底辺の派閥争い

 人が住むには適さないハウラ区の中でもとりわけ地獄のような場所がある。


 内外の城壁が合流する狭間がそれだ。


 元々皇城の中では低地に位置するハウラ区には他区の生活排水やごみなどが大雨になると流れ込んでくることがある。その狭間はさらに低い場所にあるから、廃棄物の最終漂着点になるというわけだ。


「相変わらずひでえ場所だな」


 靴底から伝わる汚水混じりの泥濘の感触は、イドリスの不快指数を急上昇させていく。さらに汚泥から一部の水分が蒸発して、不快極まる湿気が身体にまとわりつき、一秒ごとにイドリスの判断能力が奪われる。おまけに臭い。この世に存在する悪臭を煮詰めて、凝縮させてから、水に戻して、ぶちまけたかのようだ。


 ほとんど日の光が届かない深奥に向かって、イドリスは声をかけた。


「おい、豚! 来てやったぞ!」


「誰が豚だ、グルァ!」


 闇の奥からの反応は激甚にして、拙速だった。その激語に応じ、イドリスを取り囲むように松明が点されていく。


 いつの間にか、包囲されていたイドリスだが、慌てる様子は微塵もない。最初から知っていたからである。


 イドリスは「気配察知」や「生命感知」などの探索捜索スキルを一切持ち合わせていない。その代わりとなるのが、「ミュージックプレイヤー」というスキルだ。


 ミュージックプレイヤーの説明文は以下の通りだ。


「退屈な日常を彩る珠玉の名曲、是非ご堪能ください」


 説明文から得られる情報は何もないが、効果のほどはすぐに知れた。状況に応じて、文字通り音楽が鳴るのだ。イドリス以外には聞こえないようなので、最初は悪環境がもたらした譫妄か何かと勘ぐってしまった。


 これだけなら毒にも薬にもならないスキルとして、特に気にも留めなかっただろう。鬱陶しいのなら、スキルを発動させないようにすればいい。


 有用だと気づいたのは、「五感が察知するより早くこのスキルが発動」することだ。つまり、イドリスが包囲されている現状を「視認」するよりも早く、ミュージックプレイヤーは不安を煽る曲を鳴らしていたのである。過去に何度もこのスキルのおかげで危機を脱したこともあった。


 しかし、イドリスは危地に立っているとは思っていない。セルハンとその手下たちとは何度も喧嘩して、そのすべてに勝ってきたのだから、今さら恐れる必要はない。それを油断ととがめるものがいたら、イドリスはこう答えただろう。


「油断? 違うな。これは余裕というものだ」


 ミイラのように全身包帯に覆われた元維新志士が元新撰組三番隊組長の必殺の一撃を退けたときのような科白である。と言うよりも、そのままパクりである。


 しかし、今のイドリスに余裕はない。松明に何の油を染みこませているのかはわからないが、たまらなく臭い。元々の悪臭に加え、松明の臭いが加わり、それらが混じり合うこともなければ、ましてや打ち消し合うなんてこともなく、それぞれがイドリスの鼻腔を容赦なく殴りつけるのだ。


 あまりの汚臭に、イドリスの瞳が瞼の裏に隠れようとしては渾身の力で元に戻すということを繰り返している。何度失神しかけたか、数えるのも馬鹿らしい。


 こうなったら、用件は素早くすませるに限る。ここから先は時間との勝負だ。そのためなら、下げたくもない頭を下げることもできる。


「豚とか言って、ごめん!」


「え? あ、ああ、おう」


 普段、反抗的なイドリスが素直に謝罪したので、セルハンはどのような態度を取ればいいのかがわからず、不審者のように狼狽えている。


 ただ、イドリスの思惑とセルハンが受けた印象は、おそらく天地ほどの乖離があるだろう。セルハンなどと一緒にされた豚があまりにも哀れだったから、イドリスは豚に謝ったのであって、セルハンに頭を下げたわけではない。


 しかし、あえてセルハンの誤解を解く必要もないだろう。騒ぎを大きくしていいことなど何もないからだ。それよりもセルハンが動揺している今が攻め時だ。イドリスは会話の主導権を得るべく、先に話を切り出した。


「アルスランとベルクが邪魔してるんだってな? そろそろあいつらもおねむの時間でよ、引き取りに来たぜ」


 強引に連れ去られたことはおくびにも出さない。彼らの悪事を責めないことで、なけなしの良心が疼くことを狙ってみたのだが、イドリスは特に期待もしてなかった。セルハンとその一味にそんな上等な心的器官が備わっているとも思えなかったからだ。


 ただ、彼らは彼らなりに事情があったようで、イドリスの要望はすぐに受け入れられた。セルハンの命令で手下たちが後ろ手を縛られたアルスランとベルクを連れてくる。一見、特に怪我などはしていない様子で、イドリスは心の中で安堵の息を漏らす。こんな不衛生な場所で傷など負おうものなら、どんな感染症にかかるか、わかったものではない。


