第一章 星の物語・前日譚
隔離区の少年
第三の大陸オクシデリア。
その中央には千年の栄華を誇るサンタ・エストレア皇国が存している。
皇都エスメラルダは大陸の翠緑玉と呼ばれるほどの美しさを誇り、北は大いなる内海アルジェントゥム・マーレを望み、南は豊穣なる大平原リャヌラ・フェルティリが広がり、東は魔族の国ベスラへと続く大山脈マアヌオウビを睨み、西は大森林シャンテ・ラ・フォレを見霽かす。
絢爛たる都は光り輝いているが、光が強い分、影はより濃く現れる。
皇都エスメラルダの東地区、城壁が二重になっている箇所がある。城壁に挟まれた矮小な区画は「ハウラ隔離区」と呼ばれていた。生粋の都人ですら知るものは多くない。おまけにその周囲は治安も悪いとあっては、善良なる人々の足は遠のくだけだろう。
ハウラから見る空はとても狭く、日の光は正午前後しか射し込まない。ほとんど廃墟に等しい家屋の屋根の上に少年が一人寝そべり、何事かを呟いている。
「……つまりだ、異世界転生には二つの潮流があって、一つは女神などの超越者が招喚することにより、転生者に何らかの目的を強いる、あるいはそのように誘導することで目的を果たさせるってものだ」
「あ、いたいた。おーい、イドリスー?」
屋根の縁から顔だけ出した少女が呼び掛けるも、イドリスは何も答えなかった。無視したわけではなく、思索に没頭していたため、少女の存在に気づかなかっただけだ。もっとも、結果として無視することにはなったわけだが。
「ほほーう、このアスリちゃんをシカトするたぁ、いい度胸だ」
「……二つ目は何の条件もなく転生させられることだ。おれはこっちになる。好きにやれていいんだろうけど、やっぱ女神さまには会いたかったよなあ。贅沢は言わないから、駄女神でもいい! むしろ青髪の駄女神をくださふぁっ?」
異世界考察からの浅ましい欲望垂れ流しの妄言を吐いたところで、強制的に中断させられたのは、自分の顔に落ちかかる頭大の石が見えたからだ。あまりにも非現実的な光景に意識は白濁したが、身体は生命の危機を察知し、素速く回避行動を取った。
一瞬前までイドリスの頭があったところに石が落ち、その勢いは留まることを知らずに屋根を突き破った。さらに屋根裏を突き抜け、二階の床で留まったかのように見えたが、やはりその重さに耐えきれずに割れ落ちる。一階の天井まで貫いて、その床でようやく物言わぬ石の破壊活動は収まった。
イドリスは眼前の穴を呆然と凝視した後、あまりの出来事に白髪頭をかきむしった。
「あーあーあー、この前直したばっかりだってのに……くそっ! 一体誰がこんなひでえことを?」
心当たりなら腐るほどある。関わり合いたくはないというのに、向こうからわざわざちょっかいを出してくる連中がいる。おのれ、この恨み、どう晴らしてやろうか。イドリスから黒い炎が立ち上りかけたところ、そこにぬるま湯をぶっかけたものがいる。
「あ、それやったのあたしでーす」
まさか犯行現場で犯人が悪びれることもなく、むしろ功を誇るように名乗り出てくる経験など、前世と通算して二十八年の人生一度もなかったので、イドリスは困惑の極みに陥った。
感情と状況を整理できないまま、自供した犯人に対する尋問を始める。
「え……と、おまえ……何でこんなことを?」
「だって、イドリスがシカトするんだもん」
アスリから犯行動機を聞いたイドリスはつい反論に窮してしまった。周囲の音が聞こえなくなるほど妄想癖がひどいのは自分でもわかってはいるが、二週目の人生における環境がここまで劣悪だと、妄想に逃げたくもなるというものだ。
アスリの言い分に一理を認めながらも、イドリスはさらに踏み込んで尋ねた。
「で、何回呼んだ?」
「一回だけだけど?」
たった一回の無視で自宅を半壊させられたのか。イドリスは額を手で押さえ、盛大にため息をついた。たしかに自身に非はあれど、殺人未遂と器物損壊の罪を犯したアスリのほうがよほど凶悪である。
いかにして、この無垢にして、無知なる犯罪者に秩序の尊さと遵法の精神を説いてやるべきか。硬軟いくつか方法を考え出したとき、不意に階下で誰かが激しくむせる声がイドリスの鼓膜を震わせた。
「や、やべえ! お袋、大丈夫か?」
二階で母アイリンが伏せっていたことを、一時的に失念していたイドリスは慌てて、階下に呼び掛けた。
「だ、大丈夫よぉ……がはぁ!」
応えるアイリンの声は間延びして、平穏そうに聞こえたが、直後に盛大に血反吐を吐いた。急を要すると断じたイドリスは軽業師のように屋根に明いた穴から飛び込んだ。
寝室に降りるやいなや、ベッドの傍の戸棚から薬瓶を取り出す。苦しそうに咳き込むアイリンの背中をさすりながら、ゆっくりとポーションを口元へと流し込んだ。
しばらくして、薬が効いてきたのか、アイリンの血色が戻り、咳も治まった。
「やっぱりイドリスが作ってくれたポーションは最高ねえ。お店で売ってるのより、なんていうか味が濃いというか、コクがあるというか、とにかく美味しいのよね」
「食レポ雑。そういうのいいから、寝てろって……って言うか、これじゃ眠れねえな」
寝室は未だ埃が充満して、身体の弱いアイリンが休息できる環境ではない。
「しょうがない。今日はおれのベッドで寝てくれ。ここは後で片付けておくから。なあ、アスリ?」
