスの精神力はゼロを通り越して、虚数の域へと落ち込もうとしている。
それでもイドリスは問わねばならない。何がどうなって、こうなったのかを洗いざらい吐いてもらうまで。
「いや、ちょっと待ってくれ。おまえとお袋、いつ接点があった?」
「接点? ああ、出会いか。出会いならあったさ」
「やっぱいい。聞きたくない。言うなよ、絶対言うなよ!」
「あれはある冬の日だった、おれは……」
「クソが!」
よもやセルハンが日本の伝統芸能「押すなよ、絶対押すなよ!」の返し方を知っていたとは思いもよらず、イドリスは口汚く罵ることしかできない。しかも、面罵ごときで止まるセルハンではなく、情感たっぷりに当時のことを語っていく。
長く、要領を得ないセルハンの話を要約すると、こうなる。
夜、眠れなくて、徘徊していると、いつしかイドリスの家まで来てしまっていた。引き返そうとしたとき、窓を開ける音がしたので、振り返ると月光を浴びたアイリンが佇んでいたというのだ。セルハン曰く、まるで月の精のようだったという。
なおも続くセルハンのアイリン賛美ではあるが、イドリスの耳にはもう何も入ってこない。不幸な偶然が重なった結果、今があると思うと、運命を司る何かに恨み言の一つ、いや、百個くらいぶつけたくもなる。
アイリンには厄介なスキルを持っている。一つは常時発動型スキル「スポットライト」である。効果は自然光がアイリンを照らすというものだ。どんな場所にいても、どこからともなく光が入ってくるのは恐怖でしかないが、先だってのアスリとの茶番においても、存分に効果を発揮していた。
「スポットライト」により、アイリンの魅力にプラス補正がかかるが、これもまた問題の種だ。息子のイドリスから見ても、アイリンは絶世の美女と言っても過言ではなく、補正によりさらに美しく見えるとあれば、抵抗力のない童貞男子の心を掴むのは必然である。
よりにもよってセルハンに見つかったのは不運としか言い様がない。それもアイリンの持つ「薄幸」というマイナススキルのせいだろう。運にマイナス補正がかかるとともに、身体が衰弱していく効果を持つ。
アイリンだけではなく、このハウラ隔離区の住人はいずれもそうだ。強力なスキルを有しながら、万全の状態で使うことができない。隔離区全域にかけられた呪いみたいなものだ。
いつかはなんとかしなければならない課題だが、今は喫緊の問題を片付けるべきだ。アイリンとセルハンが結婚するという悪夢を現実化させてはいけない。
もういっそのこと。自称平和主義者の思考はさらに危険な領域へと踏み出そうとしている。
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