「水球」


 イドリスの両掌からそれぞれ頭大の水玉が浮かび上がる。表面が不定型な水球はイドリスの手から離れ、アルスランとベルクの頭上へと落ちた。全身ずぶ濡れになったアルスランはイドリスの行為の意味がわからずに、顔を拭くこともなく、ただ目を瞬かせた。


「おまえら、くっせえ」


 ここでようやくアルスランはイドリスの意図を察する。そんなに臭かっただろうかと、手元を鼻に近づけるも、すでに水で洗われた後だったので、何の臭いもしない。


「ここはおれに任せて、おまえらは風邪を引く前に、どっか日当たりのいいところで身体乾かしてこいよ」


「待って、イドリス! 喧嘩ならおれたちも」


「いいから、行けって。だいたい喧嘩になんかなりゃしねえよ。おまえだって、知ってるだろ? おれが平和主義者だってこと」


「初耳なんだけど」


 そう言いたいのを喉元で堪えたアルスランは曖昧に頷いた。イドリスはイドリスで、セルハン以上に面倒くさいときがあり、不要な発言はするべきではないのを、アルスランはよくわきまえている。何しろ赤子の頃からの付き合いだ。


 代わりにベルクの肩に手を置き、一緒にこの場を去るように促した。


「行こう、ベルク。ここにいちゃ、イドリスの邪魔になる」


「で、でも、イドリス一人じゃ、あ、危ない。オ、オデは残る」


「そのイドリスが一人でいいって言ってるんだ。それにさ、ほら、イドリスってぼっち体質じゃん? 一人じゃないと、力が出ない変態なんだ。だから、そういうの、おれたちがわかってやらないと、だろう?」


 誰が変態か。イドリスは心の中で不平を鳴らす。いや、アルスランの意図はわかるのだ。普段はその巨躯に似合わぬ気弱さなのに、まれに頑として動かなくなるベルクをここから退けるためには方便が必要であることを。


 だからといって、誰かを貶める必要はどこにあろうか、いや、ない。先刻、セルハンを豚にたとえたことを頭からきれいに忘れているイドリスは、自分がどこまでも被害者であると信じて疑わない。


 とはいえ、今は被害者アピールをするわけにもいかない。アルスランたちとの間に隙があると、セルハンらに思われるのも面倒だ。


 あとでアルスランには角の立たない説得術を伝授してやらねばなるまい。アルスランには人当たりの良さを活かして、今後とも折衝を担当してもらうことになるのだから、なんともちょうどよい。


 アルスランはどこからともなく漂う悪意の波動を感じ、思わず身震いした。一刻も早くこの場を後にせねば、との焦燥感に襲われたアルスランはイドリスから離れたがらないベルクの背を押しながら、いそいそと去っていく。


 アルスランとベルクがセルハンの包囲網を脱し、追いかけてもひとまずは安心できる距離まで離れたのを確認したイドリスは再びセルハンへと向き直る。


「悪かったな。待たせて」


「いいさ。おれとおまえの仲じゃねえか」


 一体どんな仲だったか。いくら考えても、最悪な結論しか出てこない。これがセルハンの精神攻撃だとすれば、ずいぶんと知恵をつけたものだと称賛したくもなる。


 不利な状況を自覚したイドリスは攻勢を避けるために話題を変えることにした。


「それよりさあ、おまえら、こんな所を根城にするなよ。病気になるぞ」


 セルハンの手下たちがイドリスに同意するように何度も頷く。彼らも好き好んでこの場所にいるわけではないようだ。


 しかし、セルハンは違った。集めた廃材の上にぼろ布を敷いただけの玉座に座る彼は傲然とふんぞり返る。


「はっ! こんくらいで病気になるほど弱いやつはここにゃいねえ!」


 セルハンの広言に、イドリスが驚く以上に手下たちの顔に驚愕と絶望が広がる。以前と比べ、頭数は減っている。実際に病を得たものもいるからだ。そこに気づかないのが、セルハンという男であった。


 少しは身内に気を遣ったらどうだ。イドリスは心の中で忠言を発した。実際に口に出さないのは、セルハンに利することをするのが単につまらないからだ。いずれ雌雄を決することになるかもしれない相手の力を増大させるのは愚行の最たるものであろう。


 手下を顧みないセルハンではあるが、だからといって、彼らに自壊する兆候はない。セルハンは人徳と人望で人をまとめるという類ではなく、手下は親分を信頼しているわけでもないのに、集団としての体を保っている。


 理由は単純にして、明確だ。セルハンがただ強いのである。このハウラ隔離区では強者が正義と同義であり、支配者として弱者に君臨する資格を有しているというわけだ。区長の息子という肩書きも多少は影響しているが、決定的なものではない。こんなスラムで王を気取ったところで笑止なだけだからだ。


 強さこそ正義という意味ではセルハンに何度も勝っているイドリスが彼らの上に立ってしかるべきだが、いまだにそうなっていないのは納得しがたいところだ。


 なんか腹立ってきた。


 不条理な現実を前に、自称平和主義者の思考は危険水域に達しようとしていた。

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