イドリスが首を巡らせた先にアスリが身を縮こまらせる姿があった。アスリはおずおずと寝室に入ってくるなり、勢いよく頭を下げた。
「おばさん、ごめんなさい!」
「いいのよ、アスリちゃん」
柔和に微笑むアイリンはまさに聖母のごとき慈悲に満ちていた。その上、天井の穴から射し込む陽光が偶然アイリンの背後に落ち、埃が光を乱反射して、まるで後光が差しているかのようでもある。
しかし、アイリンはすぐに表情を改め、一つ咳払いをすると、声を張り上げた。
「でもね、わたしのことはおばさんじゃなくて、お義母さんと呼びなさいっていつも言ってるでしょ!」
「そうだった!」
驚き、飛び上がるアスリを見て、何やら不穏な寸劇が始まることを察知したイドリスではあったが、口を挟むタイミングをすっかり失っていた。強制的に止めさせようと思う間もなく、次の舞台の幕はすでに上がっている。
アイリンとアスリ、お互いを見つめるその瞳はいつしか熱と湿り気を帯びている。感情が高まり、弾けた瞬間、二人は抱きついた。
「お義母さん!」
「アスリちゃん!」
二人が抱き合うその様はそこだけスポットライトに照らされたかのように世界から切り離され、神々しくも空々しい宗教画のようである。
「おれは何を見させられてんの? つうか、なあに、これえ?」
一人光の中に入れず、舞台袖の薄暗がりに取り残されたイドリスは脱力した声でこの空虚な芝居の意味を問うた。答えなど期待してないし、そもそもこの二人の思惑など知りたくもなかったが、アイリンが得意顔をしながら、深慮遠謀を語って聞かせてきた。
「だって、イドリス、女の子にモテないでしょ?」
「がふぅ!」
実母から絶対に言われたくない科白ランキングがあるとすれば、確実に上位にあるであろう言葉の暴力に、心の中で吐血したイドリスは身体の芯からくる震えを抑えて、どうにか体勢を立て直そうと試みる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよお。おたくの息子さん、そこそこいい線いってると思うだけどなあ」
「そうねえ。顔はいいんだけど、顔だけじゃねえ……」
「べふぉ!」
本日二度目の精神攻撃により、イドリスは真っ白な灰と化した。もうこのまま二度目の人生を終わってもいいとの考えが頭をよぎる。
「そこでわたし、思ったのよ。今のうちにアスリちゃんを囲っておけば、イドリスは独り身にならなくてすむんじゃないかって」
「任せて、イドリス! イドリスがどんなにふつつか者でも、あたしがまるっと面倒見てあげるからさ!」
なんと頼もしい。イドリスは感動のあまり、涙が出そうになったが、あいにく瞳は砂漠よりも乾いていて、一滴も出ない。
いつまでもこの狂言につきあっていると、脳が破壊されそうだったので、イドリスは強引に話題を変えることにした。
「うん……まあ、それは追々考えるとして、アスリ、おまえ、おれになんか用があるんじゃなかったのか?」
水を向けられたアスリはしばらく考え込むように視線を宙に漂わせ、ややあってから目と口を丸くした。
「あ、そうだよ! イドリスがギャーギャー言うから、すっかり忘れちゃってたじゃん!」
自身の名誉のためにも異議を唱えたいところではあるが、これ以上話が長くなるのは、精神衛生上大変よろしくないので、イドリスは文句と涙を一ダースほど飲み込んだ。
忍耐の甲斐あって、ようやくアスリから用向きが伝えられた。
「アルスランとベルクがセルハンの手下に連れ去られちゃったんだよ!」
「ええ~、またあ?」
アスリの口からセルハンの名前が出た途端、イドリスは顔のみならず、全身を使って、遺憾の意を表明する。
「違うってば! アルスランもベルクもイドリスの言いつけを破ってないよ。セルハンのほうから来たんだってば!」
たとえそうだったとしても、イドリスの感想が変わることはない。セルハンとその一味の姿を見たら、避けるよう言い含めてあったし、仮に不意を衝かれたのだとしても、油断するほうが悪い。余所ではいざ知らず、この隔離区では法など意味を持たず、隙を見せたほうが怠慢として責められるのだ。
環境に適応できなければ、待つのは死のみ。適者生存の理から外れたアルスランとベルクを切り捨てても、文句は言えない立場だ。
だとしても、見捨てるわけにはいかない。人情的なものも確かにあるが、イドリスがこの先やりたいことをやるための人材としても、彼らは必要だからだ。
「しゃーねえな。ちょっくら、行ってくらあ」
イドリスは頭を掻き回しながら、気怠げに呟いた。彼をよく知るものからすれば、偽悪趣味の表れとして、微笑ましくあるのだが、今日のイドリスはひと味違った。特にアスリにとっては。
「あ、そうだ。おれが帰ってくるまでにその瓦礫、片しておけよ、アスリ。あとお袋の面倒もな。やってなかったら、今日の晩飯ぬきな」
アスリの顔が絶望で青ざめているのを横目に、イドリスはこれ以上反抗されては敵わないとばかりに脱兎よりも素速く出て行った。
言葉の効果はすぐに現れた。背後から片付けているのか、あるいはより汚しているのか、わからないほどの騒音が届いたからだ。イドリスはほくそ笑みながら、爪先をセルハンたちの溜まり場へと向けた。
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